君が夢見た愛よ
「ななし。具合、よくない?」
問いかけてくるおにいちゃんの手は温かくて、そのやさしい温もりが今の私にとって唯一の救いだった。私は首を振り、「すこし緊張してるだけ」と返事をする。
おにいちゃんは「そうだよなぁ」と深く頷いた。
「ちょっとだけ頑張ろう。俺も側にいるから」
「……うん」
おにいちゃんの言葉に頷く。朝から何度も繰り返しているやり取りをして、深呼吸。前を向けば嫌でも視界に入る大きな扉があって――その扉の奥にある部屋で、私を待っている人がいる。
1
超・少子化対策基本法――通称「ゆかり法」によって、国民は男女関係なく十六歳になると同時に自由な恋愛が禁止になった。
誕生日が来ると共に政府から通知が届く。それに示されているのは遺伝子的に『最良の相手』とシステムから算出されたパートナーだ。
私達はその相手と、結婚を前提とした交際をしなければならない。
十六回目の誕生日を迎えて暫く。今や申し込みをしないか、あるいはジェンダーなど繊細な理由などの例外を除きほぼ全ての国民に適用されているその法律は、私にとってもけして他人事ではない。
今日は、私が政府通知の相手と初めて顔を合わせる日だ。
扉が開かれ、先に中に一歩踏み出した兄の手を掴む。喉から縋るような声が出る。
「おにいちゃん」
「なあに?」
「……こわい……」
心臓が今にもはち切れてしまいそうだった。口から溢れだす言葉は泣き言に近くて、今日は病院を出てから此処に着くまで何度も同じような会話を繰り返している。
ぐずぐずと何度も弱音を吐く情けない妹を、その度に「大丈夫だから」と見捨てないでいてくれる兄には頭が上がらない。
「心配しなくていいんだよ。どうしても無理なら、にいちゃんが何がなんでも連れ出してやるから、な?」
「ごめんね、おにいちゃん……」
「ななしがそんなこと気に病む必要ないよ」
頭を撫でられ、手を取られる。
「さ、いこうね」とまるで幼子を相手にしてるような声に、私は頷くことしかできなかった。
「桐嶋夏也です。遅れてすみませんでした」
そんな言葉と共に頭を下げた男の人――桐嶋さんは、とても整った顔立ちをした、かっこいい男の人だった。
身に着けているスーツがよく似合っていて、引き締まっていそうな逆三角形の体格は鍛えているのだと服の上からでもわかる。
桐嶋さんは私達が着く少し前に着いたようで、部屋に入った時にはもう席についていた。
部屋に入って一番に目が合い、咄嗟におにいちゃんの影に隠れた私を宥める兄との会話からして、気分を損なわせてはいないようだったが、自分が一番大切なところで躓いたのはわかった。
席について、居心地の悪さにじりじりとフラストレーションが溜まる。
隣に座ったおにいちゃんが机の下で大丈夫だよと手を繋いでくれてるお陰で、辛うじて平常心を保てているのが現実だった。
「ななし」
「……え?」
思考が回らずぼんやりとする私に、「ご挨拶をしなさい」とやんわり母が促す。
「はい……」
いざ自分に目線を向けられると、途端に心臓が痛みだす。テーブルの下、震える私の手を優しく握る力を強めてくれたおにいちゃんに感謝しながら、私は声を絞り出した。
「……みょうじななしです。こちらこそ、遅れてしまい申し訳ありませんでした……」
ああ、だめだ。
目の前に座るあの人の顔を見て言いきるつもりだったのに。言葉と共に、視線が緩やかに下降していく。私の緊張を感じ取った、兄の隣に座る父が「すみません、恥ずかしがりやなもので」と会話を取り成してくれる。
続けて母が「顔合わせの日に突然検診が入ってしまいまして申し訳ありませんでした」と言うと、相手のお母様――桐嶋さんは、優しい微笑みを浮かべて「いいえ」と首を振った。
