緞帳を下ろすな

OP


 川辺に、男が立っていた。
 特記するべくもない二級河川のほとりに、これも特記するところのない、背広の男が立っている。
 男は片手に酒を持っていて、昼日中から川辺でやるには随分上等なものだった。さらさら流れる川を前に、ぼうと眺めたり時折目を瞑ったりして、一向に栓を開ける素振りはない。
 そうしてしばらく、ひとつひとつが驚くほど長い瞬きをするようにして、その瞬きの間に何をしにきたのかを懐古していたようにして、やっと男は酒を開けた。
 開けて、すべて川へ流した。

「……いつか笑えたら。そういう日があったら。それでいいか」

 男は今日ここを発つ。ここにはいられないし、行かなければならないところがある。だので、別れを告げに来た。
 男の名は日車寛見。川の名は久慈川といった。
 これからこの街には雪が降る。



M1 BLIZZARD


 日車寛見の生業は弁護士で、それも国選弁護士であった。自分の手立てで弁護人を立てることができない人のために用意される、公共施設の貸し出し用スリッパみたいな仕事をしている。
 なので、弁護する対象は千差万別だ。
 それでも、日車は目の前の虞犯少年を見て、「時代が変わったな」と思わずにはおれなかった。

「春雪くん」
「春のほうで呼んでくださぁい。雪のほうは寒い文字だから嫌ぁ」

  虞犯少年――春は、すっかり泣き疲れきった顔でヘニャリと笑った。
 初夏、そろそろ夕暮れ、日車の事務所でのことである。春と日車は、一連の裁判がすっかり終わったところであった。疲れた。わりととても。

「そんなに自分の名前が嫌いか」
「や。叔父さんがこれ嫌いだから」

 そうも言われてしまうと、春の言う「叔父」を書類上でしか知らない日車にはもう何も言えなくなってしまった。ああそう。すまなかったな地雷ブチ踏みに行ってな。日車がどうしたものかと思考しはじめて、場はしばし静かになる。春はグッと肩を縮めながら言った。

「嫌いって言ったあとに言うのよくないかもだけど、せんせえに俺の名前あげるよぉ」
「いやいらないが。何故?」
「せんせえにお礼しなきゃじゃん。俺なんもないけど、なんもないしか持ってないからぁ、あげられるもの名前とこれしかないんだよねぇ」

 春は年の割に使い込んだ手で、ボロクソの財布からボロクソの紙きれを出した。「見ても?」と訊けば、「どぞ」とふんわり返ってくる。吐息で朽ちそうな紙切れを、日車はつとめて丁寧に開いた。

 『はるくんへ りっぱに生きてね ママより』

 春は日車が読み終えただろう頃合いを見計らって、「だから俺、自分の名前はるのほうが好きぃ。雪も嫌いになりたくなかったけど」と笑った。こちらも日車は書類上でしか知らないが、春の両親はともに故人であった。名前に春と雪が入っていたと記憶している。
 問題は「叔父」だ。これのおかげで、春も日車も大層疲れている。
 絵にかいたような、表現に困る男であった。春の両親の死後、身内を詐欺めいた口八丁で言いくるめ、しかし書類仕事をひとつもしないまま労働力として春を「設置」し、これによって書類上では今でも春は両親が保護者としてある扱いになっていた。年端もいかない頃から春は多少稼ぐことだけを教え込まれ、親ほどの大人が齢16の少年に自身を故意的に養わせている状況が発生している。そして、逃げ足がとても速い男であった。
 そも春が虞犯少年として補導されたのはその「稼ぎ」がきっかけであり、一度「裁判所行かなきゃないから来てくらさい」と電話したきり、連絡が一切つかなくなった。後日調べてみれば、あの電話のあとすぐに電話番号を変更する手続きがされていたそうだ。支払いは春の口座から変えられないまま。
 この裁判の間だけでこの有り様で、あとはもう春と小一時間も会話していればあらゆる問題がぽんぽこ出てきた。というよりも、春のほうにそれを隠す知恵がなかった、もしくはそれが隠す必要があることを理解していなかった。暴力と聞いて思いつく限りの暴力は一通り受けてきたような子である。
 そういう教育を施す叔父が、おおよそ「雪」のほうを好いていないらしかった。
 日車はおもむろに席を立ち、適当な辞典を持って再び春の正面に座る。慣れた手つきでページを開き、春の前に突き出して言った。

「玉屑、という言葉がある」
「たましかわかんないよ」
「ここで言う玉は宝石とか、宝物とかのことだ。宝石の欠片、という言葉。それと……瑞花。喜ばしい知らせを持ってくる花という言葉」
「それがどったのぉ」
「どちらも雪を意味する」

 春はパチパチと音を立てて瞬きをした。

「雪降れば冬こもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける、ともいう。花に嵐の例えもあるぞ。まして春を詠う歌なんかごまんとある。君が思う以上に、君の名前は祈りと綺麗なものでできている。名前もこの手紙も、俺がもらうには価値がありすぎる。君が大事に持っていろ」

