残念、また明日






 わたしが世界で一番、不幸なのだと思っていた。世界で一番、不幸でありたかった。
 きっとそれは、死んでも許される理由になるから。
 例えば親に虐待されてる子、今日食べる物にすら困っている人、世間一般から見ればきっと、これらはわたしより不幸なのだと思う。
 それでも、不幸というものは人それぞれ。その人個人の尺度があるわけで、他人が自分の物差しで図っていいはずがない。
 だからわたしは、わたしからすれば世界で一番不幸なんだ。

「えー、死ぬの?」
「え、誰…。」

 汚らしい雑居ビルの屋上。わたしが死ぬにはぴったりの場所だと思った。入り組んだ細い路地に面しているこのビルの周りにはさほど通行人はいない。なんの罪もない、未来ある他人を巻き込んでしまうのは流石に良心が痛むから。第一発見者の人にはトラウマを植え付けてしまうかもしれない。それは本当に申し訳ないと思っている。
 見下ろした景色は真っ黒で堅いアスファルト。飛び降りは靴を脱ぐと相場が決まっている。だから履いていたローファーを雑に脱いだ。
 脱ぐ理由は全くわからないけれど。あ、靴って揃えた方が良いのかな。
 靴下越しに足の裏から冷たいコンクリートの感触が伝わる。そのとき、誰かがわたしに声を掛けた。

「飛び降りんの?」
「あ、はい…。」
「ふーん。」

 自分から聞いてきたくせに、男は全くもって興味がなさそうな返事をした。わたしはどうしていいのかわからずその場で立ち尽くす。

「あ、オマエさぁ、処女?」
「は…?」

 わたしはこの状況下でいったいなにを聞かれているんだろうか。全然理解が出来ない。
 男は笑みを浮かべながら、で?どうなの?とわたしに尋ねる。

「そう、ですけど…。」
「じゃあ死ぬのはセックスしてからでも遅くねぇんじゃね?」
「はあ?」
「はい、決まりー。そうしよ、オレ溜まってんだわ。」

 男はわたしが先程脱ぎ捨て揃えたローファーを拾い上げ、わたしの腕を引いて歩き出す。わたしは為す術もなく、ただ男に手を引かれ歩き出した。振り返った男はわたしを見て笑う。

「残念だったなぁ?まだ死ねなくて。」

 十六歳、灰谷蘭と出会った。



 十七歳、灰谷蘭と過ごすようになる。
 彼に初めて出会った日、兄弟で六本木一帯を仕切っていると教えて貰った。港区育ちのイキったお坊ちゃんかよ。そう思っていたのに違った。なんかもう、仕切るが物理だった。
 灰谷蘭は、まあまあそれなりにやばい人らしい。

「なまえ〜。」
「なに蘭くん。」

 彼は意識を失い、気絶し横たわる男の片腕をなにごともなかったよう踏み付けた。骨の砕ける音が響き、わたしは思わず目を逸らす。
 彼が片手に持つ警棒は血で汚れていた。
 地面に虚しく転がる者で、意識が残っている人は誰一人としていない。あらぬ方向に腕や足が曲がってる人、原型を留めない程顔面がぐちゃぐちゃになってる人、これでもまだ、生きているのだから人間の生命力はすごい。
 彼は誰のものかもわからない血に塗れた手でわたしの手を引く。

「なまえがこの前行きてぇって言ってたクレープ屋行こうぜ。」
「その前に手洗いたい。」
「わかったわかった。クレープ食べるまで死ねないな?」
「なんでそうなるの…。」

 それにさぁ、そう言って立ち止まった彼が振り返りわたしを見遣る。そして、先程自分でボコボコにした、まるで死体のように転がる人達を指差した。

「なまえより可哀想なヤツ、そこらじゅうにいっぱいいるだろ。」



 十八歳、わたしの隣に灰谷蘭はいない。
 ちゃんと高校卒業出来るみたい。つい最近、そう報告したばかりだった。彼はすげぇじゃんって、わたしの頭を撫でた。
 わたしの制服姿も見納めだよ。なんて言ってスカートを翻すように回ってみせれば、じゃあ卒業式終わったらそれ着たままセックスしようなって。別にもう使わないし汚れてもいいか。わたしは仕方ないなあって笑った。
 卒業式まで残すところあと一週間というときだった。彼が弟共々逮捕されたのは。
 卒業証書は彼にあげよう。わたしが三年間、頑張って生きてきた証だから。そう思っていたのに、卒業証書は筒の入れ物に入ったまま、部屋の角に適当に放り投げられている。
 制服は本来の制服の意味だけを成し遂げ、押し入れの奥底に眠ることになった。
 わたしは胸元にあるコサージュを引きちぎり、ゴミ箱に放り投げた。
 卒業おめでとう。一番言ってほしい人が言ってくれない。だって彼は今、わたしの隣にいてくれないから。



