幸せの形はきっと曖昧で
ただいま。それに対していつもなら気の抜けたおかえりと言う声が聞こえるはずなのに、今日に関してはそれが聞こえてこない。キッチンを覗いて見れば、ある程度片付けてはあるが料理をしていた痕跡が残っていた。
リビングへに足を運べばテーブルの上にメモ紙が置いてあり、それを手に取り目を通す。そこには、みりん切れたから買いに行ってくる!という丸っこい文字が記されている。
その横にはなにやらよくわからないイラスト。なんだこれ豚か?
オレはそのメモ紙を畳んで財布の中へとしまった。
なまえはこうやってたまに、書き置きを残していく。文明が進化していくこの時代にわざわざ紙に書かなくても。そう思いながらもその書き置きを捨てることが出来ず、つい毎度財布の中へとしまってしまう。
基本的に支払いはカードか電子マネーで、現金を使うことはあまりないが、今だ使い込んだ長財布を変えることが出来ないのはなまえの書いたメモ紙をしまうためだ。
その辺に置いておくとなまえにバレそうだから。彼女の書いたメモ紙を捨てずに取って置いているなんて、死んでもバレたくない。
札や小銭よりもなまえの書いたメモ紙でいっぱいになってしまった財布をポケットに無理矢理突っ込んだ。
着替えてなまえが戻ってくるのを待とう。そう思って自室に向かおうとすれば、ソファの上に置いてある雑誌が目に入った。
気になってソファに寄るが、その足はピタリと止まる。オレはその雑誌に恐る恐る手を伸ばした。
手にした雑誌は思ったより重く厚みがある。これって、あれだよな。結婚しなくても幸せになれるこの時代に私はあなたと結婚したいのですって言ってる、CMのやつだよな。ゼクシィって、結婚とか、そういう。
真っ白なウエディングドレスを纏った女が飾る表紙を捲ろうとすれば、玄関の方から竜胆ー?とオレを呼ぶ声が聞こえた。
オレは慌ててその雑誌を放り投げ、脱ぎかけだったジャケットをなぜかもう一度羽織り直す。なにかを誤魔化すようネクタイを緩めながら、テレビのリモコンを手にした。
「竜胆帰ってたんだ、おかえり。」
「お、おう…。た、ただいま…。なまえも、おかえり…。」
「うん、ただいま。」
なまえの両手に引っ掛かったビニール袋には食材がいっぱいいっぱいに詰め込まれている。オレの視線に気付いたのか、安かったからいっぱい買ってきちゃった。そう言ってなまえは笑った。
オレはそっかと返事をし、片手でチャンネルを弄りながらネクタイを引っ張る。いつもならすんなり解けるはずのネクタイが今日に限ってはなぜか絡まってなかなか外せない。寧ろなぜか締まっていく一方だ。
「ご飯もうちょっと待っててね。」
「あ、うん、全然、大丈夫、待つ。」
上手く言葉を紡ぐことが出来ず、口からは単語しか零れない。設定したチャンネルはなぜか教育番組で、自分が酷く動揺していることを痛感した。
そんなオレを気にとめることなく、ご飯準備しちゃうねとキッチンへと向かうなまえの背中を見送り、オレはその場にしゃがみこんだ。
放り投げた雑誌に再び手を伸ばし、パラパラとそれを捲る。初めて見るそれに、少しだけ興味をそそられた。東京だけで式場こんなにあるのかよ。
ページを捲っているうちに間に挟まれたピンク色の婚姻届が顔を出す。オレはそれを広げ、妻になる人という文字を指先でなぞった。
これがあるってことは、そういうことなんだよな。なまえ、オレと結婚してぇと思ってくれてんのかな。
この歳になって、結婚を考えたことがないと言えば嘘になる。寧ろ、この先もオレはなまえと生きて行く未来しか想像していない。
それでも踏み切れないのは、なまえはオレと結婚して幸せになれるのか、たかがこんな紙切れの契約ごときでアイツを縛ってしまっていいものなのかという葛藤があったから。
オレは決して、普通とは言えない。前科もあれば、今だって人に堂々と言えるような仕事をしているわけではない。
他の男、つまりは堅気の男と付き合って結婚する方が幸せになれる。そんなの、とっくの昔からわかりきっていることなのに、オレはそれを許すことが出来ないし、なまえを手放すことも出来ない。
