あなたの心に石ころ詰めて
この前まで、ひんやり心地よかった空気は、私が知らない間にすっかり底冷えするようなものになっていた。
透くんは朝から仕事に出掛けていて家には私一人きり。暇を持て余している私は澄み渡る秋空を眺めてうつらうつらと微睡みながら、唐突に家事のお手伝いでもしようと思い立った。
そうっとベッドから起き上がり廊下に出て、物置きからフローリングワイパーを取り出しみたけど思ったより柄が長くて驚いた。私の身長よりも少し短いくらいのワイパーは、私の持つ位置が低すぎてぐらぐら安定しない。それでも、毎日忙しそうな透くんの負担を減らすために! と燃える闘志でいざ掃除をしようと床に目を向ける。
そこには磨かれたようにピカピカなフローリングが続いていた。ダイニングに戻って見回してみてもホコリがない。テーブルの下や棚の後ろを覗き込む。それでもゴミは見つからない。
仕事と育児を両立するだけでも大変なのに、その上、家事まで手を抜かないなんて。あまりにも完璧な透くんの手腕に私は項垂れていると、玄関からガタンッと音がした。
やばい。透くんが帰ってきた。そう思ったときには、もう透くんはダイニングに入ってきてしまっていた。
「お、おかえり。早かったね」
へらっと笑いながらワイパーを後ろ手に隠そうとしたけど、そんな誤魔化しが通用するはずもなく、挨拶を返した透くんは目をすがめた。
「……どうしてそんなものを持っているんですか。怪我人という自覚はありますか?」
「実はあんまりない」
深い溜息に申し訳なくなるけど、でももう怪我人なんて大袈裟なものじゃない。
遊びに出かけて銃乱射事件に巻き込まれたのは秋の中頃のことだった。太ももに弾が掠った私はもちろん怪我人だったし、肉は抉れたしたくさん血も出たから安静にするのも当然だった。でもすべて過去形。今はもう冬に差しかかった十二月。巻かれていた包帯ももう外れているし、少し動き回るくらいなら痛みもない。完治も目前だ。
透くんだってもう寝たきりを要求してはこないけど、さすがにフローリングワイパーを持っているのは見過ごせなかったらしい。顎に手をやって、ダイニングを見回す。
「何かをこぼしたわけではなさそうですね」
透くんは再度考えを巡らそうとしたけど、それに私は待ったをかけた。推理するほどのものじゃない。
「暇だったから、家事の手伝いをしようと思ったの」
「家事の、手伝い?」
「そんな、初めて聞いた言葉みたいな反応しないでよ」
「いや、そんなつもりじゃなかったんですけど、どうして急に?」
私は、もぞっとワイパーの柄を握り直した。
「だって、透くん忙しいのに私が怪我したせいで、私の世話までしないといけなくなったでしょ?」
さっきまで探偵の顔をしていた透くんが、ぱちりと瞬きしてから目尻を下げた。
「そんなに負担にはなっていないんですけどね」
「……本当?」
「ええ。食事も掃除も洗濯も、全部僕が生活するためのついでですから。多少『ついで』じゃないこともありますが、それくらいわかった上で僕は引き取ったんです。気にしなくていいんですよ」
優しく諭すように言われて、そっと視線をそらした。気遣いは嬉しいけど、どうも落ち着かない。
透くんのそれは子供に対してのもので、私は子供じゃないから受け取っていいのか困ってしまう。体のサイズで少しの不自由はあるけど、分別はあるから一人でだって生きていけるのだ。透くんが多少の負担も感じる必要は、本当ならない。
差し出された手にワイパーを渡そうとして、ふと手を止めた。
「じゃあせめて自分の部屋を掃除するよ」
手伝いにもならないけど、自分のことは自分でやろう。そう決意した私に、今度は透くんが目をそらし頬をかいた。
「……もしかして」
「今朝、寝ているときに掃除しておきました。ダイニングのついでだったので……」
気まずそうに私の手からワイパーを取った透くんに、私はすごすごと部屋に戻るしかなくなってしまった。
手際のいい透くんから仕事を奪うのは、私にはまだ早いらしい。