迅悠一さん、と名のった如何にも軽そうな男の人はお姉ちゃんの同級生らしい。クラスも一緒らしく他にもさっき一緒だった赤い服の嵐山さんとも同じクラスの腐れ縁だと言っていた。そんなお姉ちゃんと友達らしい迅さんはあーだこーだとお姉ちゃんを説得中、というか不穏な雲行きへと話を持っていってる。切実に止めてほしい。お姉ちゃんの練習発言、もとい中身の掴めない提案から既に雲行きは怪しかったがここにきて明確になってきている答案にたらりと汗がつたった。何か打開策はないかと思案してみるけどここに連れてこられた時点で足掻けるものはなにもないことに今さら気がついた。何故だ私。なんで朝の時点で立て籠らなかったのかと自分を殴ってやりたい。

あれから数日。大きな怪我は無かったにしても大騒ぎだったお姉ちゃんの一言で外出禁止になっていた。私の方もあまり外に出歩く、といった活発な性格でなかった為にそんなに変わらないいつも通りの生活を送っていた。そう、いつも通りの、家に籠ったようないつも通りの生活を。そんないつも通り過ぎて、忘れいたのだ。あの、その為に一旦は保留となってしまっていたあの提案のことを。否。ちょっと違うな。忘れていた、と言うより保留になっていたなんて知らなかったんだ。誰が言った訳ではなかったけど、私はてっきり消えたものと思っていたのだ。誰も何も言わず、いつも通り過ぎる生活を送っていたが為に、自分の都合のいいように解釈してしまっていた。


── あ、お姉ちゃんは諦めたんだ。と。


馬鹿か私は。あの姉が、そう簡単に諦める?一度言い出したら意地でも曲げることのないあの悪魔の姉が。十数年、あの人の妹をしてきた癖に何故こうも毎回抜け落ちてしまうのか。それを再び思い知ったのはお姉ちゃんが気にしていた小さな傷だって目立たなくなってきた、そんな頃だった。異様に機嫌のいいお姉ちゃんを目撃した。寝ぼけ様にうとうとと洗面台の前で目を覚まさせるように冷水を打ち付けていた時、ふと軽快な鼻歌が聞こえてきた。あれ?と思ったんだ。目を覚まして朝一番に気持ちのいい冷水を浴びて、顔を拭いながら未だぽやぽやする頭のまま、楽しそうに奏でる鼻歌の出所へと向かった。誘導されるような美味しそうな匂いに食欲をそそられる音。お母さんかな?何時ものように、そう思い込んで扉を開けた。ら、母だと思っていたそれは姉で、一気に覚醒する脳内。サァーっと引く血の気。一気に覚醒し、現実へと引っ張られる。

例えば、お姉ちゃんは寝坊が多い。夜更かしが多いからだ。それでも翌日に何かしらの予定がある時は計画的に準備を徹底する。
例えば、お姉ちゃんは面倒見の良い方だ。べったりっていうわけじゃないけど自分の用事に相手を巻き込む時、相手の世話を焼きたがる。
例えば、お姉ちゃんは上機嫌と不機嫌の区別がはっきりしてる。顔にというよりも行動に出やすいんだ。今だってそう。

ほら。お姉ちゃんの機嫌の良さを見るからに、絶対今日、何かしら仕掛けられる。妹としての長年の勘がそう言っている。

「あら〜、名前。おっはよー」

そそくさと気づかれないように撤退しようと開けた扉を静かにそーっとそーっと閉めたところで、ほんの少しの隙間からがしりとそれを阻むように割り込んでくる色白の手。ひっ。情けない声が漏れた。隙間から覗くはにこにこと見慣れた悪魔の上機嫌な笑顔。もはや一種のホラーである。扉を掴んでいない方の手にはおたまが握られていた。あ、はい。朝ご飯ありがとうございます。

退路は断たれた。否、既に退路なんて優しい道は存在していなかったか。



☆ ☆ ☆



「いやあああああああああ!!!!」

おっはよー。片手を掲げ軽快なノリで入っていったら幼い女の子の悲鳴が聞こえてきた。そのわりにその部屋、リビングには一人も居ない。え、どういう状況?

「お、宇佐美」「あ、迅さん」

珍しく誰も居ないリビングは閑散としていて、意外にも物寂しく感じてしまう。あれ?本当に誰も居ないのだろうか。それにしては人の気配もするしさっきの悲鳴はなんなんだ。キョロキョロと辺りを見回していれば、いつも出迎えてくれる陽太郎の代わりに「遅かったな」と迅さんが姿を現した。

「何かあったんですか?」
「いや〜桃夏と小南が張り切っちゃってなぁ」
「はぁ、はりきる?」
「あはは」
「ああーー!!!まさかアタシ抜きで面白いことしてるんじゃないんですか!?」

あはは、と空笑いを溢す迅さんにそうなんでしょ!?と再度詰め寄ったところで、再び女の子の泣き叫ぶ声が響き渡る。恐らく、聞こえてくる方角からして訓練室だろうと予想できるが、もし仮に本当に予想している場所だったら、その女の子は一体どんな目に合っているのか。胸ぐらを掴む勢いで詰め寄っていた迅さんが「名前ちゃん大丈夫かな……」と、ボソリと呟くのが聞こえてきた。ふむ、名前ちゃんとな。どうやらその名前ちゃんとやらが今回の被害者らしい。同じように悲鳴が聞こえてくる方角へ向けていた視線と視線が同じタイミングで搗ち合う。

「行ってみるか?」
「行きますとも!」

数秒の沈黙の後、そう意味ありげに問うてくる迅さんは楽しそうににやにやと笑っていた。こういう笑みを浮かべている時は大抵ろくでもない目論見あってのことなんだけど、斯(カ)く言う私もこんな面白そうなことは大大大好物なわけで、即行で返事した。

「あ、その前に」
「なんです?」
「少し休憩するんだって、だから飲み物をな」
「あーそれでこっち来てたんですね」
「忘れるとこだった」
「ならばアタシは良いとこのどら焼きでもお出ししよう」
「お、いいねぇー」

そのまま目的地に向かいそうになっていた身体を回り右してキッチンに引っ込んでいく迅さんの後ろ姿をすかさず追いかける。

詳しい話はあっちに行ってからでもいいかと、曰く、鉄砲玉娘二人に扱(シゴ)かれているらしい名前ちゃんとやらの癒しのために美味しいお菓子を準備する。美味しいと定評のある代物なのできっと喜んでくれるだろう。きっと、まだ見ぬ少女はこの先で先輩と同級生の二人によって小動物のように怯えきっていることだろう。そんな様が可笑しくも先程の悲鳴と相俟って容易に想像できて、途端に苦笑が漏れる。

「二人とも可愛がっちゃうからなぁー」

そんな呟きに、迅さんが困ったように笑ってた。


18.8.5