あ!ノスケさんだ!

知った声だった。
離れた距離から発せられた言葉だったのだろう。小さな音はそれでも私の鼓膜を揺らし、一時的にでも歩みを止めさせた。しかし、その肝心の言葉が誰に向けられての呼掛けなのか、そもそも人に対する呼掛けなのか、理解するのに数秒遅れてしまった。

キョロキョロと彷徨う視線が捉えたのは、ふわりと揺れる黒。女性と呼べる一歩手前の少女だった。あどけなさを残す表情をこれでもかと綻ばせ、またも「ノスケさぁーん!」と人名であろうそれを叫ぶ。キラキラと目映い笑顔で手を振りながら、誰かの名を。否、恐らくは私の名を。

「なんだ?それは」

数日振りに出会した彼女は私のところまでやって来ると、私の手を両手で握りしめながら「久しぶり!」と幼い顔を更に幼くして笑うものだから、私も釣られて綻んでしまう。

頭に手を乗せポンポンとニ、三度軽く叩く。そしたら決まって彼女はあのね、あのね、と最近の事を自慢げに話し出すのだ。「射撃の訓練で太宰さんに誉められたの!」だとか「最近中原さんに一発は入るようになったんだよ!」だとか。中身は大分物騒なものだが。

「そうか、頑張ってるんだな。其よりもだ、ノスケとはどう言うことだ。ちゃんと説明しろ」

途端、瞳をぱちくりと瞬かせ「あれ?」と首を傾げだした。そんな彼女の様子に私も目を瞬かせる。

「太宰さんが」

太宰がどうしたのか、また良からぬことでも吹き込まれたのか、と身構えっていればそれは当たったようで彼女が続けた言葉に正直頭を押さえたくなった。

「ノスケさんのこと下の名前で呼んであげたら喜ぶよって言われたの!嬉しくないの?」

違うの?嬉しくないの?と不安気に覗き込んでくる少女に更に疑問が浮上する。

普段なら織田作と親しい仲間たちに呼ばれる自分の愛称。それは目の前の彼女も例外ではなく、織田作、といつもならそう呼んで先程のように駆け寄ってくるのが常だ。なのに何故いきなり下の名なのだと言い出したのか。否、今はそんなことはどうでもいいか。問題は彼女が私の下の名を普段呼び慣れているオダサクを廃してノスケだと思っていることだろう。

しかし、続けられた言葉に本当に頭を押さえた。

「あのね、あのね、この間太宰さんが教えてくれたんだけどね。織田作のお名前ノスケさんって言うんだよって。私、織田作は織田作しか知らなかったから知れて良かったの!今度会ったら呼んでみるといいって、喜ぶからって、でも嬉しくな…………あれ?ノスケさん頭痛いの??」

まさかの本名を知られていないパターンだった。

それにもショックを隠しきれないが、何よりも純粋な彼女で遊ぶ太宰に頭を押さえる。「あいつは、」と濁した唸りは彼女には届いていない。再三、頭の上にハテナマークを浮かべ覗き込んでくる彼女と向き直るように向かい合う。幼い黒の瞳と目が合い、ふっと息が溢れた。

まるで初めましての挨拶でもするかのように。



「作之助だ」

そう、呼んでくれ。



そう言った時の彼女の弛んだ笑みを、私はずっと忘れないのだろう。