グラマラススカイ






「おい、起きろ。なまえ。」
「…んー。あれ、なんで千冬がいんの。」
「なんでって…、オマエが呼んだんだろ…。」

 ソファに横になり、寝息を立て、小さく上下する肩を揺すった。
 薄ら開かれた瞼には、まだマスカラもアイシャドウも施されており、化粧を落とさないまま眠っていたことがわかる。充血した目には気付かないフリをしてやった。

「あ〜、そうだ…。ごめん…。」
「別に、いいけど。」

 テーブルの上に転がるストロング缶を拾い上げ、適当なビニール袋に放り投げた。
 32インチのテレビから流れる映像は実写版のNANA。2はあんまり好きじゃない。そう言ってなまえは、いつもこの映画をBGM代わりに垂れ流している。

「で、今回はどうした。」
「浮気された。」
「はぁー…。またかよ…。」

 空いたスペースに座り、ここに来る前に買ったミネラルウォーターを手渡した。ソファの背もたれに寄り掛かり、なまえの上下する喉元を眺める。
 半分近く減ったボトルをテーブルに置き、ごめんねと、なまえは困ったように笑った。
 そういうときはありがとうって言えよ。
 テレビ画面からはエンディングのGLAMOROUS SKYが流れ出す。多分、放っておいても勝手にリピートされ、最初のシーンが再生されるだろう。

「なまえは、本当に男見る目ないな。」
「それはわたしが一番実感してるよ。」

 大崎ナナに酷く憧れているくせに、実際は小松奈々みたいな恋愛しか出来ない可哀想な女。それがなまえ。
 あ、今は一ノ瀬奈々になってるのか、ハチ。



 中一の頃、なまえとは同じクラスだった。オレとなまえにはなんの接点もなく、そもそもなまえの存在すらたいして認識はしていなかった。本当だったら、一生関わることはなかったのかもしれない。
 春休みを目前としたその日の朝。オレは帰りに本屋に寄ることで頭がいっぱいだった。昨日、NANAの新刊が出たが、本屋に寄ったところ在庫がなく、他の店に行くにも時刻はすでに二十一時過ぎ。今から回ろうとしても間に合わないことは明白だった。
 泣く泣く諦め帰宅し、明日学校が終わったらすぐさま行こうと決意した。なんだったらサボって開店と同時に買いに行ってやろうかと考えていたくらいだ。
 ちゃんと在庫くらい用意しておけよ。心の中でブツブツといつまでも文句を垂れながら、自分の机に鞄を放り投げた。
 もう三月も終わりの方だっていうのにさみぃな。そう思って窓の外に視線を向ければ、気候とは似つかわしくない、酷く青い空が広がっていた。
 ふと視界に入った窓際の一番後ろの席。どんだけ徳を積めば席替えであの席になれんだよ。座っているのは話したこともないクラスメイト。名前なんてわかんねぇ。
 多分、一生喋ることはない気がする。そんなことを思って視線を外そうとしたとき、名前も知らないクラスメイトの手元に目が行った。

