堕落






 茶色い紙袋からハンバーガー、ナゲット、ポテトを取り出し広げた瞬間、玄関の方からガチャリと鍵の開く音が響く。
 わたしは音の鳴る方には目もくれず、目の前にあるハンバーガーの包みを開いた。

「なんだ、いんじゃん。」
「また勝手に入ってきた。」

 お邪魔しますの一言もないまま、図々しく人の家に上がり込んできた彼は、キーケースに引っ掛けられたわたしの家の鍵をこちらに見せびらかす。
 家主に許可も取らず合鍵を勝手に作るなんて、本当にどうかしている。
 彼はバカみたいに高い値段のするスーツの上着をポイっと脱ぎ捨て、洗面所の方へ向かった。
 フローリングに落ちた上着を一瞥し、わたしは溜息をついて手に持っていたハンバーガーをテーブルの上に置く。
 無惨にも投げ捨てられた上着を拾い上げ、ハンガーに掛ける。洗面所に向かった彼はきっと、血の飛び散ったシャツを勝手に洗濯機に突っ込んでいるのだろう。なぜわたしが他人のシャツを洗わなければいけないのか。
 お金なんて腐るほど持っているのだから、大人しくクリーニングに持っていってほしい。血を落とすのがどれほど大変か。
 毎度毎度、あの赤黒く乾ききってしまった血は、きっと彼のものではなく別の誰かのものなのだろう。

「オレのシャツある?」
「この前置いてったやつならあるよ。」

 クローゼットにしまいこんだシャツを取り出し、洗面所から出てきた彼に渡す。他人のシャツを洗い、アイロンまでかけてあげるわたしは、もしかしたらすごく良い女なのかもしれない。
 やっと一仕事を終え、わたしはテーブルの前に座り、先程泣く泣く置いたハンバーガーを手に取った。
 さあ食べるぞと口を開いた瞬間、手首を掴まれ、わたしの口の中に入るはずだったハンバーガーは今、わたしの目の前にいる男の口の中へと入っていった。

「久々に食ったわ、これ。」
「安物のジャンクフードはお口に合いましたか?」
「つーかこんなモンばっか食ってんなよ。飯くらいいつでも連れてってやるのに。」
「竜胆くん、高いお店ばっか連れていくじゃん。場違いですごい浮くから嫌なの。」

 そんなわたしの言葉に彼は眉を顰めたままハンバーガーを一口齧った。お腹空いてるならそう言えばいいのに。
 半分程に減ってしまったハンバーガーはもう冷めていてあんまり美味しくない。
 彼があ、と口を開けるので、そこにしなしなになったポテトを放り込む。まっずなんて、自分の手を使って食べもしないくせに、一丁前に文句だけは言うんだ。

「服、ちゃんと着ないと風邪引くよ。」
「あー、うん。」

 ボタンの閉められていないシャツから見える肌に彫られた刺青は、彼のお兄さんと対になっているらしい。らしいというのは、彼のお兄さんの刺青を見たことがないから。
 彼とは、所謂幼なじみのような関係だ。
 灰谷兄弟、近所では悪い意味で有名な兄弟だった。
 今思うとすごくバカみたいな理由だが、その当時好きだった男性タレントと、当時の彼が似ていた。そんなくだらない理由で、わたしは竜胆くんに懐いてしまった。きっと、竜胆くんは迷惑だったに違いない。
 なにも考えられない、善悪のわからない子供は酷く厄介である。
 彼のお兄さん、灰谷蘭とは本当に小さい頃に遊んで貰った記憶が薄らとあるが、彼らが中学に上がった辺りからはあんまり話しをした記憶がない。

「ん、やって。」
「も〜、いい歳してネクタイも結べないとかどういうこと。」
「うっせ。」

 シャツのボタンを一番上まできっちり閉めた彼は襟を立てこちらを向く。わたしは仕方なしに差し出されたネクタイを手に取った。
 こういうとき、これじゃあどっちが歳上かわかんないなあなんて思ってしまう。けれど、今までの人生をトータルしたとき、世話になっているのは圧倒的にわたしの方なんだろう。
 ふと昔のことを思い出しながら、いつの間にか彼の喉元に彫られた知らない模様の刺青を指先でなぞった。

「擽ってぇんだけど。」
「あ、ごめん。」

 小学生の頃、クラスの子に、当時好きだったキャラクターのお気に入りペンを壊されたことがあった。
 今思えば遊びの延長だったのかもしれない。けれどわたしはそれがどうしようもなくショックで泣いてしまい、立ち直ることが出来なかった。
 それをなんの考えもなしに彼氏に話してしまい、わたしのペンを壊した張本人は、結果的に竜胆くんにボコボコにされた。
 それからだろうか。わたしの人生が変わったのは。わたしに害を成すものがなくなった。友達は居なくなったし、新しく出来ることもなかったけれど。
 中学生になってからも、あの灰谷兄弟に関わりのある人間というだけで腫れ物のように扱われ、特に可もなく不可もなく、平凡な三年間を過ごした。やっぱり、友達は出来なかったけど。
 それは二人が少年院に入っている間も。その頃、なんとなく二人は結構やばい人なんだなということに気付いた。気付くのが余りにも遅過ぎると過去の自分に呆れてしまう。
 それでも、彼はわたしには優しかったから。それなら別にいいや、そう思った。

