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気づいたら紅い蝶


 ふと気づいた瞬間、あたしの中には「私」の記憶があった。

 1

 ちっちゃな頃から悪ガキで、なんてフレーズの歌があった気がする。
 鏡に写る「わたし」の姿は、まさにその悪ガキそのもので少しおかしかった。色を抜いて傷んでる様子の金髪のロングヘアに、耳にはピアス。驚いたことに、眉毛もほとんど無くなっていた。

 私が人格を確立しーー「記憶」に気付いたのは小学生の頃。目が覚めたような感覚と共に、私は「あたし」として現実に降り立った。
 なんとその時にはもう族デビューを果たしていたのには頭を抱えた。幸い、まだ入りたてでガワだけヤンキーみたいな感じだったのもあり、私は悟りを開いた顔(菩薩顔ともいう)で周りと一線を画し、我が道を切り拓くことに成功したのだが。
 いまの私はロンリーウルフ。手を出されない限りは安全な、セーフティ付きの尖ったヤンキーである。

「#名前#姐さんっ」
「んー?」

 少し焦った顔でやって来たのは私の舎弟を名乗る少女だ。茶髪のショートカットが可愛い、リスのように小柄な女の子である。
 私はシャツにジーパンというラフな格好で本を読んでいて、私の意を汲んでくれているらしい彼女もTシャツにジーパンという服装だ。TPOを弁える中学生とは我々のことです。

「なんかあった?」
「ハイッ! ーーいつものやつです」
「あー……どこの子?」
「隣町のやつなんスけど、どーも野郎に手ぇ出されかけて族の中でギスってるとかで嫌んなったらしくて」
「そりゃまた、なんつーか」

 下品な男も居たものである。
 まあ、中高生の男子なんて覚えたての行為に溺れる性欲に火の着いた発情期の猿と同義なので、ヤンキーなんて尚のことだろうと思うのだがーーしかし同意無しの行為はただの強姦。完全アウトだ。そしてレディースは女の世界。嫌気も指すことだろう。

「一回、顔出すかねえ」

 パタンと図書館で借りた小説を閉じる。
 正直、出さずに済むなら出さないでいたい族の集会。
 私は時折、こうして助けを求めてきた族から足抜けしたい子供を手引きして逃がしてやっている。所謂「貸し」を作りまくって、後々どうにかうまーく存在を希釈してさらっと族抜けワンチャンを狙っているのだが、なかなかどうして厄介事は無くならない。
 ベンチに背を預けて溜息をつくと、リスちゃんは「おいたわしや」とそっとペットボトルを差し出してくれた。彼女も私が手引きしたやった一人だが、つくづく族など似合わぬ良い子である。頭を撫でてやると嬉しそうに笑うのがまた可愛い。

「あっ、姉御だ!」
「姉御サッカーやろーぜ!」
「今日はやらなーい」

 「え゛ー!?」とブーイングをかますやんちゃ盛りのちびっ子らに手を振り返し、私はリスちゃんから貰った飲み物を呷る。
 学校に行かず、天気のいい日は日差しのうららかなこの公園で一日中本を読んでいる私は最早名物扱いだ。
 純粋な子供たちには見た目ヤンキーなのにマトモに見えるのが余程面白いらしい。真っ当な親ならこんなヤンキーからは即刻子供を引き剥がすべきだろうに、なぜか公園の守護神扱いである私の親御さん受けはやたら良い。
 おかげで昼を食いっぱぐれることはほとんど無い。差し入れをよく貰うので。今日はリスちゃんの手作り弁当であった。大変美味しくて、この子のためにも私もそろそろ族抜けの手段を考えなければと思う毎日だ。
 図書館の常連として、本を返り血まみれにするわけにもいかない。学校に行かない私にとって、図書館は勉強できる大切な場所なのだから。

 2

「勝沼! 貴様なんだその格好は!」
「はぁ」
「ちょっとこっちに来い!」

 そう言って無理やり連れてこられた部屋で、中年の男性教師が私を壁に投げつけるように押し付けた。背中が痛い。制服の気崩し程度でなぜ怒るのだろう。冷え性だからロング丈にしてるのがそんなに気に食わないのだろうか。
 名前も顔も知らないけど、生活指導っぽい顔をしているしーーただ唾を飛ばすのは人としてどうなのだ。汚い。唾が飛んだ場所を拭うと、どうにもそれがカンに触ったらしい男性教師がますます大きな声を上げる。

