大学に入学してから、俺は良く図書館にいることが増えた。高校の頃では比にならないくらいの規模の大学の図書館は、今まで読んだことも題名を見たこともない本がごまんと並んでいる。同じ学部で知り合った奴らには合コンやらその類の誘いが増えてきたが、全くもって興味がないのでいつも断り、かといってバイトがない日はやることも無いからこうして図書館に俺は住み着くようにして本を読んでいた。

 そんなある日のことだった。試験の一ヶ月ほど前。推理物が並んだ一覧の中から本を選びながら、後一、二週間もすれば、テスト勉強をしに図書館へ訪れる学生が増えて静かに本を読めなくなるなとぼんやり考えていたときのことだった。コトリ、と静かな図書館に物が落下したような音が聞こえた。自然と振り返れば、そこには女が一人で勉強している姿があった。どうやら先ほどの音は、彼女がシャーペンを落としたものだったようだ。それにしても、一ヶ月前から勉強なんて熱心な奴だなと感心しつつ、俺は再び本棚に視線を戻した。



 翌日も、またその翌日にも彼女は同じ席で一人教科書やらノートを広げ勉強をしていた。推理物が並ぶ本棚の、すぐそばの机で。今日もいるのか、と特に気に留めもせずに俺はズラリと並ぶ本の背表紙を一つずつ眺めていく。すると、そのときだった。

「あっ」

 小さく声がして、そちらを振り返った。勉強していた彼女がこちらを見てなぜか目を丸くしている。 何事だと、俺も彼女の視線に沿うように振り向けば一つの掛け時計があった。恐らく彼女は時間を見ていたのだろう。
 それから、バタバタと教科書やらノートやらを忙しなく片付けて彼女は早々と立ち去った。その様子を横目でなんとなく見ていた俺だが、彼女が座っていた机にふと目を向けると、ある小さなものが置き去りにされているのを見つけた。

「……」

 消しゴムだった。多分、いや確実に彼女のものだろう。最近で一番といって良いほど俺は悩んだ。消しゴムを忘れたくらいなら、どうにかなるだろう。教科書やノートでもあるまいし勉強には困らないはずだ。いやでも、真っ先に俺は気が付いたのにこのまま放置するのも如何なものか。背後の掛け時計が、チクタク、と静かに焦らしてくる。散々考えた挙句、俺は決意してその消しゴムを手に取った。








 急いで図書館を出て、エレベーターを使い下階に向かい外へ出た。まだそう遠くへは行っていないはずだ。俺は足を速ませながら、彼女の姿を見つけるのに目を凝らした。顔は彼女が時計を振り返ったときに見て、脳の中にインプットされている。服は確か白のブラウスにベージュのスカートだったはずだ。髪型だって覚えている。それらしき姿をくまなく見回し、図書館からはどんどん遠ざかっていく。一向に見つからなくて、もう駄目かと諦めていたそのとき。

 見つけた。


「待て!」

 キャンパスを今にも出ようとしていた彼女を止めようと、つい声を張り上げてしまった。彼女同様にキャンパスを出ようとしていた学生の視線が一気に突き刺さる。しかし、彼女も俺の声が耳に入ったようで足を止めてこちらを振り返っていた。やはり、彼女で間違いない。
 少しだけ息を肩ですぐ整えて、俺は彼女の方へ歩み寄る。すると当人はまさか自分だとは思ってもみなかったのだろう、不思議そうに首を傾げていた。

「え? な、なんですか?」
「これ」

 頭いっぱいに疑問符を浮かべている彼女に、消しゴムを置いた手の平を差し出す。すると、一瞬ぽかんと口を開けてから漸く状況に気が付いて「私の消しゴム…?」と俺に確認を取ってきた。それに俺は頷くと、彼女の顔色がだんだんと変わる。

「図書館に忘れていたから」
「えっ、まさか追いかけてくれて……?」
「……まぁ」
「うそ! うわっ、どうしよう、そんなわざわざ」

 あわあわと小動物かのように慌てふためいている様子を見ていると、思わず笑みが溢れる。

「ごめんなさい、私そんなの知らずにずかずかと早足で……」
「そうだな、女にしては随分と歩くのが早いと思ってたんだ」
「ふふ、ちょっと急いでいて。本当にありがとうございます」

 少し意地の悪いことを言ってみたが、彼女はへらりと笑ってのけた。その反応に、無意識に目が丸くなる。すると彼女は「そうだ!」と何か閃いたかのように手の平をパチンと重ね合わせた。

「何かお礼させてください!」
「は?」
「今からお時間、空いてますか?」

 そもそもお礼をされるほどのことなんてしていないし、まず彼女は急いでいる用事があるんじゃないのか? そう尋ねると、「急いでますよ! あなたも一緒に行きませんか。奢ります!」と満面の笑みで誘われる。普段ならやんわり断って、また図書館へ戻るはずだが――なぜか俺はその誘いに頷いてしまった。







「……極上生チョコケーキ?」

 連れて来られたのは、大学から徒歩五分ほどの駅前に佇んでいるとあるケーキ屋だった。店前に置かれたブラックボードには「本日限定発売!ふわっとろ〜り 極上生チョコケーキ! 先着30名様!18:00より発売開始」と大々的に書かれている。腕時計で時間を確認すれば、今は十七時過ぎだった。とはいえ、既に高校生などの若い客から高齢の客まで老若男女構わずちらほらと並んでいる。まさか急いでいた理由って、これだったのか……。

