墜落






 みょうじなまえ。近所に住んでたガキ。やたらとオレに懐いていて、いつも竜胆くん竜胆くんって、オレの後ろを引っ付き回っていた。
 少しだけ、本当に米粒程度の気持ちだけれど、あの頃は妹が出来たみたいで可愛いななんて思っていた。別にもう、そんな風には思っちゃいないが。
 勝手に作った合鍵で、他人の家に自分の家よろしく上がり込む。玄関に脱ぎ散らかされた踵の低いパンプスを見て一つ溜息を吐いた。

「なまえ〜。」
「…またアポなし訪問。」

 驚安の殿堂で買ったであろう、伸びきってよれたグレーのスウェットを着たなまえは、前髪をうさぎのキャラクターのピンで留め、片手にメイク落しを持っていた。
 化粧をしているなまえはきちんと年相応の女に見える。

「それなに。」
「さぁ?なんだろうな?」
「自分で持ってきたんでしょ。」
「いいからさっさと化粧落としてこい。」

 なまえはオレが片手に持つキャラメルブラウンの紙袋を指差す。それを軽く流し、顔を洗ってくるよう促せば、そそくさと洗面所へと向かって行った。
 テーブルに紙袋を置き、勝手にテレビを付ける。ちょうどやっていたバラエティ番組には、なまえが前に好きだと言っていた俳優が出ていた。
 適当にチャンネルを弄り、流行りのバンドが歌う胸糞悪いラブソングが流れ始めた音楽番組に変える。さっきの番組のことはなまえには教えてやらない。
 胸糞悪いラブソングがサビに差し掛かった頃、なまえが戻ってきた。すっぴんはやっぱり、少しだけ子供っぽい。

「で、それはなんですか?」
「開けてみたらどうですか。」

 隣りに座ったなまえの前に紙袋を差し出す。細い指先が袋に引っかかり、中から箱が取り出される様子を頬杖をついて眺めた。
 箱を開け、中を覗いたなまえは少しだけ目を見開き、まるで星屑が散りばめられたようなキラキラした瞳をオレに向ける。

「これって!」
「ど?嬉しい?」
「嬉しい!」

 箱の中身は、なまえが好きだと言っていた表参道にある洋菓子店のケーキ。値段もそこそこする上、人気の物は午前中には完売するらしい。
 実際、なんでケーキごときにこんな金出さなきゃなんねぇんだって正直思ったけど、それはまあ黙っておく。

「食べてもいいですか。」
「いいよ。」
「やった、竜胆くんは?どれ食べる?」
「えー、じゃあそのチョコのやつ?」

 はーいと間延びした返事をしたなまえは、丁寧な手付きで箱からケーキを取り出す。
 フォーク?スプーン?そう聞いてきたなまえに、手で食えるだろって返したら野蛮だなあって笑われて、結局フォークを差し出された。
 口に放り込んだケーキは美味いのはわかるが、やっぱりなんでこんなに値段が張るのかはわからなくて首を捻る。隣りにいるなまえに目を向ければ、無駄にキラキラというかテカテカしている苺を食べ、頬を緩めていた。
 美味い?って聞けば、嬉しいそうに美味しいって笑うから、まあ買ってきて良かったなとは思う。
 笑った顔は子供の頃となにも変わんないな。そう思いながら残りのケーキに手をつけた。
 鑑別所を出た後、兄貴はオレに大事なモン取りに行かなくていーの?そう聞いてきた。
 大事なモンってなんだよ。そう顔に出たオレに対して、なまえちゃん、兄貴はそう言って笑った。
 別に大事じゃねぇよ。そう思っているはずなのに、その言葉が口から出ることはなく、誤魔化すよう嘘くさい咳払いをすることしか出来なかった。

「そっちも食べたい。」
「ん。」
「ありがとう。」

 まだ半分残っているケーキをなまえの方に差し出せば嬉しそうにそれに手をつける。
 大事なんだよな、なまえのこと。だから、手元に置いておきたい。目の届く範囲にいてほしい。
 こんな狭い部屋より良い部屋に住まわせてやるし、働かなくたって生活出来るようにしてやる。好きな物だって、なんだって買い与えてやる。
 結局オレはなまえには甘いみたいだから、なまえが望まないことはしたくない。だから、全部なまえ自身に望んでほしい。なまえの方から、望んでオレのところまで堕ちてきてほしい。

「残り全部食っていいよ。」
「え〜、さすがにこれも食べたら太る。」
「こんくらいじゃ変わんねぇよ。」

 太るとか言いながらまだ食うんだもんな。結局全部食うだろ、これ。
 カチャン、フォークが皿に小さくぶつかる音が部屋に響く。テレビから流れてきていた胸糞悪いラブソングはもう既に終わっていた。

「オマエ、口にチョコついてんぞ。」
「え、やだ。」
「そっちじゃねぇよ。」

 なんで指差した方とは逆の方拭うんだよ。バカか。
 片手でなまえの顔を掴む。あまりの小ささに少しだけびびった。女ってこんな顔小せぇもんなの?
 舐めとったチョコはなんだかさっきより甘く感じて、胃のあたりがムカムカした。

「…は?」
「オマエさぁ、こういうことするとすぐ顔真っ赤になるけど、こういうベタなのが好きなわけ?」
「そ、そういうことじゃないでしょ!なにしてんの!」

 なまえは顔を真っ赤にさせながら口元を手のひらで覆い、肩を小さく震わせていた。
 流れた髪を耳に掛けてやれば、水分の膜が張った瞳が向けられる。

「それどういう顔なの?嫌だった?」
「…いやとか、そういうことじゃなくて、」

 なまえの華奢な手首を握る。ほんの少し力を入れれば簡単に折れそうだった。絡めた細い指先も、全部、簡単に壊れそう。
 竜胆くん、そう名前を呼ぶなまえの声が耳にこびりつく。ああやっと、目が合った。

「オマエだけだよ、オレのことちゃんと見てくれたの。」
「なに、急に、んっ、」

 少しだけ高い体温も、この口内の熱さも、全部オレだけが知ってればいい。
 オレと同じ場所まで堕ちてきてほしかった。そうすれば、なにもかも許される気がしたから。
 堕としたかったのに、堕ちてたのはオレの方だったのかな。オマエと同じ場所に立てれば、オマエはオレを、すくい上げてくれんの。
 歳下の女にこんなに縋りついて、ほんと、バカみてぇ。
 兄貴には目もくれず、オレだけを見てくれるなまえがどうしようもなく可愛くてしょうがなかった。ずっと、オレだけを見ていてほしいと思った。
 おかしくなったのはきっとオレの方。オレなんかに捕まって可哀想ななまえ。
 あーあ。なんでオマエは、可愛いガキのまんまでいてくれなかったのかな。どうしてオレも、なにも知らないガキのまんまでいれなかったのかな。

2021.06.08






back


top