「お前は自分で自分が恥ずかしくないのか!? 他の生徒にも迷惑がかかるんだぞ!」
「ーーへえ、そう」
「そう、だと? 貴様っ、そんな生き方でろくな人生歩けると思うな! お前のようなやつはどんどん転がり落ちていずれ犯罪を犯すんだ!」

 随分、言いたい放題言ってくれる。
 ぷつんと、糸が切れる音がした。

「黙って聞いていればべらべらべらべら、なーに? アンタ、神様なわけ? 殿様なわけ仏様なわけ? 一方的に人を上っ面で決めつけて、人にレッテル貼ってどこにも行けないようにしてんのは誰よ! お前ら教師だろ!」
「なーー」
「じゃあ聞きますけど、その真面目な生徒であたしより頭の悪い子はなんなの? あたしみたいな学校に来ずに独学で勉強してテスト受けてる人間よりも、毎日学校来てあんたらに教わってテスト受けてんのにあたしより頭の出来の悪い奴らは不良以下って言える?」

 口をはくはくとさせて、けれど教師はなにも言い返してこないーー私の言葉が事実だからだ。
 テストは中間も期末も全て別室で受けている。
 私は独学で勉強して、そのテストでいつもいつも中間程度の成績をずっとキープし続けてきた。三年の今だってそうだ。普通校程度なら受けて合格出来る程度の学力がある。
 そんな私よりも残念ながらおつむがあまりよろしくない、この教師のいう真面目な生徒は、私以下だと言えるのか? 言えるはずがない。
 だってこいつらにとって、その子たちはおつむは悪くとも学校に真面目に来て勉強している真面目な生徒の一人なのだから。
 ああ、イライラする。

「お前ら結局、自分の思い通りにならない子供を切り捨てて聖人気取ってるだけだろーが!」

 なにが聖職者だ、所詮は自分に都合のいい駒だけ置いておきたいだけのお飾り教師ーーとまでは言わなかったけれど。
 さすがにこの言われようには私の寛大な心も怒りに満ちる。

 「せーのっ」と呟いて、私はそばにあった椅子を思いっきり振り回した。


 2-2


 「いいか、ここで大人しく待っていろよ!」と捨て台詞を残して逃げ出した件の男性教師の背に中指を立てて「どうせ来ませんよー」とだけ言っておく。
 教師が出ていった部屋の中は静かで、私は振り回した椅子を下ろし、ぐっと伸びをする。

「ああ、スッキリした」

 苛立ちの波がひとまず納まって、最っ高に気分は晴れやかだ。さて、さっさと帰るべきかどうすべきか。そんな時である。

「ーー随分、綺麗に鎮火しましたね」
「ン?」

 聞き覚えのない男の声がした。目を向けると、窓際に一人の男性が立っていた。スーツ姿なので、たぶん新任教師かなにかだろうか。ハッスルしていて全く気づかなかった。

「なに、アンタ」
「さっきまであんなに怒り狂っていたのに、どうしてそんなに急速に落ち着いたんです?」
「ーー説教なら間に合ってるんだけど」
「説教ではないです。ただ、なぜそんなに怒るのか興味があります」

 眼鏡越しに薄く笑みを浮かべる姿は、あの教師達とは「違う」と本能が叫ぶ。ーーだからといって、気が抜ける訳では無いのだが。
 今帰るのは無理そうだ、と私は椅子を広げて座った。背もたれに体を預けて、深く息を吐き出す。
 なんだっけーーああ、なんで怒るのか、か。

「いい加減、うんざりすることばっかりだったから」
「うんざりすること?」
「そう。うんざりすること」

 くだらない説教に嫌気がさしていたのは事実だ。
 毎度毎度、たかが髪や服装ごときでネチネチネチネチ、程度が知れるような言動ばかりで塵も積もれば山となった怒りが爆発しただけのこと。普段なら聞き流してる私が暴れたのだ、相当ビビったに違いない。

「なにがそんなに偉いのか知らないけど、面倒も見きれず手間になったら切り捨てるくせに、いい人ぶってそれっぽいこと言って悦に入ってる姿が吐き気がする」
「それだけじゃないだろ」

 まるで心を見通したような言葉にヒクッと眦が引き攣る。クール、ステイクールだ私。仮にも「私」の人格があるのだから、この程度でまたキレるのは良くない。だってさっき怒ったばかりなのだから。

「どうしてそう思うわけ」思ったよりも低い声が出た。
「目が怒ってる。ーーまだ、言ってないことがあるでしょう」

 カッと顔が熱くなる。ーーしまった、バレてる。
 口に出さないだけで、ぐつぐつ煮えたぎるものは確かにある。この男の言う通りだ。
 疑問に思ってしまうのだ。
 どうしてあの教師は怒るのか。暴力はだめと言うくせに、私を壁に投げつけて、これは暴力ではないというのか? 教育的指導と言ったら暴力だってチャラになる? ーーなんて、なんってバカバカしい!

