目を覚ました瞬間、視界に広がったのは全く見に覚えのない天井だった。ズキズキと痛む頭を抑え、いまだ完全には開ききらない目を擦りながら寝返りを打つ。体がシーツに沈む感覚は、家にある安物のベッドとは比べ物にならない。
そして、見覚えのない天井に次いで視界に入ったのは見知らぬ男の顔だった。整った顔立ちに派手な髪色。その全てに目が奪われてしまった。
ようやく覚醒し始めた脳内が、現状を整理しようと必死に活動を開始する。
キョロキョロと視線だけを彷徨わせれば、そこは知らない部屋。シンプルでありながらもどこか高級感漂う造りから察するに、ここはホテルの一室だろう。
そっと布団の中を覗き込めば、自分が身に纏っているものが下着のみなことに気付き驚愕してしまった。
もしかして、もしかしなくてもだ。昨夜のわたしは、何かをやらかしてしまったのかもしれない。
頭はいまだ痛むものの、脳はもう既に正常に起動している。そのはずなのに、今の状況に理解が追いつかず冷や汗が止まらない。まさか自分が、アルコールで失態を犯してしまう日が来るだなんて。
隣で小さな寝息を立て眠る知らない男を起こさぬよう、そっとベッドから這い出る。床に散らばるのは間違いなく昨夜自分が身に纏っていた服。それを拾い上げ、音を立てないよう着替えを済ませた。履き慣れないヒールに爪先を入れ、革張りのソファに放り投げてあった鞄に手を伸ばす。
鞄から財布を取り出し、中身を覗けばそこには五千円が鎮座している。それは千円札五枚で。その千円札五枚を一瞬強く握り締め、そっとサイドテーブルに置いた。
生憎、こういったホテルの相場は全くもってわからない。これが休憩なのか、はたまた宿泊なのか。そもそも、足りる足りない以前の問題だ。財布には五千円しか入っていないのだから。
さようなら、なけなしの生活費。これはきっと、社会勉強としての代償だったのだろう。
財布を鞄に押し込み、細いヒールが音を立てぬよう歩みを進め、静かに部屋を出る。
一歩部屋の外へと出れば、廊下には大理石が埋め込まれ、壁紙もなんだかよくわからない柄ではあるが謎に高級感に包まれていた。
無遠慮にヒールをカツカツと鳴らし、やっとの思いで見つけたエレベーターの扉の前に立つ。少しだけ震える指先で下の階を指し示す矢印のボタンを押した。
設置された液晶パネルを見上げるが、映し出された数字はどんどん大きくなり、最終的にはその数は四十を超えた。
その階数に唖然としていれば、軽快な音を立て扉が開かれる。戸惑いながらも足早に小さな箱の中へ乗り込んだ。一歩踏み入れた箱の中。そこはガラス張りになっており、東京という大都会の街並みを見渡すことが出来た。
一階を示すボタンを押し、閉のボタンを必死で連打する。連打したところで扉が閉まるスピードは変わらないというのに。
最近のラブホテルはこれ程までに清潔感に溢れ、高層階が当たり前なのだろうか。はたまた、東京ではこれが普通なのだろうか。どの道、入ったことがないから全くもってわからない。
頭を抱えていれば、いつの間にかフロントのある階に到着していた。逃げるようにエレベーターから飛び出し、俯きながら早足でホテルの外へと出る。
横目で少し確認出来た程度だが、ラブホテルのフロントを務める従業員はあんなにも愛想良く挨拶をしてくれるものなのだろうか。行ってらっしゃいませだなんて、あまりにも手厚過ぎる。もう二度と帰ってくることはないけれど。そんなことを思いながら振り返った。
視界に広がるのは、無駄に青い空に向かって聳え立つ高層ホテル。そして、目についたホテルの名前。違う。ここはラブホテルなんかじゃない。地方の田舎で育ったわたしでも知っている。そこにあるのは、都内有数の高級ホテルだった。
喉がひゅっと鳴る。明らかに、千円札五枚などでは到底足りるはずがない。
そう理解はしつつも、ないものはどうしたってないのだ。今からコンビニでお金を下ろし、再びあの部屋に戻る勇気なんてありはしない。
少しの罪悪感を抱きながらもマップアプリを起動させ、冷たいコンクリートを踏み締めながら駅の方へと足を進める。こちらを照らし出す朝日があまりにも眩しくて、思わず目を細めた。
なんか、呆気ないものだった。物理的にも心理的にも痛くも痒くもなければ、記憶も一切ない。あー、こんなものなのかなって。