自分の職業を考えてみても大っぴらに式を挙げてやることは出来ないだろう。別に呼びたい人間もいねぇし、二人だけでも式って出来たりすんのかな。あーでも、兄貴は出たがりそうだな。結婚式には呼べよ〜とか言ってたし。まぁあんなの、その場のノリの冗談だとは思うけど。
なまえには白がよく似合う。ページ一面を飾る真っ白なドレスはきっとぴったりだ。なににも染まっていない純白。でもそれを汚してしまうのは、オレなんだろう。
「竜胆?」
「え!?あっ、うん、なんだよ…、」
「ちょっと味見してほしくて。」
急になまえに声をかけられ、動揺からかオレの手からは雑誌がばさりと音を立てて落ちる。必然的になまえの視線はそこへ向けられ、オレはなんとか誤魔化すようにそれを拾い立ち上がった。
「あ、ごめん。それ邪魔だったね。」
「いや、全然、そんなこと、ねぇ、けど…。」
いつまで動揺しているのか、さっきから相変わらず単語でしか喋ることが出来ない。オレの手からは雑誌がするりと抜き取られ、それはテーブルの端へと追いやられてしまう。
やべぇ。ページ閉じたからどこまで見たのかわかんなくなった。
「竜胆が見ても面白いものなんて載ってなかったでしょ?」
「え、ああ、まあ、ああ…。」
「ゼクシィってさあ、三百円で買えるんだね。」
「へ、へぇ、そうなんだ…。」
「安いよね、こんなにいい付録付いてるのに。」
そう言って見せられたのは薄型のポーチ。通帳と判子入れるのにちょうど良くてさ、いいのないか探してたんだよねえという言葉にオレはそっかと返事をしふとあることに気付く。
オレはテーブルの上に乗るその雑誌を指差した。
「これ、なんで買ったわけ…。」
「え?この付録ほしくてだけど?」
「マジか…。」
オレはデカい溜息を吐き、再びしゃがみこんだ。ガシガシと髪を掻き回し、そして頭を抱えた。
頭上から響くなまえの大丈夫?という声に顔を上げれば、キョトンとした表情でオレを見つめる丸い瞳と目が合う。人の気も知らねぇで。
「…めっちゃ考えた。プロポーズは無難に夜景の見えるレストランがいいのかとか、でも前になまえ、海連れて行ったときめちゃくちゃ喜んでたから海の方がいいのかとか。でも潮風で髪バサバサになるのは嫌だとか言ってたよなぁって思い出して。それに結婚指輪はカルティエとかハリーウィンストンが王道なのかとか、オレの好きなブランドかオマエの好きなブランドか、そもそも結婚指輪と婚約指輪の違いってなんだよって思ったし。式は二人だけで挙げれねぇかなとかさぁ…。」
「ま、待って!竜胆!なんの話ししてるの!?」
「…だって、アレ、そういう雑誌じゃん…。」
「ご、ごめん!そういうつもりで買ったわけじゃないから!結婚とか全然考えてないから!」
「は…?」
結婚考えてねぇって逆になに?オレ達若いわけじゃねぇし付き合いだって長いんだからそれなりに結婚のこととか考えててもおかしくねぇ歳じゃん。え?オレとは結婚したくねぇってこと?ヤバい、流石になんか泣きたくなってきた。
「竜胆の、邪魔にならないようにするから…。心配しないで。」
「邪魔って、なんだよ…。」
「なんか結婚とかさ、竜胆の重荷になりそうでしょ?だから、えっとその…、わたしは竜胆と一緒にいれるだけでいいから、だから、結婚とかは、望んでないよ…。」
「…重荷になんか、なんねぇよ、バカか。」
ごめんね。そう言ってへらりと笑った顔はどこか寂しそうで、思わず手を伸ばしその頬を撫でる。オマエはさ、余計なこと考えなくていいんだよ。
なまえって存在が、この先もしかしたら足枷になってしまうときが来るのかもしれない。それでもオレは、オマエを重荷なんて思わねぇし、寧ろ一生背負ってこうって思ってる。
オレがさ、ちゃんとオマエのこと守ってやるから。だから、そんな寂しいこと言うなよ。オレが弱くねぇの、オマエだって知ってんじゃん。
「結婚、すっか。」
「…ち、血迷った?」
「血迷ってねぇから、ふざけんな。」
あーあ、全然きまんねぇや。せっかくならもっと、かっこいいプロポーズしたかったんだけどな。テンプレみたいなのしか思い浮かばなかったけど。
返事は?となまえにそう尋ねれば、なまえは泣きながら笑って頷く。オマエが頷いてくれたから、まぁ別にいいか。
2021.10.09
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