「お気になさらないでください。事情はお伺いしていましたし、うちの息子も遅れて来ましたから……全く、何も理由のない人が遅れてくるなんて」
「思ったよりも道が混んでたんだよ」
じっとりとお母様に睨めつけられながらも平然と片手を挙げながら謝る姿は爽やかだ。きっと、学生時代はさぞ異性からモテたんだろう。
特に喋ることもなく大人達の間で進んでいく話に耳を傾けていると、今日は試合で不在だが、桐嶋さんには二つ歳の離れた弟さんが居るということが分かった。
二つ下ということは、私よりも三つ年上ということになる。年齢差のある結び合わせはおかしくないけど、暫定とはいえ、未来の義理の弟が年上とはなんとも不思議な気持ちだった。
「――ああ、そうだわ!」
私が頭の中で悶々と考えているうちに、両親達はすっかり意気投合したらしい。両手を合わせた桐嶋さんのお母様が、私と桐嶋さんを見つめて朗らかに言う。
「どうせなら二人で、庭園の方をお散歩してきたらどう?」
「ま、素敵ね! 二人きりの方が何かと話も弾むでしょうし!」
「いや、いやいやいや、ねえ、かあさんちょっとそれは」
「あなたはお口にチャックしてなさい」
流石にそれは待て、と止めに入ったおにいちゃんが、母の容赦のない口撃で沈められる。一撃だった。
父はもとから頼りにならないと分かっていたので兎も角、兄までも容赦無く潰す問答無用のその姿に、我が家のヒエラルキーのトップは母なのだと思い知らされる。
「ね、ななしちゃん」
忘れていた、この人は鬼であると。満面の笑顔で母が私を見る。
私には「はい」か「イエス」以外の返答は許されてない。
2
『此処の中庭の庭園は温室みたいになっていて、とても綺麗だって有名なの』
『ななし、温室とか好きだもんね? 桐嶋くんと一緒に見ていらっしゃい。桐嶋くん、娘のことお願いしても大丈夫かしら?』
『ええ、大丈夫です。任せてください』
『うふふっ、頼もしいわ〜』
喜色満面――そんな言葉がよく似合う母達に強制的に送り出された中庭の庭園は、話通りドームのような形状の温室で、とても綺麗な場所だった。
まるで西洋の映画に出てきそうな神秘的な雰囲気があってとても綺麗だ。……こんな状態でなければ、きっと心の底から喜んでたくさん写真でも撮ったのだろうが、今の私はそれどころではない。
ここに来るまで数度簡単な会話を交わしたものの、それ以外は見事に無言。距離が縮まるどころか、気まずい沈黙に心臓が痛くて仕方がない。
なにか、なにか話をしないと――俯きがちになっていた目線を彼に向けると、いつの間にか私を見ていたらしい彼と目が合って、体が硬まった。
さながら、蛇に睨まれた蛙とか、そういう感じで。
「――その制服」
「……え」
「学校のか? よく似合ってるなと思って」
「あ……ありがとう、ございます」
突然の誉め言葉に、どう返すべきか悩んで、結局無難な返事しかできなかった。
おにいちゃんのようなユーモアのセンスが欲しいと今ほど切実に思うことはない。しかし、服装を褒められたのは素直に嬉しかった。頑張って勉強して受かることができた女子校の制服は、昨今では珍しいかもしれない、独特な形のセーラー服なのだ。
「桐嶋さんも、その……スーツ、よくお似合いだと思います」
「おっ、そうか? ありがとな。普段は着ないから動きにくくて仕方ないんだが――褒められて悪い気はしないな」
ニッと笑いながら言う顔につられて、私の口角も自然と上がる。じくじくと痛む心臓が、いつの間にかおとなしくなっていることに気がついた。
胸に手を当て首を傾げつつ、けれど痛みが無くなったことは良いことだと思う。もしかしたら、おにいちゃんに助けを求めなくて済むかもしれない。私だけの力で乗りきれるならそれが一番いい。
