「クリス君は社長さんだから、駆け落ちはできないねぇ」
クリスの膝の上に乗せられ、後ろから抱き締められていた春音は、目線を画面に向けたまま、ぽつりとそう呟いた。テレビではちょうどドラマが放送されており、二人はそれを見ている真っ最中だった。
「春音はしたいの? 駆け落ち」
唐突なその言葉に驚くこともなく、やさしく頭を撫でながらクリスが問いかける。
春音は横目でクリスを見て、少しだけ間を置いてから「ちょっとだけ」と照れた様子で笑みを浮かべた。その無邪気な姿に、クリスは胸が温かな気持ちで満たされていくのを感じていた。
「女の子はやっぱり憧れるものなのかな」
「……んん、憧れるっていうか、全部捨てても側に居たいって気持ちには共感するかも」
放送されていたドラマはよくあるストーリーで、身分差のある男女が駆け落ちし、海外へ渡るという話だ。
クリスは半分聞き流した状態で春音の視聴している時の表情を眺めるのに勤しんでたので、それほど中身に関心があったわけではなかったのだが、春音はそうではなかったらしい。
「何があっても、その人と一緒なら越えられるって思えるほど愛してるってことなんじゃないかな」
「じゃあ、春音は?」
「私? そりゃあもちろん、クリス君が相手なら喜んで」
きょとんとした顔になったのも束の間、にっこりと花が咲くような笑みを浮かべ、首の後ろに腕を回し、春音はぎゅうとクリスに抱きつき、クリスも小さな体を包み込むように抱き返す。
「じゃあ、いつかしてみようか、駆け落ち」
「……んー、そしたらクリス君の部下の人もクリス君も大変になっちゃうよ」
「大変じゃなくしてからするのは?」
「ふふっ、それだと駆け落ちじゃないよ」
こつんとおでこを合わせて、内緒話をするように声をやや小さくして会話を続ける。
ふわりと香る花の匂いに、確かな幸福を感じた。
――彼女は、何も知らない。
無知は罪とよく言うが、彼女に限ってはそうとは言えない。むしろ知らなくて良いことばかりだ。
すやすやと眠る少女の髪を撫でながら、クリスはズボンのポケットに忍ばせておいたピルケースを取り出した。中にはカプセル型の錠剤が入れられており、それを一粒取り出す。
「……春音」
すうすうと寝息をたてる唇にカプセルを触れさせて――そっと離した。意気地無しめ、と軽くため息を吐きながら、カプセルをケースに戻す。
どうしよう、と泣き泣きの声でかかってきた恋人からの電話に何事かと焦りながら駆けつければ、そこにはよく知る恋人の姿はなく、懐かしい姿をした幼子が縮こまって泣いていた。
そして幼子が自分の名前を呼んだ時、彼女に何があったのかを察した。
――本当はもう解毒剤ができていると知ったら、春音はどんな顔をするだろう。
元の姿に戻れると喜ぶだろうか、それよりも僕が隠していたことに怒るだろうか。春音に限って無いとは思うが、幻滅されてしまうのではないだろうか。……嫌われてしまうのではないだろうか。
彼女の為を思うなら、早くこれを飲ませて元の姿に戻すべきだ。だけどその決断を先伸ばしにしようとする自分が居るのもまた事実だった。
「やっと会えたんだ……」
最愛の人を奪われた怒りと憎しみ、正気すらも投げ捨てた復讐の果てに死んだ男の記憶を物心がつく前から持ち合わせ、それと上手く折り合いをつけて生きてきた。
記憶を元に日々を流れるように過ごしながら、常に胸の中にあった渇望は日に日に大きくなり、求める相手はいつ現れてくれるのかと、ずっとずっと心待ちにして――やっと見つけた。
自分より幾分か幼い彼女は、前≠フ記憶を持ち合わせていなかった。落胆がなかったかと言えば嘘になる。だが、それで良いと思った。そっちの方が、都合がいい。
するりと彼女の世界に溶け込み、上手く彼女の両親とも親交を深め、じわじわと自分のものにできる日を待ち続けた。獲物を狙うように、じっくりと。
そしてようやく手に入れた。前≠フように彼女を狙う奴は一人も居ない、彼女も自分だけを見てくれる。幸せで幸せで、泣きそうなほど幸せで――同時に不安になった。
彼女は外に出られる。前≠フ彼女は僕が帰ってくるのをずっと部屋で待っていてくれた。それは片脚が不自由だったこともあるけれど、なによりも僕のことを好いてくれていたからだと、少なくとも僕はそう思っている。
愛されているのは痛いほど分かってるのに、自信がない。満たされているからこそ不安だった。彼女が離れてしまうのではないかとあるはずもない不安や焦燥感に駆られて、彼女を外に連れ出すのに抵抗感を持ってしまった結果がこれだ。
「好きだよ、愛してる、春音」
だからもう少しだけ待って欲しい。このどろどろと溢れだしたやましい気持ちと折り合いをつけたら、すぐに戻してあげるから。
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