その天球儀に恋心は描かれていない

 国内外のLBX産業をほぼ牛耳るタイニーオービット社は、本社ともなると当たり前だが巨大だ。集められた技術や資本力もさることながら、その社屋が。
 仙道ダイキはだだっ広い正面玄関を抜け、待ち合わせのモニュメントの前に立っていた。多少の事では動じなくなるような荒事に関わってきたこともあるが、見知らぬ人間が引っ切り無しに行き来する往来でただ待つというのも居心地がいいものではない。手遊びに抜き出したタロットは愚者の逆位置。無計画や不安定を意味する。
「やだ、足長くない? これ以上かっこよくなってどうするの」
「先に言うことがあるんじゃないのかい」
「ごめんね、中国語がわかんなくて」
「竜源と取引かい。ご立派」
 冬の北海を思わせる蓬髪を揺らした青年がダイキに声をかける。タートルネックのセーター、丈の長いポンチョの上に白衣を羽織った姿はさながらハーミットだ。
「で、話ってなに、チヒロ」
「話は特にないよ。でもお話しがしたかった。今日から社食が新メニューなの、お兄さんお茶でもどう?」
 柔和そうな唇をいたずらっぽく曲げて天野チヒロは笑った。この笑顔だけは不変だ、とダイキは思う。
 ミゼルクライシスから4年が経っていた。



「で、ぼかあ「四つください」って言ったのに、頑なに「二つで十分ですよ」って言うの。もう二進も三進も行かなくなっちゃって、産声より大声で「四つです」って言っちゃった」
「ハハハ、馬鹿らしい。天下のNICSにも変わり者はいるんだねえ」
「そっちは?」
「特に何も。お前ほど面白い人間なんかいやしないなって毎日思ってるさ」
「あははは! 一口あげる!」
 チヒロは出会ったころからいっそおぞましさすら覚えるほどに博識だった。辛い生い立ちが影響してオカルトに傾倒するも、「魔術って科学のはしりみたいなもんか、じゃあ科学やろう」と言いだしてからは模試では手が付けられないほどの専門性の高さで教育関係者を震わせたとか、させてないとか。先述の荒事に関わった縁で、就活生が見たら殺しにかかるようなスカウトを受けるも「インターン行った時に社食が一番おいしかったから」とタイニーオービットに就職した。最近はNICSと何やら開発しているらしいが、ダイキにはさっぱりわからない。
 若き天才は季節のフルーツパフェをひと匙すくってダイキに差し出している。幼少期からの知り合いだけに、ダイキはどうしても恋人が稀代の逸材だとは思えなかった。
「お前、俺の着る毛布持って行っただろう」
「夜の研究室寒くてさあ。骨身に染みるの」
「早くこんなところ辞めちまいなよ」
「いいの? ぼくがいきなりダイキの稼ぎでスパークブロード通信の研究とかレムリア探しに大規模採掘調査とか始めても?」
「そうなったら、稼ぎのかわりに三行半でも突き付けてやるさ」
「思ってもないくせに」
 けら、と笑ってパフェをほじり始めるチヒロを、ダイキは複雑な面持ちで眺めた。天才は、4年経っても首元を出した服が着られないままでいる。
「痛み止め呑んでるのかい?」
「呑んでるよお。ここ最近はどうにも疲れが取り切れなくて、けっこう節々に来るね」
「皮肉だねえ」
「互いが互いにやりたいことやってるから、どうにもね。まあ、何とかなってるしいいんじゃない?」
「それでまた痩せられてちゃ世話ないんだよ。普段からちゃんと飯は食えって言ってるだろう」
「そう? お優しいこと。そういうところ昔から変わらないね。やっぱ大好き」
「ああそう。察しが良すぎるところ、お前も変わらないね。俺も好きだよ」





 天野チヒロとかいう人間は、出会ったころからやけに何かと騒動に巻き込まれ続ける体質だった。列挙に暇がないが、本人に訊いてみれば「ダイキと出会ったのが一番とんでもないことだよ。その次がトキオブリッジ崩壊事故かな」と言う。ダイキは間違いなく「ミゼルクライシスだ」と答える。
 詳細は割愛するが、かつて存在した『思考ひとつで世界を滅ぼし得る雌雄一対の人工知能』がシステムを停止される直前に生み出した断末魔のようなウイルスプログラムが『ミゼル』だった。
 様々な戦いを乗り越え、いざミゼルを消去せしめん、といういわば最終決戦で、天野チヒロは人柱にされた。
