「どないしてん?」

そんな、やさしい声だった。



親の仕事の都合だったと思う。それか家の事情だったのかも。幼すぎたその時の私にはそんな些細な理由なんて全然覚えてなくて、東京からその地にやってきた当時は突然変わってしまった環境にただただ目を白黒させていた。子供特有の好奇心なんて、ものはなく家に引きこもっているような人種だった。だからか、変わった方言に慣れなくて、変わった方言を話せないという理由だけで仲間外れにされた時だってただ逃げただけだった。泣きながら、逃げ帰る。それでも外に出なければいけなくて、その繰り返し。保育園に行くのが憂鬱だった。子供の事情なんて大人には分からない。

お前だけしゃべり方が変なんや!トカイっちゅーとこから来たんやろ?そない泣くんやったらトカイに帰れや!

その日もガキ大将の男の子やその取り巻きに石を投げられ、逃げるようにまた泣きながら建物の隅っこに避難した。それがあの頃の私の日課だった。うわーん、めそめそ。大人はただの喧嘩だと思ってか口は出すけど根本的には助けてはくれず、女の子達も見て見ぬふりだった。私だけが別のところから来たから。話し方が違うってだけで、友達にはなれない。

「どないしてん?」

泣いて泣いて。陽の当たらない木の根っこが私の唯一の居場所だった。そんな日陰に一つの声。びくりと肩が揺れた。腫れぼった目を上げることも出来ず固まる私に声はまた、泣いとるんか?と大嫌いな訛で問いかける。なんでもない、あっち行って。誰かを拒絶したのは初めてかもしれない。それでも兎に角、今は誰とも話したくなかったし、ましてや会いたくなかった。

「泣きたいときはな、めっちゃ泣くとええんやて」
「ヒック………ないて、なんか、いないもん」
「うそやんめっちゃないてんやん」
「うるさいいい」

私が泣き止むまでその子は手を繋いでくれた。ぽたぽた止めどなく溢れる涙なんて見えていないかのように黙って握りしめられた手は温かくて、私の目からは質量に従って落ちていく滴。目を擦ると赤くなる、ともうとっくの昔に真っ赤になっているのに。その子の優しさがこそばったくて、それで不思議で、いつの間にか涙は止まっていた。こんな私にも優しくしてくれるやさしい子。

どれぐらい経ってしまったんだろう。私たちを探す先生の声に、もういける?と、ぼやけてよく見れないその子と一緒に手を繋いだまま戻る。戻った私たちに待ち受けていたのはお説教だったけど、私の腫れ上がった顔を見て、別のお説教が始まってしまった。それは母親が迎えに来るまで長引いてしまい、あの子に「ありがとう」も「ごめんね」も言えなかった。明日、明日はちゃんと言おう。「ありがとう」って。それから「ひどいこと言ってごめんね」って。憂鬱だった明日が、早く来ればいい。初めてそう思った。だけど、最後まで私はその子の顔をまともに見ることも「ありがとう」も「ごめんね」も伝えることはなかった。

次の日。私が居たのは前に住んでいた東京だったからだ。




月日は流れ、私は今、高校生になった。

昔のこと過ぎて今では、ああそんなこともあったなって思い出す程度で。私が一時期、それも幼少のたった数週間しか兵庫で過ごしたことがあるだなんて自分でも思わない。あれは住んでいた、なんて言えないレベルだ。

「名前ー、早くしないと遅れちゃうよー」

友人の急かす声が更に私を急かす。彼女のマネージャー業の手伝いでバレーの大会に初めて来たが人の多さに足踏みしてしまいそうになる。か、帰りたい。しかも運動部の大会とだけあってやっぱり皆体格よすぎ。巨人の群れの中に放り込まれたみたい。やはり人が足りないからと頭を下げられても断るべきだった。しかし友達の頼みを無下にするのも、そう気を取られていたのがいけなかった。ドン、と当たった背が前のめりになり、まるでスローモーションのように倒れていく。え。自覚する間もなく盛大に倒れてしまった。ズサァ、と。当たった人は何処に行ってしまったのか、当たったことにすら気づいていないのか、気づきながらも知らぬふりして消えたのか。取り合えず、痛い。昔ほど泣くまではいかなくとも、痛い。

「どないしてん?」

やさしい声だった。昔、どこかで聞いたような、でも面影を追うには遥か向かしすぎて追い付かない。

「大丈夫か?」
「だ、大丈夫、です」

倒れている私に、その人はそっと手を差し出してくれる。遠くでことの次第を認めた友人が駆け寄ってくる姿を尻目に、起こしてくれたその人を初めて視界に捉えた。垂れた目元がいっそう、垂れる。

「久しぶりやね」
「え、」

「おいサムー!はよせえー!」
「わかっとるわ!今行く!」

私、この人のこと知っている。でもどこで?どこで会った?混乱しているのが分かったのか、その人はなんとも言えない表情を作ったかと思えば次にはなくて。あったのはうっすら弧を描く口元で、私の頭へぽん、と柔らかく手を弾ませた。

「またな、名前ちゃん」


その瞬間、スゥーとざわざわとした波が引いていく。




ああ、そうか───

「うん、またね」


18.10.8