Saiougauma


君の恋はわかりにくい


※社会人設定
※年上主人公


「まーたこんな時間まで残ってんの?」

声を認識するより早く、ヒンヤリとした何かが無防備だった首筋に当たる。殆ど反射的に首を抑え振り返ると、つまらなさそうな顔をしたカルマ君がこちらを見下ろしていた。
時間も忘れて無心で取り組んでいた仕事から一気に現実に引き戻され、頭は靄がかかったようにボンヤリとして、フワフワと地に足が足が付いていないような心地だった。そんな私を見て彼は「ん」とマグカップを差し出す。定まらない思考のまま受け取ると、黒い水面が静かに揺れた。
渡されたコーヒーを喉に流し込むと、苦味と爽やかな香りが鼻を抜ける。普段はミルクと少しの砂糖が入ったカフェオレの方が好きだけれど、仕事中は何も入れないブラックコーヒーを飲むことを知っているのは彼くらいだ。
熱い液体が喉を潤し、知らず冷えていた身体がじんわり暖まる頃には、頭にかかった靄はすっかり消えていた。

「ありがとう、カルマ君もこんな時間までお疲れ様」
「別にー?俺が来なかったらなまえさん、また飲まず食わずで朝までコースだったでしょ」
「あはは……」

多分、彼の言う通りになっただろうことは否定できない。予てから彼には何度も注意されてきたことだけに、曖昧に笑って誤魔化す他なかった。

何を話すでもなく、静かな時間が流れた。何だかんだ長い付き合いの彼とは今更無言が気不味い理由でもなく、身体に溜まる疲れを少しでも取り除こうと背もたれに沈み込む。このまま寝てしまいたい衝動は、継ぎ足されたコーヒーによって抑えられた。
既に空の隣のデスクに凭れる彼は、いつもと変わらない、読めない表情のまま相変わらず不思議な味の紙パックを手にしている。鯖の味噌煮オレとは果たしてジュースなのだろうか。
突っ込むまでもなく日常と化してしまった彼の嗜好品を眺めていると、灯りも消えた部屋の隅を見ていた彼がふと、こちらを見下ろした。

「なまえさんさぁ」
「うん?」
「料理得意じゃん」
「まぁ……作るのは好き、かな」
「家でそれに専念したら?」

頭を鈍器で殴られたようだった。暗に転職を促されてるようで、私がこの職に就くために必死だったことを知っているはずの彼にだけは言われたくなかった。
ショックで何も言えずにいる私を、彼は無表情で見下ろす。いや、正確には彼は無表情であろうと必死で表情筋を殺していただけなのに、二徹目の冴えない頭では彼がいつものように意地悪を言っているようにしか思えなかった。

「私、この仕事が好きでやってるの」
「新卒2年目の後輩に先を越されたのに?」

グウの音も出ない。私は決して仕事が出来ない訳では無い。けれど、彼は異常な程仕事ができた。その結果、本来私に任されるはずだった大きなプロジェクトは、彼の熱心なプレゼンと周りの推薦もあって、彼に託されてしまった。
恨んでいる訳では無い。ずっと昔から彼はなんでも器用にこなし、年を重ねる事に大人としての処世術も身に付け、欠点を探すのも困難なほど優秀な人間になっていた。
今まではどう足掻いても覆しようのない『年の差』で、彼に追いつかれることはなかった。けれど、社会人になった今、彼は私を一気に追い越そうとしている。
絶望にも似た感情が胸を渦巻き、何を言われるのか、今この状態ではいつもの皮肉や的確で痛烈な批判を受け止めきれる自信がなかった。