「……あたしは売られた喧嘩しか買ってないもの」

 できるだけ冷静に絞り出した言葉だった。
 事実だ。「記憶」が私の中に顕現して、不安定だった幼子である「あたし」のメンタルは随分落ち着いた。冷めきった家で、ろくに思い出もない親を「別の生き物」だと区別できるようになった。

 そして、何事もきちんと自分で考えるようになった。

 喧嘩は一週間も経たないうちに非生産的だと悟って自分からすることは無くなった。
 足抜けを手引きしてる立場上、簡単に抜ける訳にも行かず、独自の立場を確立した私は、まれに集まりには顔を出すけど、喧嘩で自ら手を出すことなんてない。
 もし相手から一撃を喰らったら、倍返しで返ししてあげるだけ。
 ーー分からない、なんでそんなに怒るの? 喧嘩をするのはイケナイコトかもしれない。それはわかる。
 けれど、私は自我を持ってから自ら手を出したことはない。
 テストだって毎回受けてるし、族から抜けたい子にはそれとなく手助けして逃がしてやっている。学校にはテスト以外行ってないけど、図書館で勉強もしている。だのにどうしてそんなに怒るの? 
 どうしてそんなに顔を真っ赤にして怒鳴るの? まるで猿みたいーーばかみたい。

 ごぼ、とヘドロのようなものが湧き上がる。
 教師も体裁ばかり気にする親も、ちょっと見た目がちがうくらいで怯える奴らも、みんなみんな馬鹿みたい。

「皆ばかよ。中身を見ないで体裁ばっかり取り繕って。表面だけ整ってたって、中身が空ならなんの意味もないのに、それが正しいんだって思い込んて気持ち悪いーー全部消えて欲しい」

 兵隊のように従うだけの人生なんて、そんなの、ただの人形だ。……私は、人形なんかじゃない。

「正しさのレッテルの奴隷なんて、真っ平ごめんだわ」
「ーーだけど、愛されたいんでしょう」

 息が止まる。

「他人に必要とされたくて、話をきいて、わかってほしくて、理解されたくてたまらないんでしょうーーそして、愛されたいんでしょう」

 少なくとも、俺はそうだよ。
 そう言って眼鏡を外した彼と目が合う。目が合って、合ってーー見つかってしまった。

「ひとりはーーひとりは、寂しい」

 ぼた、とひとしずく流れて。
 ほろほろと涙がこぼれ落ちていく。

 誰に言えっていうの。親は戸籍が同じだけで家族なんかじゃない別の生き物で、期待なんてできなくて、どこにも行けなくて。
 求めたって応えてもらえないーーそもそも、求めようと思うこと自体不毛だ。期待しなければいいーー期待した分だけ、苦しくなるから。
 自分を愛せるのは自分だけで、無償の愛なんてどこにもない。私を救えるのは私だけ。誰も私なんて掬い上げてくれるわけない。
 見つけてもらけるわけが無いと、自分に言い聞かせてーーだけど

「……寂しい……ずっと……さみしい……」

 もう戻れないから、だから少しでも良いことをしたかった。
 自分を救うために、より良い未来を手繰り寄せたくて、できることはどこまでもやってみた。でも、この先なんて分からなくて、私は、あたしは、ずっと途方に暮れている。

「さびしいんですか?」

 手を掴まれる。

「じゃあ、一緒に抜け出しましょう」
「わっ……!?」
 
 そう言って、彼ーー本田勝也と名乗った彼は、私の手を引いて歩き出した。


 2-3


「ねえ、ここ、わからない」
「どれです? ああ、これはーー」

 私を連れ出した男ーー本田勝也と、気づけば校舎の片隅で会うようになっていた。
 教育実習生だと言った彼に、それならばと独学で勉強していて分からなかったことを問うと、彼は分かりやすく説明してくれた。さすが実習生だ。

