ポアロで働いているときのことだ。
客足の多いランチタイムがようやく過ぎ、店内の中がひとまず落ち着いたかと思えば、何やら学生がぞろぞろと来店してくる。時計を横目で確認すれば、まだ2時過ぎだ。注文を取るタイミングに、授業はどうしたのかと尋ねてみれば、なんと今日は午前授業だったのだという。
ある意味、ランチタイムより騒がしくなった店内をカウンターから眺めていると、隣にいた梓さんが「やっぱり放課後のJKはテンションが高いこと!羨ましくなっちゃいますね」と笑う。確かに、常連で良く来てくれる蘭さんは比較的大人びているが、やはり女子高生。だいたいは園子さんたちのように元気な子が多いという印象を受ける。そんなときだ。
「ねえ、幻のドーナツって知ってる?」
ひとつのテーブル席でお茶をしていた女子高生たちの会話を小耳に挟み、なんとなしにそれを聴き続けることにした。幻のドーナツなんて、興味の注がれる名前だな。
「知ってる! 昨日テレビでやってた!」
「杯戸町のケーキ屋に売っているでしょ?」
「そう。それを食べたらもう他のドーナツ食べられないってくらいに美味しいらしいの」「チョコレートと食感がもう最高らしいんだよね…」
「でもね、1日に50個限定の販売らしいから即売り切れなんだって聞いたよ」
「ええ!」
「その上、朝の7時に開店だから 早起きなおじいさんおばあさんたちが強いらしいよ…」
「でも…」
「食べたい〜!」
杯戸町のケーキ屋、1日50個限定、朝7時に開店、幻のドーナツ。頭の中で全てメモをしてから、今日と明日のスケジュールを思い浮かべた。――よし。
シフトの入っていた閉店時間までポアロで働き、それ以降はバーボンとして、ベルモットと共に組織が前々から狙っていたターゲットの監視を続けていた。監視というものは、基本的に収穫があるまで終わりはない。時間を確認すれば、日付けなどとっくに超え、朝の5時だった。隣でベルモットものんびり欠伸を浮かべており、微量だが収穫も得れたため今回の監視はここで終了となった。彼女をホテルまで送り届け、時間を再び確認すると5時半過ぎ。果たして今からでも間に合うか。
杯戸町へ車を飛ばし、お目当の場所へ到着する。そこには既に年配の方がちらほらと並んでおり思わず圧倒される。さすがの人気ぶりだ。
到着して数分後、ようやく開店となり俺は店の中へ足を進めた。目の前に広がった光景に、思わず俺が目を輝かせそうになった。
・
・
・
警察庁に一旦寄り捜査報告をしていると、既に登庁時間になっており、いろんな上司、部下や同僚たち、そして例外なく風見とも久々に顔を合わせた。そして、自分のデスクの上にたんまりと溜まった資料を見て、思わず溜息が漏れる。少しだけ事務処理を終わらせるか。するとそのとき、風見が目を丸めた。
「降谷さん、仮眠室で一旦お休みされてはどうですか?」
「……なぜだ?」
「いえ…、 少しお疲れのように見えましたので」
「そうか。そうしたいのは山々なんだが…休むなら家が良くてな。少し片付けたら帰らせてもらうから心配いらん。大丈夫だ」
「そうなんですか」
それに何より、仮眠しては時間がもったいない。早くにも家へ帰ってあいつに会いたいんだ。
少しだけ仕事を片付け、ついでにシャワーを浴びてから帰宅すると、すっかり太陽も空高くに昇っていて朝の10時になっていた。エレベーターにいる僅かな時間でさえも、気を抜くと眠ってしまいそうだ。
インターホンを鳴らすと、センサーで俺の顔を確認したのかすぐさま鍵が解除され、それは開けられた。ドアの向こう側にいた眩しい笑顔に、またもや癒される。朝帰りの俺にも、すっかりと慣れたようだ。
「おかえりなさい、零くん」