「なまえさんが今考えてる事当ててあげよーか」

目が合えば自分の情けない感情まで読まれてしまう気がして、顔が上げられなかった。けれど、降ってきた言葉はそんなことをしても無駄だとでも言うように胸に刺さる。

「俺に追い越されたくない、置いて行かれるから、とか考えてるんでしょ」

この場合無言は肯定だが、彼を相手に言い返す言葉も思い浮かばず、結局口を閉ざす他なかった。情けない。年上なのに。年上だなんて、みっともないプライドだ。
身体が疲れている時は心も弱くなる。年甲斐もなくこみ上げる涙を零すまいと、唇を噛み締めれば、乾いたそれが切れて血が滲んだ。デスクに手を付き顔を覗き込んだ彼は、「あーあ、痛そ」と呟いた。

「……ごめん、今ちょっとそういうの受け止めきれない」

震える声でかろうじて一言、抗議をする。常に容赦のない物言いをする彼だが、今日は一段と抉られるな。何か彼の気に障ることをしただろうか。嫌われる、のは嫌だな。
そこまで考えると、遂に目尻に溜まった涙が頬を伝った。こみ上げる嗚咽を抑えるために深呼吸をしようとしても、上手く呼吸ができない。蓄積された疲労が、一気にのしかかってくるようだった。
せめて情けない顔を見られたくなくて俯くと、隣にいる彼が動く気配を感じる。ついに呆れられたか。泣き顔を見られないだけマシかと上手く働かない頭で考えていると、離れるどころか目の前に立たれる。女物のパンプスは違う、よく磨かれた質の良い革靴だけが視界にあった。

「なまえさん」

名前を呼ばれ、肩を揺らす。顔は上がらない。もう一度、今度は驚くほど優しい声音で呼ばれるが、やはり顔は上げられなかった。
冷静になろうと目を閉じる。今まで感じなかった眠気が急激に訪れて、遠退きそうになる意識にぼんやりしていると、不意に顔にかかる息を感じた。
目を開けるのと顎を掬われるのとどちら早かっただろうか。意識が現実に戻る頃には息ができなくなっていたし、開いた目に映るのはいつか見た夕焼けのように真っ赤な髪の毛だった。

「カル、」
「ちょっと黙ってくんない」

吸い付いては離れ、また噛み付くように唇を合わせる。絆されそうになる意識と、他に人がいないとは言え職場ですることではないと抵抗する理性が綯い交ぜになって頭がショートしそうだ。後頭部と腰をがっしりと掴まれ、唯一動く腕を密着する身体に滑り込ませる。細く見えるのに無駄なものがない、引き締まった筋肉に覆われた胸板は、しがないOLの力で適うはずがなかった。
啄むように触れるだけのキスをしたと思えば、無遠慮に侵入してきた舌に翻弄される。疲れと眠気が限界の身体には強過ぎる刺激だった。息を吸うタイミングも分からないくらい責め立てられ、頭がクラクラする。

「俺さぁ、ずっとアンタのこと追いかけてたんだよ」

ようやく開放されたと思えば痛いほどの力で抱き締められ、もう抵抗する力も気力もない私はされるがままだった。耐えていたものを吐き出すように紡がれた言葉の意味が、上手く理解できない。

「どんなに頑張っても年の差なんて埋まるわけないじゃん。追いかけて追いかけて、ようやく手の届く場所に来たんだよ。今更逃がさねーよ」
「待って、何の話……?」

じわじわと時間差で脳が言葉を処理し始める。キスの余韻とは違う、期待に冷えていた身体に熱が宿る。都合良く解釈し過ぎだろうか。疲れているから、幻覚を見ているのだろうか。

「だからさぁ、俺の家でご飯作って待っててよ」
「……それって、毎朝味噌汁作ってください的な?」
「そうだよ。
……なまえさん、俺と結婚してよ」

ちなみに夢でも幻覚でもないからね、と念を押され、いよいよ感情のキャパシティが限界を迎える。カルマくんは何も言えないでいる私を面白そうに見下ろしながら、左手の薬指にそっと触れ、「指輪買わなくちゃね」と呟いた。




2017.2.24 執筆
2021.3.15 加筆
4つ上の先輩を追いかけ続けて同じ職場に入り、ついに先輩より大きな案件を任されるまでに成長したカルマがプロポーズする話

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