 十九歳の夏、茹だるような暑さが連日続いていた。

「お、生きてたかぁー?干からびて死んでんのかと思った。」
「え…、蘭、くん…?」

 しつこいほどにインターホンが鳴り、渋々玄関の扉を開けば、そこには半年以上会っていなかった彼がいた。

「なん、で…、」
「なんでって出てきたから。」
「蘭、くん、」

 思わず飛び付けば彼に飛び付けば、細くもその逞しい腕で易々とわたしを受け止める。匂いも、体温も、感触も、全部が懐かしく涙が零れた。

「もう死んでんのかと思ったわ。」
「生きてる、ちゃんと、生きてるよぉ…、」
「そうだなぁ。まだ制服着たままヤってねぇもんなぁ。」
「わたしもう、現役じゃないけど。」
「別にいいんじゃね?コスプレってやつ。」

 彼はわたしの顔を掴み上を向かせる。透き通った藤色の瞳がわたしを捉えた。

「残念だったなぁ。まだ死ねなくて。」



 ガチャンと鍵の開く音が部屋に響き、わたしは玄関の方へと歩みを進める。
 出迎えれば、彼はわたしの顔を見るなりただいまなまえと言って笑った。おかえり蘭くん。そう返せば、機嫌良さそうにわたしの額にキスをした。

「蘭くん、袖口に血付いてるよ。」
「うわ、本当だ。」
「もー、気を付けてよね。」

 彼から受け取った上着を洗面所へ持っていく。血液の汚れは時間が経てば経つほど落ちにくいことをここ数年で学んだ。
 ハイブランドのスーツを安物の洗剤に浸け置きするのはなんだか後ろめたさがあるが、汚れが残ってしまうよりマシだろう。クリーニング屋だって二十四時間やっているわけではないから。
 手を洗いに来た彼と入れ替わるようにわたしは洗面所を出る。リビングに戻ると、テーブルには幾つかの冊子が置いてありその一つを手に取った。

「蘭くんハワイ行くの?」
「ああ、うん。」

 洗面所から戻ってきた彼に声を掛ければ、わたしが手に取っていた冊子を奪いパラパラと捲った。中身はハワイの観光名所や有名ホテルなどが載るパンフレット。
 それを流し見る彼の髪は出掛ける際にワックスできっちりとセットしていったはずなのに少しだけ崩れていた。

「お土産よろしくね。」
「なまえも一緒に行くんだけど?」
「え?そうなの?」

 パタンとパンフレットを閉じると、彼はそれを再びテーブルの上に戻した。
 いつ?と尋ねれば2週間後とのこと。そして、彼はわたしを見つめて笑う。

「残念だったなぁ。まだ死ねなくて。」

 鑑別所にいた期間を除いても、彼とは十年以上一緒にいるが、これはもう彼の口癖のようなものになっていた。
 必ず未来の予定を取り付け、残念だったなと笑う。残念なんて、きっと一ミリたりとも思っていないだろうに。
 十六歳の頃、わたしは死んでも許される理由を探すのに必死な子供だった。だから、世界で一番不幸でありたかった。
 あの頃、特徴的な髪型をしていた彼はもう髪をバッサリと切り落とし、わたしはあの頃よりも髪が伸び、いつの間にか大人になってしまっていた。
 あの日、わたしはあの汚い雑居ビルから落ち、もう既に死んでいるはずだったのに。それなのに、気付けば一年、二年と経ち、成人まで迎えてしまった。
 今、死んでも許される理由を求めていたわたしの周りには、死んではいけない理由で溢れかえっている。
 死んではいけない理由というより、生きていたい理由と言った方が正しいのかもしれない。

「ハワイってなにが有名なの?」
「えー、オレもわかんねぇからこれ買ってきた。」
「楽しみ。」
「それは良かった。」

 わたしは、世界で一番不幸なのだと思っていた。世界で一番、不幸でありたかった。
 なのにどうだろう。今のわたしは、全くの真逆だ。
 誰がなんと言おうと、わたしがこの世で一番幸せな人間なんだ。
 それでも彼はわたしに言い続けるんだろう。きっと、わたしが死ぬまで。残念だったなって。

2021.06.23






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