一蓮托生
仏教において、悪行を重ねた人間が死後に趣くといわれる三つの下層世界。地獄、餓鬼、畜生、その三つを三悪趣と呼ぶらしい。
そして、またの名を三途とも呼ぶ。
誰かは、彼にぴったりの名前だというだろうか。わたしは、わたしには、わからない。
目の前に広がるステンドグラスアートの眩しさに目を細める。
子供の頃から、なにかとよく遊びにきていたこの教会。ここは間違いなく日本だというのに、まるで中世ヨーロッパのような雰囲気で、少しだけ違う世界にいるような気分になれた。
別に、宗教じみた教育は受けていない。都合の良いときは神を信じ祈る。都合の悪いときは神など居なかったと嘆く。至って普通の人間の思考だ。
この場所に、神は存在するだろうか。
ステンドグラス越しに差し込む月の光は酷く優しく、なんだか無性に泣きたくなった。
膝を抱え、ただひたすらにステンドグラスを眺める。小さな溜息を一つ吐いた瞬間、背後から重い木製の扉が開かれる音がした。
「ここにいたのかよ。」
「春千夜。」
彼は革靴の踵をカツカツと鳴らし、わたしの方へと足を進める。わたしの隣りにどかりと座り込むと、ステンドグラス越しにあの優しい光を放つ月を眺めた。
「どうしたの。」
「家行ったら、オマエいねぇから。」
「ああ、ごめんね。」
昔から放浪癖があるのか、わたしはすぐその辺をフラフラと歩き回る子供だった。隣の区に行ってしまうことなんてザラで、いつも余裕で一駅先まで歩いていた気がする。
そんなわたしの手を引き、連れて帰ってくれるのがいつも彼だった。彼はわたしを見つけ出すのが得意らしい。
「帰んねぇの。」
「ん〜。」
曖昧な返事をするわたしに、彼は心底面倒臭いですという表情を隠すことなく、こちらに視線を寄越す。そんな視線にわたしは気付かないフリをし、ただひたすら目の前にあるステンドグラスを見つめた。
なまえ、そう小さく彼がわたしの名前を呼ぶ。
痛いくらいの視線を感じ、渋々彼の方へと顔を向ければ、そのまま後頭部を引き寄せられ唇を塞がれる。勢いがついたせいで少しだけ歯がぶつかった。
「痛い。」
「わりーな。」
「絶対思ってないでしょ。」
「思ってる思ってる。アイスでも買ってやるからさっさと帰んぞ。」
わたしのことを子供かなにかと勘違いしているのだろうか。そんな誘い文句で、成人している女が釣れるのならきっと誰も苦労していないと思う。
彼は立ち上がるとん、とわたしに手を差し出した。わたしは帰るなんて一言も言っていない。そう思いながら彼が差し出した手のひらを見つめる。
わたしの反応を見た彼はじゃあなにが欲しいんだよ、なんてわたしを物で釣ろうとする。どうしてわたしが物で釣れると思っているのだろう。やっぱり、子供と勘違いされているに違いない。
「あ、」
「あ?」
「春千夜の苗字が欲しいなあ。」
まるで、ぴきり、そう音が聞こえてきてしまいそうな程、彼はこめかみに青筋を立てた。
多分、これがわたしではなかったら、今すぐにでも殺されていたのだろう。大袈裟でもなく自惚れでもなく、本当に。
「ふざけてんのかテメェ。」
「やだな、怒んないでよ。」
冗談じゃん、そう続くはずの言葉が喉元で詰まった。
それは冗談なんかではなく、きっと本心だったからなのだろう。
彼は溜息を吐くとその場でしゃがみこみ、膝を抱えて座るわたしを見上げた。
「そんな泣きそうな顔すんな、ブサイクなだけだぞ。」
「うわ、うっざ。」
泣きそうな顔なんて、してないよ。最初から期待なんてしてないから。
彼は膝を抱えていたわたしの手を優しく掬い取る。そして、左手の薬指に嵌めらている、月の光を反射し、鈍い光を放つ指輪を指先でそっと撫でた。
自分じゃ到底手の届かない値段の指輪。彼がくれた物。
「これだけじゃ、足んねぇか。」
足りなくなんかない。そう言いたかった。けれど、その言葉はなかなか上手く出てこない。
もっとこう、思ってもいないようなことをペラペラ言えるような性格だったら良かったのに。
どうして、わたしはこんなに我儘なのだろう。どうしてもっと、聞き分け良く出来ないのだろう。
「…ごめん。」
「オマエが謝ることじゃねぇだろ。」
三途春千夜、この男にとってわたしという存在は邪魔になるに違いない。そうわかってはいるのに、わたしは彼に大切にされたいと望んでしまう。大事にして、ずっと、わたしのこと大事に扱って、って。