「お、おい!」
「…え?わたし?」

 オレは迷わずソイツの席まで行き、声をかける。
 目の前の女は左右をキョロキョロと見渡し、自分自身を指差した。そして眉間に皺を寄せながら、不可解そうに首を傾げる。

「それ!」
「…これ?」
「読み終わったら貸してほしいんだけど!」

 これ?と掲げられた本はNANAの新刊。
 別にいいけど、先生に没収されないでね?そう言って笑った女が、なまえだった。



「気持ち悪い…、」
「飲み過ぎなんだよ。」

 う〜と唸りながら肩に凭れてきたなまえの頭を撫でた。本当に、男を見る目がない、可哀想な女だ。
 高校生になり、なまえから彼氏が出来たと報告された。良かったじゃんと返せば、嬉しそう頬を緩めた。
 なまえの彼氏のことはよく知りはしないが、本人が喜んでいるなら別にいいかと思っていた。
 その頃、なんとなくなまえの雰囲気が変わってきたことに疑問を持った。
 なまえは根っからの大崎ナナの信者。見た目から寄せるタイプの人間で、前に原宿に買い物に付き合わせられたことがある。
 黒のライダースにどこかの海外バンドのTシャツ、赤いチェックの短いスカート。ナナを象徴するようなそれっぽい服。竹下通りの雑貨屋を巡り手に入れた黒い皮のチョーカーに3連のスタッズベルト。ナナっぽいね、なんて言いながら嬉しそうに買っていた。
 そのとき、なんとなく手に取った南京錠のネックレス。オレには似合わないような気がしてそっと戻したことをよく覚えている。
 ジョージコックスのエンジニアブーツも、ヴィヴィアンのネックレスも、ガキだったオレらには手が出せる金額じゃなかった。イカつい黒人に絡まれながらも進んだ細い路地にあった地下にある店でそれっぽいパチモンを買った。
 それでも、なまえは嬉しそうにしていた。
 そんななまえがなんだか女の子らしい、白くてふわふわした格好をしていた。違和感を感じ、なんでそんな格好してんの?と思わずそう聞いてしまった。
 彼氏がこういうのが好みなんだって。不満そうになまえはそう呟いてスカートの裾を揺らす。
 似合っていないわけじゃないけれど、なんだかなまえらしくなくて、ふーんと素っ気ない返事しか出来なかった。

「オマエ初めて出来た彼氏にも浮気されてたじゃん。」
「うわ〜、そうだった思い出した。」
「あのときからオレに泣きついてたよな。」

 自分の好きなものを押さえ込み、あんなに彼氏の好みに合わせていた。それなのに、結果的になまえは浮気されて、その彼氏とは別れた。
 それも彼氏はバイト先の女と浮気していたとか。なにそれ、なまえ本当にハチじゃん。むしろ慰めてるオレの方がナナなんじゃねぇのって思った。
 そのとき、本当になまえがハチみたいに、タクミみたいな男に掴まって、妊娠して囲われるように結婚してしまったらどうしようという不安が生まれた。

「なまえはほんと、ナナみたいにはなれねぇな。」
「そうだねえ。レンみたいな男と付き合えない。」

 なまえがボーッと眺める先にある、ガラスケースに飾られたヴィヴィアンのアクセサリーたち。
 年齢を重ねるにつれ、なまえの格好は次第に落ち着いていった。ミニスカートを履くことは減ったし、やけにゴツいスタッズのベルトを締めることもなくなった。
 それでも、ヴィヴィアンが好きだといって気に入った物があれば買っているらしい。
 ケースの中に大事そうに飾られた少し錆びたアーマーリング。あれはなまえが高校生の頃、初めて出たバイトの給料で買った物だ。
 昔、今はもう理由も忘れてしまったが、多分どうしようもなくくだらない理由で喧嘩をしたことがある。そのとき、酷く憤怒したなまえにグーパンを喰らった。そしてオレの頬には、あのアーマーリングが勢いよくめり込んだ。
 なまえはヴィヴィアン以外にもシルバーアクセサリーが好きだった。だから他にもゴツイ指輪を幾つかつけていて、あんなのもはやメリケンサックと同等だ。
 あまりの痛さに悶えているオレを横目に、なまえはアーマーリングのオーブが欠けていないかと心配していた。

「千冬が、レンだったら良かったのになあ。」
「…オレはレンにはならねぇよ。」

 そうだよね。なまえがそう小さく零すと肩の重みが消える。ごめんね千冬。そう言って無理矢理に笑う姿は痛々しかった。
 なまえは立ち上がると、ガラスケースに連結した引き出しを開く。そして、そこから取り出した物をオレの前にかざした。