「甘いもの、お嫌いですか?」
「いや、食べられるけど」
「よかった! 私、甘いもの大好きで。少し並んじゃいますけど……」

 確かに、発売開始までまだ三十分以上はある。といっても特段待つのが嫌いな訳ではないし構わないと頷いた。おかしいな、消しゴムを手にした辺りから自分で言うのもなんだが、らしくない。

「あの、消しゴム、本当にありがとうございます」
「律儀だな、何度も」
「いやいや! ……そちらこそ、優しいんですね。見ず知らずの人の忘れ物を届けてくれるなんて、しかも消しゴムなのに」

 それは確かに、俺も思う。たかが消しゴムなのに、とは。普通なら俺だって見捨てる、という言い方は悪いが知らないふりをしていただろう。なのに、何が俺をそうさせたのかはさっぱり分からない。消しゴムを手に取った時はまさかケーキ屋に来るなんて思ってもみなかった。

「何年生ですか?」
「二年だ」
「あれ、同じだ」
「え」
「ふふ。今年で二十歳?」
「あぁ」
「じゃあ同い年」

 すごく大人びて見えたから、年上かなって思ってた。おかしそうにくすくすと笑う彼女を見て、また口角が上がる。胸がざわつく感覚がした。――俺も年下かとは思っていた。というより、二十歳には全く見えないな。高校生といっても正直通る気がするくらいには。

「それにしても、最近図書館で毎日勉強しているな」
「えっ、知ってるの?」
「あぁ……その、俺もよく図書館にいるから」

 さっきの言い方だと、まるで毎日俺が彼女のことを見ているようだ。いや、あながち間違いではないかもしれないが。少し弁解するようにそう言うと、「そうだったんだ」と彼女は何の疑問やらも抱かずに素直に頷いてくれた。

「勉強で?」
「いや、本を読むためだな」
「へえ…!」
「そっちは試験勉強か?」
「うん。そうだよ」
「勉強始めるの、早いんだな」
「私、覚えるのとかすっごく苦手で……だから、ちょっとでも早く始めようと思ったらいつも一ヶ月前とかになっちゃうんだよね」

 理解力がある人だとか、記憶力が良い人はテストの数日前だけ勉強するとか言うもんね、羨ましいな。夕暮れかかった空を見上げながら彼女はそうぼやく。……試験の二、三日前しか勉強していないなんて言ったら彼女はどうなるだろうか。

「ねえ、名前聞いてもいい?」
「ん」
「私は苗字名前っていうの」
「俺は、降谷零だ」
「降谷くんね、了解………ん?」
「?」
「降谷零……?」

 だんだんと彼女の顔が怪訝そうな表情へと移り変わっていく。何か心当たりでもあるのだろうか。俺は彼女と今日初めて喋るし、彼女の名前も初めて知ったが。
 しばらく彼女は悶々と考えてから、閃いたように俺を指差した。口をあんぐりと開けながら。

「しってる!」
「は?」
「すっごい格好良くて賢くてモテる人って聞いた! 多分、降谷くんと同じ学部の友達から」

 格好良くて、賢くて、モテる人? 俺が? 目の前の彼女に尋ねれば、こくりと頷かれる。そして、「これで消しゴムをわざわざ追いかけて届けてくれる人って言ったら、友達更に好きになっちゃうだろな」なんてのんびりと笑ってる。

「わざわざ追いかけてくるなんて、少し面倒な奴と思われないか?」
「そんなことないよ!」
「…そうか?」
「うん。私は、すっごく良い人だと思うし」

 すごく素敵で、好きだな。

 目を真っ直ぐに見つめられて、真剣な表情でそう告げられる。その瞬間、なんだか胸ががしりと掴まれた感覚に陥って。だけど舞い上がるような、そんな新鮮な感情だった。そしてそれは確信めいたものに変わっていく。だいたい分かっていたんだ。図書館で、彼女が掛け時計を振り返ったあの瞬間から。彼女の顔を見たその瞬間から。消しゴムを届けて、嬉しそうに礼を言ってくれたあの瞬間から。――俺は間違いなく、彼女に惹かれていたのだ。


 しばらくして彼女は引き締まっていた表情をふんわりと緩めて、「あ!発売まであと五分切った!」と俺の腕時計を覗き込んで浮足立たせている。その様子が可愛いな、なんて思った。

 らしくないな、俺が一目惚れなんて。きっと俺が消しゴムを届けに行こうと思ったのも、なにかの運命なのかもしれない。まだ出逢ったばかりなのに、これからもずっと見ていたいなと感じさせるような彼女の笑顔に、つられるように俺はまた口角が上がったのだった。まだまだ未来を考えるなんておこがましいが、とにかくこの想いを伝えるのはタイミングを見ないといけないな。数年後、彼女が人生のパートナーとして隣にいるなんてことはつゆ知らずに、俺は極上生チョコケーキが発売されるその瞬間までそんなことを一人で考えていたのだった。

//180313 @あとがき