大切なもの。それがどれだけ彼の足枷になるのか、わたしは十分理解しているのにも関わらず願ってしまうのだから。
自惚れだと、勘違いだと、笑ってくれて構わない。
昔から人を戸惑いなく殴る手は、今では呆気なく人の命を奪ってしまう。それなのに、その手はわたしに触れるときだけ、まるで壊れ物を扱うかのように優しく触れる。
そんなに簡単に壊れたりしないのに。
わたしは、こんなに人に大切にされたことないよ。
「オマエにオレの苗字、似合わねぇだろ。」
「…三途、なまえ。」
「…あー、うん。似合わねぇ、全然、似合ってなんか、ねぇよ。」
彼はわたしの指輪を指先で軽く引っ掻く。
いっそのこと、突き放してくれれば良かったのに。そう思ったことだって何度もある。けれども、突き放されたところでわたしは彼の後を追ってしまうのだろう。
わたしは彼のことがどうしようもなく好きだから。 だから全部、彼のものになりたかったんだ。
「昔からフラフラどっか行くよな、オマエ。」
「お母さんがそれでよく困ってた。」
「オレも困ってたけど。」
どこにいても、彼だけはわたしは見つけてくれた。この教会にいるときも、迎えに来てくれるのは必ず彼で、今日みたいに帰るぞって手を差し出しくれた。
だからわたしは、いつもその手を取った。
「首輪でも繋いで、一生外に出してやんねぇって考えたときもあった。」
「相変わらず物騒だなあ。」
「この指も切り落としてやろうかと思ってた。傷物の女なんて、誰も貰ってくれるはずねぇだろ。」
彼のいうこの指。それはきっと、今彼がいじっている指輪が嵌められた場所だろう。
本当に、愛情表現が下手くそだね。
わたしには春千夜しかいないっていうのにさ。後にも先にも、わたしには春千夜だけで、他なんて誰もいないんだよ。
「オマエには、普通に生きていって欲しい。」
「…うん。」
「だから、オマエの望むものなんて、何一つやんねぇよ。」
優しいね、嘘吐き。
わたしが望んだもの、いっぱい貰ってるよ。欲張ってごめん。これ以上は、望まないから。
「一個だけ、お願い聞いて。」
「はぁ?ンだよ。」
「一生、一緒にいていい?」
「…オマエ、話し聞いてたか?」
うん、ちゃんと聞いてたよ。一緒にいるだけでいいから、それだけでいいから。
同じ場所に帰りたいなんて願わない。同じ苗字が欲しいなんて願わない。紙切れで縛られた約束なんて要らない。この指輪も、返して欲しいっていうのなら返す。永遠に、赤の他人のままでいいから。
「バッカじゃねぇの。」
「死ぬまで、一緒にいたいよ。」
溢れた涙を彼は雑な手付きで拭った。それでも頬を伝う涙は止まらない。
大人になって痛いほどにわかった。好きという気持ちだけでは、どうにもならないということを。
ゆっくり立ち上がった彼がわたしを見下ろし、そしていつものように手を差し出す。その手をぎゅっと握れば、勢いよく手を引かれ立ち上がる。
「じゃあ、今ここで誓うか?」
「なにを…、」
「なにがあっても、死ぬまでオレと一緒にいる。裏切ったら即殺す。」
「…誓う。」
「ぜってぇ、逃げんなよ。」
そう言って少しだけ困ったように笑った彼は、噛み付くようなキスをした。下唇に思い切り歯を立てられ、口内には鉄の味が広がる。
一瞬唇を離した彼は、わたしの血の滲む下唇を一瞥し、その血を舐めとった。
「痛い。」
「わざとだ、ばーか。」
彼はそう言って再びわたしの唇を塞ぐ。
傷口に唾液が沁みて少しだけ痛かった。けれども、こんな痛み程度が幸せの代償ならば安いものだと思った。
これからわたしは、生きていく上で色々なことに目を瞑らないといけなくなる。見えないフリをして、知らないフリをして生きていく。例えそれが、非道徳的なことであろうと。それが彼と生きていくということ。
そうすれば、わたしも彼の苗字が似合う人間になれるだろうか。もしかすれば、気が変わってその苗字をくれるかもしれない。
ああ、嫌だ。人はなにか一つ願いが叶うと、どんどん欲張りになっていく。なんて醜い生き物なんだろう。
わたしは都合の良い思考を持つ普通の人間だから、今ここに神がいると信じ祈ろう。ちゃんと、証人になってほしい。
わたしは今ここで、彼に永遠の愛を誓った。病めるときも、健やかなるときも、死がふたりをわかつまで。
2021.06.05
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