寝起きのプリズムブルー






 カーテンの隙間から零れる日差しにゆっくり意識が浮上する。
 眩しい光を鬱陶しく思いながら瞼を持ち上げ、手探りで頭上にあるスマホを探し出した。画面を点灯させれば、既に家を出る時刻が記されている。
 これは間違いなく寝坊だ。年に一度あるかないかの出来事だが、決してあってはならないこと。
 急いで着替えを済ませ、バッグの中に適当に荷物を放り込んでバタバタと忙しなく家を出る。
 いつもより遅くはなってしまったが、なんとかギリギリ始業時刻には間に合うことが出来た。
 事務所に到着し、誰とも視線が合わないよう、俯きながらおはようございますと挨拶をし、自分のデスクへと向かう。
 家を出る時間に起きたのだ。朝食も摂っていなければもちろん化粧だってしていない。
 デスクの引き出しに隠し持ったチョコをつまんでいれば空腹はなんとか凌ぐことが出来る。しかし、さすがにすっぴんを人様に堂々と晒す訳にはいかない。
 別にわたしが化粧をしていようがすっぴんだろうが、周りの人間は大して気にもしないかもしれない。だがこれは、わたしの気持ちの問題である。
 マスクで顔の半分を隠しながら、休憩のときに化粧をしようと固く心に誓った。
 休憩時間。事務所のフリースペースの端の方を借り、今朝方雑に詰め込んだ化粧品をテーブルに広げる。
 化粧室に駆け込もうと思ったが、正直、立った状態で一からきちんと化粧が出来る気がしなかった。不器用ゆえに、きちんと腰を据えないと集中出来ない。
 自分のデスクでしても良かったが、流石に会社の人間の前で堂々と化粧は躊躇われた。
 ありがたいことにこの休憩時間はデスクで昼食を摂ったり外にランチに行く人が多い。フリースペースに足を運ぶ人間は少ない。
 誰かが来てしまう前にさっさと終わらせてしまおう。そう思い、取り出した下地、コンシーラー、ファンデーションを適当に塗り込む。
 いつもと環境が違うせいか、少々雑になってしまい、無駄に塗り過ぎたのか顔と首の色が明らかに違っている。しかし、正直今はそんな細かいことを気にしてはいられない。
 ファンデーションを塗ったせいか、元々存在感がなかった自眉がより存在感を失ってしまった。眉毛を錬成させる為、アイブロウペンシルを繰り出す。

「あれ、なまえさん?おはようございます。」
「え、」

 この声は我が事務所の所属アイドル、漣ジュンの声だ。
 彼に挨拶を返そうと振り返ろうとする。しかし、今自分が置かれている状況を思い出し、中途半端な位置で体が止まった。

「おはようございます、漣さん。」
「いやそれオレじゃなくて自販機なんすけど。」
「今ちょっと立て込んでて…、」

 なんすか。そう言った彼はあろうことかこちらに近付き、空いているわたしの隣の席に腰を下ろした。
 わたしは逃げるよう彼から必死に顔逸らす。それのなにが気に食わなかったのか、彼はわたしの頭をガシッと掴むと、自分自身の方へと無理矢理わたしの顔を向けさせた。いや力強いな。

「あれ、すっぴん…?ですかぁ?」
「…工事の途中です。」

 へぇ〜と、納得したのかしていないのかわからないような彼の手から解放されたわたしは再び鏡へと向き直る。
 微々たる違いではあるが、今日もわたしの眉毛は左右非対称だ。前髪で隠れるから大して気にはしていない。

「なんで今化粧してるんです?」
「…寝坊したんですよ。」

 珍しそうにわたしの化粧品を手に取った彼が鼻で笑う。寝坊したわたしが全面的に悪いがちょっとイラッとした。

「いつもこんなに持ち歩いてるんすかぁ?」
「今日は時間なかったので。ある物とりあえず突っ込んで来ました。いつもはもっと少ないです。」
「ふ〜ん、なんか色々あるんすねぇ。」

 そもそも、どうして彼はここに居座っているのだろうか。
 すっぴんもそうだが、化粧をしている姿を見られるのはなかなかに厳しいものがある。中途半端に化粧を施しているときの顔が一番不細工だったりもする。
 描いた眉毛をぼかしながら隣に居座る彼をチラリと見遣れば、いくつかのアイシャドウを手に取り眺めていた。

「これとこれって色違うんすかぁ〜?」
「こっちの方が少しだけ色が濃いめでラメが細かいんですよ。」
「へぇ〜、オレにはさっぱり違いがわかんねぇや。」

 そう言った彼は手に持って眺めていたアイシャドウをこちらに手渡す。渡されてしまったものだから仕方なくそれを受け取った。
 普段、仕事のときはこのアイシャドウを使うことはないが渡されてしまったので仕方がない。
 手早くアイシャドウを塗り、ビューラーで睫毛を上げた。
 隣にいる彼は頬杖を付き、こちらをじっと見ている。そして片手ではまた別の化粧品をいじっていた。
 その視線を気にし過ぎたのか、手元が狂って瞼の肉を挟んだ。普通に痛い。