「昔、二人で原宿行ったの覚えてる?」
「…当たり前だろ。」
「そのとき買ったの。」

 なまえがオレに見せたのは、あのときオレが一度手に取って戻した南京錠のネックレスだった。
 なまえがオレの首に冷たいチェーンを巻く。首元で南京錠がカチャリと締まる音が響いた。

「これ、シドチェーンっていうらしいよ。」
「へぇ。」
「千冬に似合うかなあって思ってあのとき買ったんだけど、あの頃の千冬金髪だったし、どちらかというとシンちゃんみたいだったからヴィヴィアンの方がいいのかなって、結局渡せなかったんだよね。」

 テーブルに置かれた南京錠の鍵。いっそのこと、飲み込んでしまおうかと思った。そうすれば、この南京錠は一生開かないから。

「で?今は似合ってんの?」
「ん〜、千冬には厳ついかな。もっと華奢なやつの方が似合うね。」

 再びオレの肩に頭を預けたなまえは手のひらで目元を覆い、気持ち悪いと小さく唸る。肩に寄り掛かるなまえの頭に、自分の頭をコツンと当てて乗せた。

「うっ、脳が揺れた。」
「毎回毎回飲み過ぎなんだよ。」
「気持ち悪い、死にそう。」
「そんぐらいじゃ死なねぇから大丈夫だよ。」
「NANA完結するまで死なない。」
「それ、前に牡蠣にあたって病院行ったときも言ってたよな。」
「あのときほんとに死ぬかと思ったんだもん。」

 少しだけ、昔のことを思い出して笑った。
 死にそう。そう連絡をしてきたなまえの元へ急いで駆けつければ、涙で顔をびしゃびしゃに濡らして床に這いつくばってたっけな。
 そのまま床を這ってトイレに逃げ込んだと思えば、吐きながらこんな姿彼氏に見せられないから千冬のこと呼んだって、泣きなが言っていた。
 オレはそのとき、間違いなく優越感を感じていたんだと思う。
 テーブルに置かれた鍵を手に取り、首元の南京錠を外した。

「これはなまえが持っててよ。」
「ん。」
「それにオレはレンじゃねぇからさ。」
「…わかってるってば。」
「オレがレンだったらさ、なまえのこと置いていっちゃうじゃん。」

 レンは、ナナのことを置いて死んでいったから。
オレは絶対、なまえのことを置いていったりしない。置いてかれる側の気持ちは、痛い程に知っている。

「オレはなまえのこと1人残して死んでいったりしねぇよ。ずっと一緒にいてやる。」
「…なに、それ、」
「はぁ?なんで泣いてんの?」
「わかんない、」

 細い腕が首元に回り、オレの体をギュッと抱き締めた。子供をあやすよう、背中をトントン叩いていれば、耳元でずびっと鼻を啜る音が響く。

「千冬〜…。」
「ハイハイ、泣くな。」

 ナナになれなかったなまえ。レンになりたくなかったオレ。オマエは、みょうじなまえで、オレは松野千冬。他の誰でもないんだよ。
 そんなさ、人生漫画みたいにはなんねぇよ。都合良く、ハッピーエンドにもバッドエンドにもならない。
 なまえもオレも、その先の未来を知らないから。だからさ、自分達で作っていかなきゃなんねぇんだよ。

「もう悲劇のヒロインごっこはやめよう、なまえ。」
「…したくて、してたわけじゃない、」
「そうだな、いい加減幸せになろう。」
「千冬が、してくれるの…?」
「うん、するよ。オレがなまえのこと、幸せにする。」

 この先のことなんてわかんねぇけど、これでいいんだよ。だってオレらは、誰かに都合良く動かされる漫画の登場人物じゃねぇんだから。
 ナナにもレンにもなれねぇし、シドとナンシーみたいな生き方が出来るわけでもない。
 なまえがなまえらしく、生きていける世界がここにあるって、気付くのに何年かかってんだよ。遅せぇんだよ、バカ。

2021.05.21






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