拝啓、田舎のお母さんへ。娘は東京に来て、貞操観念がおかしくなってしまったようです。お酒の勢いで全く知らない男に処女を明け渡してしまいました。今まで大切に育ててくれたのにごめんなさい。
どうにかこうにかして自宅へと辿り着き、手っ取り早くシャワーを浴び着替えを済ませた。
アルコールのせいでいまだにズキズキと痛む頭に耐えながらも大学へと足を運ぶ。薬なんて効きやしない。
背後から呼ばれた名前に思わず顔を顰めた。人の声すらも響くなんて昨夜はどれ程飲んだのだろう。
なんとか眉間の皺を伸ばし振り返れば、こちらに駆け寄る友人が昨日先帰ったの?と心配そうに顔を覗き込む。
それにうんと一つ頷き、曖昧な笑みを浮かべた。多分、先に帰ったのは嘘ではないはずだから。
そうだ。昨日は六本木のクラブに行ったんだ。新しい出会いを探しに行こうと目の前の友人に腕を引かれて。
あまりにも衝撃的な出来事が起き、今の今まですっかり忘れていた。わたし、失恋したんだった。
今思えば、失恋と呼ぶのかどうかもわからない。別に、付き合っていたわけではないし、告白もしていない。つまり、振られてもいない。わたしの中で勝手に始まって、勝手に終わってしまっただけ。
そんなわたしを見て、慰めようと思ったのか、はたまた自分がただ遊びたかっただけなのか。友人に誘われ、そのまま着いて行った。
普段は足を踏み入れることはない六本木の地。ギラギラと目が眩むような派手な電飾に鼓膜を突き破ってしまいそうな雑音。慣れない空気を誤魔化すよう、アルコールを煽った。名前しか知らないマティーニを飲めば、あまりの度数のキツさに噎せたことを思い出す。その記憶を最後に、今朝の出来事へと繋がる。
酒に酔って知らない男と寝ましたなどと言えるはずもなく、誤魔化すよう誰か良い人いた?と尋ねる。友人の話しに相槌を打ちながら、昨夜のこと、そして今朝のことは心の中に封印しようと固く誓った。
大丈夫、わたしは今日もなにも変わらない。
急にバイトが入ったと、店長の愚痴を零しながら化粧を直した友人を見送り、ダラダラと帰宅する準備をして大学を出る。
今日はバイトが休みで良かった。さっさと帰って寝てしまいたい。なにも考えたくないのは、なんだかんだ、いまだに心の整理がついていないからなのかもしれない。
大学を出れば、路上にセダンタイプの高級車が停まっていた。高そうな車だ。都会はその辺をこんな高級車がぶんぶん走っているのだからすごい。自分にはあまりにも無縁過ぎる物だ。そんな呑気なことを考えながら高級車の横をすり抜ける。背後でバタンと、車の扉を閉める音が鳴った。
「みょうじなまえちゃーん。」
「え?」
自分の名前を呼ばれ振り返る。振り返った先、そこに居たのは高級車にもたれかかっている男。
額に汗が滲む。思わず、鞄の持ち手を握る手のひらに力が入った。
「出てくんの遅せぇよ。どんだけ待ったと思ってんの。」
「…えっと、」
俯いて目をギュッと閉じれば、今朝の記憶が蘇る。この人、朝隣で寝てた人だ。
顔を上げることが出来ず、汚れたコンクリートにひたすら視線を彷徨わせていれば、よく磨かれた革靴が視界に入った。思わず一歩後退ると、すかさず手首を掴まれ肩が震える。
「あの、その、」
「逃げたら今ここでアンタにヤり逃げされたってデカい声で言うけど?」
その言葉に勢いよく顔を上げ、取れるんじゃないかと思うほど首を横に振ることしか出来なかった。
聞き分けよくて助かるわ。そう言って、目の前の男は背後の高級車を指さした。多分、乗れということなのだろう。
目の前にいた男はわたしから離れると、運転席の扉を開いた。着いていかなければいけないことはわかっている。わかっているはずなのに、嫌だという気持ちが先行して足が動かない。
「あ〜、そういえばこれ大事なモンだろ?」
「…え、それ、」
「もしかして無くなったの気付いてねぇの?」
男が手にしているの間違いなくわたし自身の学生証だ。その場で鞄から財布を取り出し、中身を確認する。いつも学生証があるはずのポケットに学生証はなかった。あれは正真正銘、わたしの学生証で間違いないのだろう。
先に車に乗り込んだ男は、フロントガラス越しに学生証をかざす。それを見て、わたしは一生触れることはないだろうと思っていた高級車の元へ向かい、震える手で助手席の扉に手を掛けた。
拝啓、田舎のお母さんへ。娘は東京に出て、とんでもない男と関わってしまったのかもしれません。
2021.06.12