「自分でちゃんと勉強してるんですね」
「まぁ、テストで成績キープするって決めてるし……いざというときの選択肢くらいは、ほしいし」
「なるほど」

 そういえばと私を連れ出して学校を出たことについて「怒られなかった?」と訊くと、私が体調不良で帰ったと報告したということと、彼の父親がここの教師だったらしく、その七光りがあるから平気だったと、彼はあの薄っぺらな笑みで答えた。

「……七光りって、なんかやだね」
「そうですね。ですが、使い方によっては利用しがいがあります。多少の無茶はお咎め無しで済みますしね」
「……いい性格してるのね」
「ありがとう」
「褒めてない」

 彼は、なぜか私の頭をよく撫でる。なにが気に入ったのかはわからないけれど、丁度いいと触れてくることが多くて、それが少しくすぐったかった。

 授業には出なかったけれど、昼休みはいつも彼と会うために学校に行った。リスちゃんとは違う人とこんなに話せるのは新鮮でーー純粋に、嬉しかったのだ。

「教育実習は順調なの?」
「ええ。人当たりの良さは俺の売りですし。君にも見せて差し上げたいくらいですよ」
「……やなかんじ」
「ありがとう」
「褒めてない」

 他愛のない話をするのがこんなにも楽しいなんて知らなかった。新鮮な空気を吸ったような心地。視界が開けて、燻ってたものが溶かされていくような、そんなーー

「ねえ」
「何です?」
「ーーなんでもない」

 3

 教育実習が終わったあとも、彼は私と会ってくれた。
 自分には合わなかったと、教師の道ではなく製薬関係の会社への就職を決めた彼と私は、毎週末に会っては勉強を見てもらった。

「これなら、進学校じゃない限りは余裕を持って合格できると思いますよ」
「ほんとう?」
「ええ。よく覚えられてますね」
「……暇つぶしに、教科書よく見てたから」

 嬉しかった。嬉しかったのだ。
 誰にも褒められたことなんて無かったからーー繋がりなんて無かったから。初めてできたその繋がりが、私はなによりも尊く思えた。
 ーー寄る辺に、なってくれた。

 3-2

 どさりと、旅行鞄が投げつけられるように玄関にマットの上に落とされる。

「出ていけ。お前は金輪際、ウチの娘として扱うつもりはない。勘当だ! 勝手に生きて勝手に死ね!」
「ーー成程。妥当だね」

 父親である人間の言葉に、まあこうなるよなと頷いてみせる。冷静にウンウンと頷く私の姿は予想外だったのか、目を見開いた父親。その後ろに立つ母親である人は「#名前#ちゃん……っ」と私の名を呼ぶ。
 いや、勘当だと言ったのはそちらですのに、どうしてそんな死にそうな顔をしているのだろうか、この人は。
 ーー私は、受験を受けることが出来なかった。
 受験日の前、帰宅途中で背後から殴られ、階段から落ちたのだ。その日私はリスちゃんの家から帰る途中で、夜も遅い時間だった。
 リスちゃんは送っていくと再三言ってくれたが、手を煩わせるのも悪いと、断った結果がこれである。
 発見してくれたのは、あの公園によく来ていた人だったらしくーー凍傷寸前だったと医者は言った。
 まあ、私は被害者な訳だけど、結局のところ、体裁しか気にしない彼らには我慢の限界だったらしい。
 ーー仕方がな。
 不慮の事故とはいえ、人を足抜けさせてきておいて自分も抜けなかった私の落ち度というやつだろう。

 ーー因果応報、っていうんだっけ、こういうの。
 ままならねえ世の中だ。本当に。

「これからどうしたものかしらね」

 あいにく片手は折れて不自由だし、仕事を探すにも、受験を受けられなかったせいで私の今の最終学歴は中卒である。
 中卒でできそうな仕事なんてそうそう無いしーー歓楽街で、多少アングラなところで体を売るのは最終手段にするとして。さて、どうしたものか。

「ーー貴女がたの思い通りにならない子供は、我が子ではないと言い切りますか?」
「ーーせん……」
「」
「仮にも結婚を望んでる女性の両親なのだから」

 私の聞き間違いでなければ、確かに彼は、そう言った。
 そして今、私は彼の後ろを歩いている。
「なん……なんで……」
「突然音信不通になったので心配しました。仕方なく家に連絡をしたら、君のお母さんが君が今日退院すると教えてくれて……」
「だ、だから……どうして……」
「君のことを慕う子ーーリスちゃん、でしたか? 彼女が詳細を伝えてくれまして。まさかそんな目に遭っていたとはね」
「いや……だから……先生、せんせいーー勝也!」
「ーーなんでしょう?」