「その透明なの塗る意味あるんです?」
「これを塗ると睫毛がギュンって上がります。」
「ギュンって上がるんすかぁ。」

 なぜか彼はニコニコしながらこちらを眺めている。そんなに化粧途中の女が物珍しいのだろうか。

「マスカラって、これっすかぁ?」
「あ、それはカラーマスカラです。」
「カラーマスカラ…?」
「黒じゃないんですよ、ネイビーなんでちょっと青っぽいです。」
「結構青いけど塗って大丈夫なんですか、これ?」
「案外馴染みますよ。あ、塗ってみますね。」

 彼からマスカラを受け取り、自身の睫毛に出来るだけ丁寧にネイビーカラーのマスカラを施す。コームできちんと形を整え、セパレート睫毛に仕上げた。

「こんな感じになります。」
「本当だ。浮いたりしないんすねぇ〜。」
「意外といい感じになります。」
「うん、可愛いですよぉ。」
「え、あ、あ〜…?黒以外も可愛いですよねえ。」

 びっくりした。自分が可愛いって言われたのかと思った。危ない危ない、マスカラの色のことだよ。
 さてはこの人、天然タラシだな。この顔の良さで天然タラシだなんて厄介過ぎる。所属アイドルでなければ絶対に関わりたくない。
 そんなことを思いながらアイラインを引く。粘膜の隙間を埋めようとしたが、そのときの顔がまあまあ酷いと理解している。流石に彼に背中を向け、いそいそとラインを引いた。

「あ、リップはこれがいいです。」
「え、あ、はい。了解です…?」

 振り返れば彼はこれがいいと、先程のアイシャドウ同様、普段仕事のときには使わない色のリップを指差していた。
 まあ別に良いか。そう思い、それを手に取ってキャップを外す。

「なんかめっちゃ甘い匂いしません?」
「そうなんですよ。味もまあまあ甘いです。」
「え、なまえさんリップ食うんすか?」
「口に入っちゃう時があるんですよ!食べません!」

 冗談すよぉ〜、なんて言って彼は笑った。
 そんな彼を横目に、ハイライトとシャドウの並ぶパレットを開く。
 隣に居座る彼は、日本人なのに顔立ちがハッキリしていて羨ましい。まあ、だからアイドルなんて職業に就けるのだろうけど。

「いやいやなまえさん、塗り過ぎだろ。」
「このくらい塗らないとフェイスラインの肉が削れないんですよ。」
「でもそれ明らかに色違い過ぎじゃないっすかぁ。」
「髪下ろしちゃえば大丈夫なんです!」
「そもそもそんな肉ついてないっすよぉ。」

 彼の小言に耳を傾けながら、最後にチークを塗って化粧を完成させた。
 まとめていた髪を解き、前髪を留めていたピンを取る。

「ほら!不自然じゃないですよ!」
「へぇ〜、すげぇ。」

 鏡を見ながら前髪を整える。
 あれ、なんか今日はいつもと顔が違う気がする。普段とは別の物を使ったからだろうか。まあまあそれなりに盛れてはいる。
 だからといって、出勤して仕事して退勤するだけの日常に、顔面が盛れたところでなんだという話しなのだが。

「なまえさん、こっち向いて下さい。」
「なんですか?」

 彼の方へ顔を向けた瞬間、スタイリング剤のついていない、先程調えた前髪が揺れて少しだけ崩れる。
 彼の指先が崩れた前髪を掠めた。

「いつも可愛いですけど、今日が一番可愛いっすねぇ。」
「…は?」
「すみません。オレの好みにちょっと誘導しました。」

 コツコツと響いた音に視線を這わせば、彼が指先で先程使ったアイシャドウを叩いた。
 普段は使わない物ばかりだったが、確かに今思えば全て彼が選んだ物だ。
 思わず彼に視線を戻すと、眉を下げ、少しだけ困ったような表情を浮かべていた。

「オレそろそろ行かないと打ち合わせ遅れるんで行きますねぇ。」
「え、は、はい…。」
「それじゃなまえさん、また。」

 立ち上がった彼はわたしの頭を優しく撫で、フリースペースを出て行った。わたしはデスクに戻るため、テーブルの上に散らばった化粧品を掻き集める。
 さっきの出来事はなんだったのだろうか。手に取ったリップを眺めながらそんなことを思う。
 デスクに戻れば先輩が、なまえちゃん今日なんか可愛いね〜なんて言うものだから動揺して近くの棚にぶつかった。余りの痛さにその場で蹲る。
 あの人、全然天然タラシなんかじゃない。確信犯だ。
 わたしは赤くなった顔を隠すよう膝に顔を埋める。先輩の心配する声は聞こえないフリをした。

2021.01.25






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