「ああ、ただいま」
「今日もお疲れ様。シャワーは…浴びてきた?」
「さっきまで庁にいたから、ついでにな」
「そっか。でもまだ髪濡れてるよ?ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
そう言いながら俺の髪を掻き毟る嫁の手を片手で止め、その至近距離のまま俺はもう反対の片手で持った袋を持ち上げた。
「嫁、」
「…なーに?」
「お土産。買ってきたんだ」
「ふふ、実は気になってた。なになに?」
楽しみだといわんばかりのニコニコとした笑顔を浮かべながら、嫁は俺から袋を受け取った。袋に顔を突っ込むほどの勢いで、中身の箱を開ける。すると、しばらく黙り込んでいるなかと思えば、「ひぇっ!?」と小さな悲鳴が聞こえた。
「こ、こここれって!」
箱の中身を何度も見返す嫁が可愛くて、思わず笑みを溢れる。
「あ、あの、幻のドーナツ!?」
「あぁ」
「うっそー!この前テレビでやってた! これって朝早くに並ばないと買えないやつでしょう?」
「庁に行く前、ちょうど開店前の時間だったからな。寄ったんだ」
「そうなんだ… ありがとう!娘と食べてみたいねって言っていたところだったの!」
わあ、本当に嬉しい。娘が帰ってくるまで冷蔵保存でいいかな?常温でも大丈夫かな。ぶつぶつと小言を呟きながら台所辺りをウロウロと彷徨う嫁をみて、何年経っても嫁には癒されるな、なんて思いながらその様子をずっと眺めていた。少し時間はかかってしまったが、買ってよかった。この笑顔を見るだけで価値は十分に、いや十二分にある。あの女子高生たちに感謝しないとな。
しかし、しばらく満面の笑みを浮かべていた嫁だったが突然何かを思い出したかのように俺の方を見つめた。そして、じりじりと距離をつめてまるで尋問をしているかのような険しい顔で俺を追い詰める。
「零くん」
「…何だ?」
「何日寝てない?」
少し身構えていたが、その質問を聞いて肩の力が抜けた。なんだ、そんなことか。
「何日って、お前は大袈裟だな」
「ちゃんと質問に答えなさい」
「…」
「はい、何日ですか?」
「……3日、程じゃないのか」
すると、嫁は参ったといわんばかりに眉を下げて笑った。そして、背伸びをして俺の頭をしばらく撫で続けた。更に距離が縮んだため、俺は嫁を胸の中におさめた。すっぽりと自分の胸の中にはまる嫁も、頭を撫でる嫁の手も、全てが心地良くて、それだけで目を瞑れば今すぐにでも眠れる。
「…次はいつ家を出るの?」
「明日の昼だ。今日はもう何もない」
「了解です。それじゃあ、」
背中を押され、寝室へと向かわされると寝巻きを渡され 問答無用といった嫁に苦笑しながら着替える。まあ、無論俺も抵抗なんかするわけもないが。
ベッドに上がり、3日ぶりの布団に入れば、それまで我慢していた眠気が一斉に襲いかかる。なんとか最後の力を振り絞って目を開けると、嫁が柔らかく笑っているのが見えた。
「娘が帰ってきたら、幻のドーナツ食べさせてもらうね」
「……あぁ」
「ゆっくりおやすみなさい」
「……」
瞼が重くなり、勝手に視界が黒くなる。意識もどんどんと遠ざかっていくとき、「本当にお疲れ様」という声が小さく聞こえ、唇に柔らかい感触が残っていくのを感じながら 俺は完全に意識を手放した。
――そして数時間後、幼稚園から帰ってきた娘が幻のドーナツの存在を知り、そして数日ぶりの俺の帰りに、心底嬉しそうにベッドに侵入してくるのはまた別の話だ。
「パパ!パーパ!幻のドーナツ美味しいよ!パパも食べよーよ!」
「頼む…もう少しだけ寝させてくれ…」
「こらー!娘!お布団の部屋に入っちゃいけないって言ったでしょ!!」
//170807