「しかし、いいな、セーラー服」
「……そ、うですか?」
「ああ」
一歩、二歩、と少しずつ近づいて来る桐嶋さんに、逃げるわけにもいかない私は、おそらくひきつり気味の下手くそな笑みを浮かべて、相槌を打つ。
数分前から一転、普段ならあり得ないほど近い距離に男の人が居る。その事実だけで、脳味噌がパンクしそうだった。
そんな私の心なんて露程も知らないであろう桐嶋さんは、徐に口許に手を当てて、嬉しそうに目を細める。
「――そそるな」
おそらく、これまでの人生の中で一番俊敏な動きだったと思う。
声にならない声で悲鳴をあげると同時に逃げ出そうとした私の腕を掴んで、「ちょっと待ってくれ」と焦った様子の声が聞こえた。
「ヒッ、や、やめて、いや、やだ、や……」
「悪い! 怖がらせたな」
鍛えているだけあって彼の力はとても強くて、どれだけ頑張ってもびくともしない。己の非力さと現実を思い知って、顔からどんどん温度が消えていく。体はガタガタと小刻みに震えて止まらなくて、冷や汗が背中を伝い、なんなら、目尻に涙も浮かび始めている。
そんな私に気づいたのか、少し焦った顔でわたわたとする姿は、こんな状況でなければきっと胸をときめかせることができただろう。今はただただ怖くて仕方ない。
――私は、男の人が怖い。
「ごめんな、やっと会えたのが嬉しくて、思ったよりもテンションが上がっちまって、変な意味じゃかったんだ、ほんとに!」
「……」
「日本に帰ってきたら通知が来たって知らされて、やっと来たか! ってすげー楽しみだったんだけど、」
「……?」
「実際会ってみたら想像してたより可愛い女の子が居て浮かれちまった。お前の『事情』は先に聞いてたし、できるだけ優しくエスコートしたかったんだが……」
すまん、といいながらもその目は熱を帯びていて、それがまた私の恐怖を煽る。口の中は既にカラカラだ。
「わ……わた、わたし……あの……」
「無理に今すぐ適応しろ、なんて酷なことを言うつもりはない。ただ、少しずつでいいから受け入れてほしい。一度受けた恐怖は早々拭えないだろうけど、頼む。――俺を受け入れてくれ」
懇願するように言った彼の目は真っ直ぐで、息が詰まる。
――男の人が怖い。
正直、結婚なんて無理だと諦めていた。ゆかり法で最良の相手が見つかっても、私では成立しないだろうと、「恋」なんてできないって、そう思っていたし、今も、そう思っている。
思い出すだけで吐き気がする、痛くて悲しくて苦しい記憶が私を見逃してくれたことなんて無かった。だから女子校に通っているのだ。身を守るために。でもゆかり法の前ではそれさえも無意味で。
ペナルティが怖くてやむを得ず会っているような私に、こんな厄介な、地雷だらけの女に、年下の女に、こんなにも真摯に向き合ってくれているこの人の真っ直ぐな眼は、つらい。……逃げられなくなるのが、怖い。
「わ、わた、わたしなんかより、きっと、もっと素敵な人がこの国に沢山いると思うんです」
「俺はお前がいい。最良の相手ってだけじゃなく、この短い間でお前と居て、そう思った」
「あっあの、桐嶋さんのことが嫌なんじゃないんです、わ、私はっ、家族以外の異性が恐ろしくて仕方ないんです。きっと、私が慣れるより先に、桐嶋さんの心を傷つけてしまう。だから、どうか、この話は破談に……」
「断る」
腕を握っていた手が離れ、私の手を包み込むように握られる。心臓がきゅっと縮んだ。
「破談にはしない。――傷ついていても、自分の心より相手を慮れる、そんないい女に出逢ったんだからな。こんなチャンス、きっと後にも先にもない」
「これからよろしくな、ななし」