連れ去る話
千里眼の子どもを拐うためにイタリアまで出向いた僕とベルモット、それにジンとウォッカは目の前の小汚ない雑居ビルを見上げた。先に受け取った情報によると、今日は警備が手薄になるらしく真っ正面から侵入する手筈になっている。ベルモットに目配せをすると、彼女は余裕の笑みを浮かべたまま頷いた。
音のならないように慎重にビルの扉を開いた。中は薄暗く人気がない。ファミリーの者がいないことを確認してから後ろの二人に合図を送った。
玄関は瓦礫や割れたガラスが散乱していて足音を消すのが至難の技だが、奥に進めば意外と綺麗に掃除がされていた。壁に耳を当てると細かなの振動を感じる。人が多いらしいが、あまり近くにはいないようだ。実験施設のある地下の方は振動がなく、ほっと息を吐く。
階段を降りてしばらく歩くと重々しい南京錠で閉ざされた鉄格子に行き当たった。
「この先にいるようですが鍵がかかってますね。どうしますか? 探しにいきますか、それとも――」
「壊せ」
「そう言うと思ってました」
南京錠の前から体をずらすと、すかさずベルモットが懐から出したサイレンサー付きの銃で鍵を打った。壊れた南京錠を地面に落とし、重たい鉄格子を引いた。鉄格子は重い金属の擦れる音を響かせた。それが予想以上に大きな音だったのでジンが舌打ちをした。もしかしたら今の音で上にいた奴らが気づいたかもしれないからだ。さっさと子どもを連れていってしまおうと、奥を目指す足が早くなった。
奥はT字に分かれており、僕とウォッカが右をベルモットとジンが左を捜索することにした。
通路を挟んで左右に監獄のように部屋が連なっている。扉の上部に縦5cm、横30cmほどの覗き窓がついているので、それを覗きながら千里眼の子どもがいないかを確かめていく。
閉じ込められている子どもたちは痩せ細っていて薄汚い服を身にまとっているが実験された様子の子どもはいない。突き当たりまで確認してから、急いでベルモットたちの方へ走った。あっちに本命の子どもがいるに違いない。
開いた扉の前にジンが立っているのが見えた。あそこかと足を早めた瞬間、子どもの呻き声のような叫びが地下中に響いた。幼い子どもに何をやっているんだと頭に血がのぼる。ジンが口を動かしているのを見ながらそばまで駆け寄り、部屋の中を見た。
子どもは無事だった。無事と言っていいのかわからないほど傷つき、血が乾燥して汚れていたが。しかし僕は子どもが無事であったことよりも、子どもの容姿に気づき、顔が強張った。部屋は薄暗く、子どもはやつれて汚れているが明らかにアジアの風貌をしている。それも日本人に。祈るような思いで、子どもに優しく語りかけるベルモットに視線を移した。
「ねえ、あなた千里眼が使えるんでしょ? 遠くにいる悪いやつらの場所わかるかしら?」
勝負を仕掛けたのが空気でわかった。もし、この子どもがボスの場所を答えられなかった場合、千里眼の噂は嘘だったとしてこの場を去ることになるだろう。この子どもを殺すか捨て置くかして。どちらにしても、噂が嘘ならこの日本人かもしれない子どもは近い内に死んでしまうだろう。
こんな幼い子どもを組織に引き入れたくないが、しかし子どもが生き残るにはそうするほかないのは明白だった。
僕が子どもを見つめることができないでいると、ベルモットが何か驚いたように呟いた。僕より前にいたウォッカの息を飲む声が聞こえたが、僕には二人が何に驚いているのかはわからなかった。
「人が、いっぱい、……いっ、うぐ」
呻くように低い声で言った言葉はイタリア語だった。少し癖はあるが流暢だ。僕はあまりイタリア語に詳しくはないが、この子ほどゆっくりだと聞き取ることができた。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいわ。……人がいっぱいいるのね。それで、悪い人はどこ?」
ベルモットは苦悶の表情を浮かべる子どもの頭を優しく撫で、続きを促した。
「黒い人、黒いっ、ひと……赤い血。……わるいひと、上」
「上の階? 周りには何があるのかしら」
「本」
子どもは吐息混じりの掠れた声で答えるのを聞いて、ジンが「書斎か」と呟いた。確か今日は上の階で小さなパーティーがあったはずだが……。鉄格子の音か、子どもの悲鳴かを聞いて書斎に逃げ込んだのだろうか。
「おいウォッカ、殺りに行け」
ジンがウォッカに指示すると、ウォッカが動き出すよりも早くベルモットが子どもに「書斎は何階にあるの?」と訊ねた。
「三回、っかい、だんを上った」
「ここは地下だから二階に書斎があるのね」
「右の本の奥、悪い人!」
今までにないほど大きくそう言うと、力を使いすぎたのか咳き込んだ。そして書斎の隠し扉の存在を聞いたウォッカは慌てて走っていった。
咳が止まらない子どもの背中をベルモットが撫でていると、ジンが僕の方を見て「どう思う」と小さな声で問いかけてきた。
「どう思うってなにがですか」
「千里眼のことだ」
「……まだ信じられませんけど、でもおそらく本当でしょうね。なにか仕掛けがあってスパイとして仕立てようとしていたとして、こんなに痛めつける必要はありませんよ。子どもの演技でもなさそうですし」
「そうだな」
驚くほどすんなりとジンが頷いたものだから拍子抜けしてしまった。しかし、これでしばらくは、この子どもの命助かったようだ。
ほっと息を吐いたのと同時に子どもが「悪い人、撃たれた」と呟いた。それが最後の力だったのか、それだけ言うと意識を失ってしまった。
「おいバーボン、こいつを抱えろ。ボスを殺ったんだ、もうここには用がない。さっさとずらかるぞ」
ジンはそう言い切る前に踵を返して来た道を戻っていった。