 というのも、その奇跡的な思考速度でもってミゼルのプログラムにデバフをかけ続け、大空ヒロや山野バンの支援にまわれという作戦に参加した。大空ヒロはなんぞのギフテッドだったらしいが、チヒロも人間離れした反射というのか、ともかくミゼルがソースコードを書きだす速度についていけるんだそうだ。
 生きているだけ感謝すべきなのかもしれないが、人柱の代償は重かった。今思えば、そもそもその手段に危険性がありすぎた。延髄めがけてインジェクターで何やら機械を埋め込む。ドン引きだ。
「俺がやってやる」
「うん、ダイキに頼みたかった」
「家族になりたいんだろ、なってやる」
「そっちこそ覚悟できてんの? 知ってると思うけど、ぼくだよ」
「言わせるんじゃないよ、お前がいいって言ってるのさ」
 出会ってからずっと変わらなかった間抜けな笑顔が唯一崩れた瞬間だった。そして、齢16にして明確に将来を誓い合った瞬間だった。震える手で襟足の髪がよけられたうなじに、同じように震える手でインジェクターをあてたのを、あまりの痛みに跳ねたチヒロの背中を、ダイキは今も夢に見るほどよく覚えている。
 当のチヒロは麻酔なしで背骨の中にボルトを打ち込まれたような状態だ。そのうえで、性能重視で作られた何やらの機械の発熱に耐えながら支援工作をしろというのだから、ダイキは今後表立ってシーカーに協力などしないと誓ったのだった。あまりに人の心がない。
 4年前、と言うように、人類はその災害を耐えしのぎ、今も文明は続いている。一連のミゼルクライシスは多大な犠牲を払って終息した。チヒロの工作を感知したミゼルによって送り込まれる有象無象を薙ぎ払いながら、ダイキとチヒロはそれぞれの戦場で戦う互いの手を強く握りあっていた。
「チヒロ、聞こえてなくていい。俺がここにいる。どこかで分かっていてくれれば、それでいい」
 線の細いチヒロの指が手の中で震えるたびに、ダイキは励ましの言葉をかけた。今思えば意識を全部プログラム上にぶん投げていたようなものらしいし、なんらかの反射だったのかもしれなかった。
「えぅ、」
 間抜けな声を零してチヒロが脱力した瞬間、ダイキはナイトメアをオートに任せて戦場に背を向けた。向き直った時のことは、今でもダイキの背中に嫌な汗を滲ませる。
 死体の手を握っている、と錯覚した。顔中から血を流し、機械が埋め込まれたうなじ周辺は表現できないような火傷と裂傷と、いっそ壊死すら起こしていたのではないかと思った。およそ人間がしていい皮膚の色ではなかった。
「チヒロ、」
 焦って握ったままの手を引いて、力なく頭がこちらに落ちてきたときにダイキを襲った絶望が、今目の前で情けない顔をしながらパフェグラスの底をきれいにさらおうとしているチヒロを見つめる目を細めさせる。
 ベッドの磔を振りほどき、車いすを魔改造した挙句に「やっぱ出来が気に入らない」と蹴り倒して退院したチヒロは、高校を卒業して占い師として活動し始めたダイキが店舗を構えるかと不動産の資料を眺めている中から一枚を引き抜き、「ここに住もうよ。この高さで窓この向きなら日当たりもいい」と言った。
「まったく、悪い人間だね、ぼくって奴は」
 時折互いに予定がなく、チヒロが選んだ家でだらりとしている時に決まってチヒロは言う。曰く、「あの時ね、世界がどうとかじゃなくて、こうすれば絶対にダイキと一緒にいられるって思った」「既成事実作ったようなもん」と言う。
 ダイキは決まって「お前と一緒になるつもりだったから別に何とも」と言った。「口実に救われた世界ってのも、なんだか可笑しいねえ」と言うと、チヒロは「じゃあ、この世界が僕らの子だ。ウケるね」と緩やかに笑った。
 奇跡的に神経を焼き切られるまでは行かなかったが、それでも無傷では済まなかった全身の神経が時折チヒロにもたらす激痛はダイキにもわからない。だが、苦しむ背を一晩中さすり続けるダイキの手が震えていることはチヒロも知らないと思う。痛み止めがやっと効いて落ち着いた夜明け頃に、汗だくの顔で「ごめんね、ありがとう」と笑いあいながら過ごしてきた4年は、互いに呪いをかけ合う4年でもあった。