 私のカバンを持っていた彼が、やっと振り向いた。
 そのことにほっとしつつ、私は「もういいよ」と笑う。

「ごめんね、他人の家のゴタゴタなんて見せてーーカバン貸して、あたしは大丈夫だから」

 プロポーズなんて、嘘をつかせてごめんなさい。
 そう言って無事な手でカバンをくれと手を伸ばす。ーー手はカバンではなく、彼の大きな手に引き寄せられて、体がぐらりと傾く。

「わっ……!」
「俺が冗談をいうとでも?」
「ーーえ」
「こんな形のプロポーズになってしまいすみません」

 だけど、と彼が言う。

「手放す気なんて、毛頭ないんですよ」
「……なんで……」
「ーー俺を選べよ」

 抱きしめられる。温もりが愛おしくてーーほろ、と涙が零れた。

「勝也はロリコンなの?」
「どこで覚えてきたんです、そんな言葉……遅く生まれてきた君が悪い」

 3-2

「あ゛ね゛ざん゛んんーー!」
「リスちゃん顔、顔」
「なんとーーなんとおいたわしいぃい……ごめんなさいわだじがおぐらながっだばっがりにぃ!」
「濁点が酷いな」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼女の頭を撫でる。早く顔をお拭きというと、えぐえぐとえづきながらもリスちゃんは自分の顔をタオルで拭った。

「それより、リスちゃん、よくあの人のこと知ってたね」
「あ……はい。そのう、姐さんが週末に勉強してるの知って……い、いちどつけたことがあって……」
「…………」
「…………」
「……腕を上げたわね」
「! えへ! んふ、それで、姉さんの逢い引き相手に合って、名前聞いてて、連絡先も一応念の為に」

 なるほど、と合点がいった。
 病院から退院するのは母親に聞いたらしいが、どういう経緯であったかは彼女から聞いたらしい。
 よしよしと撫でると、リスちゃんは眦を下げて笑う。そんな彼女が、私はやはり気に入っている。

「それで、あっちは?」
「ああ、いつも通りッスね、御礼行脚がまだぽつぽつと」

 聞くところによると、私が家を出て以降、実家の方にかつて足抜けさせてあげた少女達が親御さんと訪れるという事態が起きているらしい。
 リスちゃんが流した噂により、怪我をしたのがかつて手引きした私だとしった少女達が、自分の親御さんにことの経緯を伝え、そこからなんとかお見舞いをーーという形だそうだ。
 連日御礼にと家族で訪れる来客に、両親はひどく戸惑い、何かの間違いではと言っては、少女達は私がいかにして手引きをしていたかを語っていたという。
 ーー『不良』というレッテルを貼りつけて向き合わなかった娘が、まさか実際は喧嘩もせず足抜けの手引きしてたなんて、勘当した手前認められないわな。

「ふんっ、ちゃんと向き合わずにレッテル貼ってきたツケが来たんすよ! 公園に来てたの、ご近所さんも居たみたいでしたし? 精々ろくに事実確認せず勘当した酷い親だって言われりゃいいんす!」
「それはそれで胸が痛むね」
「姐さんに非は無いので気にするだけ無駄っす!」



「#名前#ちゃん、これ二番席に頼むね」
「はーい」

 お盆に食べ物を乗せて、せっせと運ぶ。「お待たせしました」とにっこり笑顔を浮かべると、お客さんもありがとうと笑って受け取ってくれた。
 社会勉強として喫茶店で働いてみることにした。店主は気の良いおじさんで、私の身の上話をすると即採用という形になり。料理は普通にできる(勝也に意外だと言われたのはちょっとむかついたけど)し、愛想笑いは嫌いじゃない。日中はバイトに勤しみ、夕暮れの、勝也が仕事を終える前には家に帰るという日々を送っている。
 マスターはいい人で、あとバイトが私くらいで、私がほぼ一人でホールを担当できてたせいか、中卒だというのに最低賃金より高めの時給で雇ってくれている。
 そのおかげである程度資金も貯まったので、私は前々から思っていたことを夫に相談することにした。

「高校に行きたい、ですか」
「うん。最終的に卒業資格さえ取れればいいから、近くの定時制の夜間」
 はい、とパンフレットを手渡す。
 実は事前に立地やどんなところなのかは調べてある。マスターのお友達で、そこの夜間を出た人が居たので教えてもらって、見学も一度勝也に秘密で行った。
 流石に高卒程度の資格はないといろいろと不便だ。履歴書書くときとか、先々のことを考えておかなければ。