「はい、できたよ。」
「さんきゅ。」
「どっか行くの?」
「ああ、まだちょっと用あんだよ。」
「なんでわたしの家来た?」
「知らねぇ奴の血付いたシャツなんて着てらんねぇだろ。なまえの家が近いから寄った。」
「なんだ。わたしに会いたかったのかと思った。」
「そう言って欲しかったわけ?」

 その知らねぇ奴の血が付いたシャツ、誰が洗うと思ってんの?なんて思いながら、皮肉交じりにそんなことを言えば、彼は少しだけわたしに顔を寄せ、首をコテンと傾けた。
 髪が伸び、前髪のある彼は実年齢よりも若く見える。肩を流れた襟足が、なんだかあざとく感じた。

「わたしは、会えて嬉しかったよ。」
「嘘つけ。入って来たときブッサイクなツラしてたぞ。」
「そりゃあ、食事の邪魔をされたので。」

 すっかり冷めきってしまったわたしの食事。冷たくなったナゲットを手に取り、バーベキューソースの中に突っ込んだ。
 いつも思うけれど、五個入りのナゲットに対してこの量のソースは多い。バーベキューソース塗れにしたナゲットを口に運ぼうとすればまた手首を掴まれる。
 だから、お腹空いてるなら空いてるって素直に言えばいいのに。

「いった!ちょ、竜胆くん!それわたしの指!ナゲットじゃないから!」
「あ、わり。」

 確かに肉であることは変わりないが、わたしは一応食用ではない。
 思わず彼を睨めば、こちらの視線など気にもとめずにナゲットを咀嚼し飲み込んだ。
 勢いよく歯を立てられた指先がじんじんと痛む。

「ベッタベタ。」
「は、ちょっと、なに、」

 彼はわたしの指先を口に含み、先程とは打って変わって力なくわたしの指先に噛み付く。
 指先に纏わり付いたソースを舐め取る姿は、なんだか見てはいけないものを見ているような気がして、思わず顔を背けぎゅっと目を瞑った。
 口内の生暖かい温度が指先の皮膚からダイレクトに伝わってくる。その感触が、わたしの羞恥を加速させる。

「顔真っ赤じゃん。」
「誰の、せい、」

 口内から解放された指先は彼の唾液に濡れ、外気に晒された瞬間、ひんやりとした空気が指先にまとわりついた。
 解放されたと思ったのも束の間、掴まれていた手首を引かれ彼との距離が一気に近くなる。
 距離を取るために彼の胸を手のひらでぐっと押したが、びくともしなかった。

「オマエはさ、いつになったらオレのところまで堕ちてきてくれんの。」
「…堕ちないよ、竜胆くんのところには。」
「オレから離れらんないくせによく言うよな。」

 彼はわたしを小馬鹿にしたように鼻で笑う。
 堕ちないよ、絶対に。きっと、一度堕ちてしまえば二度と這い上がれない。
 わたしはサスペンスドラマよろしく、追い詰められた犯人のよう、いつも崖の先端で足踏みをしている。一押し、たった一度背中を押されただけで、簡単に堕ちてしまう場所。
 カツカツと外の階段を登る誰かの足音が部屋に響いた。
 外の音が筒抜けなこのおんぼろアパートも、安いジャンクフードも、それは決して裕福とは呼べないものだけれど、わたしは一人で生きていくことが出来ている。自分の面倒は、自分で見れている。

「いつまで経っても強情な?」
「地獄に堕ちるなんて真っ平御免だよ。」
「自分から片足突っ込んできたくせに。」

 彼はわたしから離れ立ち上がると、先程ハンガーに掛けた上着を手に取る。
 上着を羽織った彼はこちらに目もくれることなく、玄関へと向かった。その背中をわたしはとぼとぼと追う。
 雑に脱ぎ散らかした高そうな革靴を履き、彼は振り返りわたしの顔を見遣る。

「さっさと楽になればいいのに。」
「竜胆くんはわたしをダメなヒモ女にでもさせたいの。」
「なまえはダメなヒモ女でいいよ。一生オレのとこにいてくれんなら。」
「ふーん、まあ考えといてあげるよ。」
「うっわ、期待出来ねぇ。」

 わたしが、普通じゃ居られなくなる気がしたから。
 わたしは何の変哲もない、ただの一般家庭に生まれ、友達はいなかったけれど普通の学生生活を過ごし、それなりに生活を送っていけるくらいには仕事をしている。どこからどう見ても、普通の生活を送っている一般人だ。
 彼が壊そうとするその普通を、意地でも守りたかった。まだ、わたしは堕ちていない。そう言い聞かせて。
 きっとわたしは、いつでも簡単に彼の元へ堕ちてしまえる。彼が手を引いてくれさえすれば一瞬で。
 それでも彼がそれをしないのはきっと、わたし自ら彼の元に堕ちてきて欲しいと願っているから。

「じゃーな。」
「またね、竜胆くん。」
「…ん、またな。」

 絶対、わたしからなんて堕ちてあげない。竜胆くんの思い通りになんてさせないよ。
 わたしは今日も、彼が無理矢理にでも手を引いてくれることを願いながら、崖っぷちで踊っている。

2021.05.20






back


top