「そろそろ本題いってくれる?」
 物思いに耽りすぎた。ダイキがはっと目線を上げると、チヒロは既にパフェをきれいに食べつくしてコーヒーを飲んでいた。立ち上る湯気を見るに頼んでからそう時間は経っていない。ダイキの手元に居座るコーヒーは、すでに人肌より冷たくなっていた。ダイキは重苦しく、呻くように言う。
「……シーカーの仕事だ」
「ああ、いいよ」
「お前にとってもいい話じゃないと思う、断っても……、なんだって?」
「ああ、いいよ、って。どうせ神威大門でしょ」
 チヒロの口ぶりの軽さは「エアコン買わないか」と提案した時と全く変わらなかった。生死の境に叩き込まれ、今なお心身を苛む病魔を植え付けられたも同然の相手に、けろりと「手を貸そう」と言ったのだ、この男は。あまりの気軽さにダイキが絶句しているのを見て、両手でコーヒーカップを包みなおしたチヒロは言う。
「キヨカちゃん、もうダイキだけの妹じゃないんだかんね」
「……キヨカもそうだが、事態が案外それどころじゃない」
「ん、なんでもいいよ。ダイキが行くならぼくも行くし、ダイキが行かないならぼくも行かない。もういいだけ救ってやったんだし世界なんかどうでもいいよ、やりたいようにやろう」
「前にこの世界が俺たちの子だって言ったのは、どうしたんだい」
「そろそろ親離れしてもらいたいね。で、ダイキはどうしたい?」
 チヒロは問いかけながら、自分の飲みかけのコーヒーとダイキの目の前に置かれたまま冷め切ったコーヒーを交換した。冷めたコーヒーを自分の前に置き、肘をついて、ゆるく組んだ指を口元に。ああ、いつものだ、とダイキは思う。例えるなら、ノアの大洪水。バベルの塔の崩壊。塩の柱と化す妻ロト。神罰として用いられる超自然のそれと同じ印象で言葉を待っている。この顔を見るたびに、「ああ、チヒロのほうがよっぽど魔術師だったのにな」とダイキは諦観のような心地を覚える。
 まだ暖かいコーヒーを、がぶりと一口飲んでダイキは答える。
「お前の力がいる。引きずってでも連れて行く。ついてきな」
 見る者が見ればおぞましさすら覚える笑みをチヒロは浮かべた。実際にダイキは「おぞましい」という表現が一番似合う笑みだな、と思った。何もかもを見透かすような、無窮の空洞の底でうっそりと浮かべられているような笑みだ。そこまで考えて、「まあこいつ一度脳みそネットに直繋ぎしてるし無窮でもしょうがないか」と考えるのをやめた。
「そうと決まれば身支度だ。いやあ、一回行ってみたかったんだよ神威大門! 嫌って言ってもついていくから。島なんでしょ、お土産何がいいかな。キヨカちゃん何好きだっけ?」
「言っただろうが、それどころじゃないんだよ。空中空母の無力化って言われてお前できるのかい?」
「ちょっと意味わかんないけどワクワクするね。待って、空中空母ってなに?」
「俺も聞きたいくらいだよ。なんかテロ組織が島のまわりにウヨウヨ集まってるらしい」
「またぁ? 飽きないねえ。教職員にジンくん紛れてるんだっけ、久々に会いたいなあ」
「心配しなくても会うことになるさ。ほら、お前はデスクの荷物まとめてきなよ」
「ありがとう。あ、着る毛布ちゃんと持ってくるから」
 チヒロが真剣に言ったのに耐えきれなくなり、ダイキはコーヒーをこぼさないギリギリの勢いで噴出して笑った。「なんで?」と覗き込んでくるチヒロの顔に愛おしさを覚えながら、胸中にどす黒い気持ちが広がっていくのを自覚する。どうにも制御が効かない。
「いや、なに、間抜けだねえ、と思って」
「その間抜けがこれから世界を救う手伝いをするんだから、救われる世界はもっと間抜けだねえ」
 どうにか笑いを引っ込めて、待ち合わせを最初に決めていたモニュメント前にして別れた。
 さて、またも世界を揺るがす陰謀に恋人ともども飛び込もうとしている。そういえば来た時もここで見たな、と思いながら、ダイキはタロットを一枚引き抜いた。吊るされた男の逆位置。巨大な地球儀のモニュメントの下で、ダイキは笑った。コーヒーを飲んでいたはずだったが、どこか乾いた声だった。
「ああまったくだ。あいつがいなきゃ滅ぶような世界なら、さっさと滅んじまえばいいのに」