「まあ確かに、#名前#はもともと独学で勉強をしてきてますし、俺も教えてきてるので……入学は問題ないでしょうけど」
「一回見学行ったけど、夜間は制服要らないし、日中よりも人も少ないから、あたしでも通えそうかなって思って」
「……一人で見学? いつ?」
「あっ、いや、ちょっと時間ができた時に、ねっ、もともと、お客さんにそこの夜間出身の人が居たから、その人の口添えもあって簡単に見学できたんだよ」
「へぇ」

 やばい。ちょっと怒ってるかもしれない。

4

「まだ、風邪治ってないの?」
「ええ、病院に行く暇もなかなか無くてーー」

 ゴホ、ゴホと電話越しに咳き込む声がする。思わず眉を寄せる私に、電話越しだというのになにか悟ったらしい勝也は「大丈夫ですよ」と穏やかな声で言った。

 いつもなら、信じてあげられるのにーー何故だろう、今はだめだとサイレンが頭の中で鳴り響いている。

「ねえ、勝也。保険証持ってたよね?」
『ええ、ちゃんと持ってますけど……#名前#?』
「勝也、電話終わったらすぐ病院行って」

 お金のことは気にしなくていい。近くにある病院に、総合でもどこでもいいから、夜間診療か救急外来があるところへ早く行って。
 流れるように話す私に、電話越しに息を飲む声が聞こえる。受話器を持つ手が震える。喉が熱くなる。

「おねがい……いますぐ、いって……」
『#名前#ーー』
「ちゃんと診てもらって、それでなにもなかったら、わたしのきゆうだった、って、かえってきて、わらってもいいから……」

 ぼろぼろ涙が止まらない。どうしてだろうか、いやに怖いのだ。私、こんなにぐじゃぐじゃになって、自分でも自分がわからない。だけど、でも。ーー隣の部屋では、まだ小さな私達の透が眠っている。

「おねがい……かつや……わかんないけど、すぐ病院にいってほしいの……なんだか、すごく、こわくて……っ」
『……分かった。この電話が終わったら、すぐ救急に行ってきます。……だから、泣くな。泣くなら、俺が帰ってきたらいくらでも泣いていいですから』
「ーーうん、うん……」
『透が起きたら心配しますよ。ーー大丈夫、絶対帰る』
「……まってる……っ」
『ええ、だからいつものように、笑って待っててください。眉無しさん』

 その言葉と一緒に、電話は終わった。ずびずびと鼻を啜ってると、「おかーさん?」とかわいい声が聞こえてきて、ハッと顔を向ける。

「おかー、さん?」
「っ、ごめん、透! 起こしちゃったね……! 一緒に寝よっか!」
「んん……おか、さん……なかな、で……?」

 泣かないで、といってよたよた覚束無い足取りで私の膝の上に乗る透がなによりもいとおしい。「大丈夫だよ、ごめんね」と繰り返しあやしながら、私はそのまま寝室へ足を運んだ。


 次の朝、会社から勝也が入院すると聞かされて、大急ぎで透と一緒に病院へ向かった。

「#名前#の直感のおかげで助かったよ」

 そう言って笑った勝也に、私は無言で透をお腹の上に乗せて圧迫してやったのだった。


5

 一年の頃、交通事故に巻き込まれてから、透の母は眠っている。
 まれに意識を取り戻すものの、夢うつつといった状態で、また眠りについてしまう。病院は重傷を負ったのと頭を強く打ったのが関係してるのではというものの、いまだ目覚めさせる解決法は見つからなくて。
 母に付きっきりの父に、心配させまいと息巻いたものの、まさかの住んでるアパートが家事に見舞われ、親類を頼る訳にもいかずーーテント暮しを敢行した、逞しい女子高生、それが本田透だった。

「じゃあ、トールのムッティ、まだ眠ってるの?」
「はいです。事故にあって……お相手の方は、お亡くなりになってしまわれて、すごく、複雑な気持ちで……お相手の家族の方とは、お父さんがお話して示談を成立させたので」
「そっか……早く目、覚ますといいね」
「はいっ。お父さんは……お母さんのこと、大好きで、お母さんが起きたら、きっとまた笑ってくださると思うのですっ」

「慊人、草摩の系列に脳系の詳しいトコなかったっけ」
「……ああ、あった。ちょっと待ってて……はとり」

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