 何度か辞書と日車を交互に見て、やがて春はぽとぽと泣いた。隠せてもいないのに必死になって涙を拭いて、全然そうは見えないのに平気そうな顔を作ろうとしている。日車はどこか安堵のようなものを知覚しながら、ただ黙ってその様を見ていた。
 体格に合わないぶかぶかの、袖口が伸びきったスウェットの裾をすっかり濡らしてから、春は恐る恐る口を開く。

「さっきのさぁ、なんか……雪降ってぇみたいな、あれ何?」
「古今和歌集の冬の歌だ。雪が降って真っ白になると、草木も春とは違う花を咲かすなあ、みたいな。世の中に絶えて桜のなかりせば、とか学校でやらなかったか」
「俺ほとんど学校行ってなかったし」
「そうか。すまない」
「んーん、いいの。せんせえすごいね、俺はじめて冬のことちょっと好きになった。きれいだねぇ」
「自分の名前に自信を持て。親御さんがくれたんだろ」
「それもだけどぉ、冬って言われて寒いよねーとか雪降ってやだよねーじゃなくて、きれいな言葉あるよねーって言ってくれたせんせえがきれい」

 おっかなびっくり、にへ、と春は笑った。怒られないか伺うような仕草でも、そうすることで敵意がないことを示すような仕草でもあったが、それでも春は笑った。
 雪解けだ、と日車は思う。北国の厚い積雪が融けていくのを最初に認めたときのような心地だった。春の訪れを予感した瞬間のそれと同じ感覚に、日車はふと名前をつけあぐねた。

「……かかる世を心憂がりて仰ぎ見ば、火より眩しき雪ぞ降りける……?」
「なんそれぇ?」
「いやわからん。なんか出た」
「どういう意味?」
「さぁな。自分で考えたらいい。君はもうそれができるし」

 どれ、どれ読んだらいいの、さっきのもう一回言ってと春がパタパタ辞書とじゃれあっているのを見ながら、いやしかし降雪かと日車は思った。すっかり住み慣れた街が真っ白になって様相を変えていくような心地に、近頃すっかり人間に対して食傷を覚えた日車はにわかに驚く。こんなことって今更あるもんか。春には現状到底理解しようのない感動を噛みながら、「わあせんせえ見て、毛虫焼くって夏のイベント扱いされてるんだぁ、おもろ」と目を輝かせている本人を見て、なにだか漠然とすっきりした気持ちになった。

「ははは。なあ、これからはちゃんと大丈夫になるから学校に行けよ。幸せになってもらわないと困る」
「えーなにそれ、せんせえ俺が不幸になったらしんどいの?」
「君みたいな子が救われるために司法があって、俺はそれに魂を売ったんだ。俺が報われないと思ってくれ」
「言ってることむずくてよくわかんないよ」
「三年後くらいに意味がわかってくれればいいし、わからないままでもいい」
「そうなのぉ? でもせんせえが言うならそうだよねぇ」
「そういうことにしておけ」

 この新雪に無為に足跡がつけられることがなければいいと思う。日車は春の腹が空腹を訴えたのを聞いて、「なにか食いに行くか」と言えば「いいの? 白ごはん食べたい」と言うので、日車は「ああ分かった、白飯だな」とわかったふりをして回らない寿司屋に連れて行った。




M5 promise


 春は夏の間に16歳になっていて、高校編入のための試験勉強をしながら、入所できる児童養護施設が見つかるまでしばらく日車が預かることになった。春は家事のできる子であったし、恵まれることに嬉しさよりも申し訳なさが勝つ性格だったので、頼んでもないのに春はありとあらゆる家事をやっている。春が日車の家で生活しはじめてから日車の家はみるみる片付いていくし、常に人が作った飯が出てくるようになった。

「今日ねえナス買いに行ってねえ、ぱって持ったら手にヘタの棘ぐっさー刺さったの。痛かった」
「抜けたか? あとでレシート出せ、渡すから」
「取れたけどちょっと痛ぁい。えーいいよお俺も稼ぎあるし。あんねぇ、きんきょーほうこく? したら赤スパいっぱい来たんよ。今度おにく買お、いいやつ」
「貯めておけ。勉強の方はどうだ?」
「日本史ねえ、カエサルと織田信長とリンカーンがごっちゃになるぅ。あいつらどこ出身? 北海道かなあ」
「言ってることがむちゃくちゃすぎる……混ざりようがないだろ、何の話をしてるんだ」
「ごはん食べたらちょっと勉強見てぇ」
「仕事しながらになるがいいか」
「いいよお。今日配信やんないほうがいい?」
「構わないが遅くなるようならやめてくれ」
「業を煮やしちゃうの。怒らりたくないから今日やめとこぉ」
「どこで覚えたんだそんな言い方」

 春は甘辛く炒めたこんにゃくをムニムニ噛みながら「せんせえの辞書ぉ」と言った。すべてのきっかけであり、現在日車宅の食費を支えている春の「稼ぎ」とは配信業であった。以前歌枠をやっているのを聞いたときは、なるほど結構うまいものだと感心した。生活が保障されて小綺麗になってからは一層人気が増えたのだという。以前まで勤めていたコンビニでも春のミモザみたいな顔を見に来る年配は少なくないらしく、日車は一層こいつに苦労しない程度の勉強を教えてやらねばと思った。春は顔だけでも生きていけるだろうが、それをやるには知識がなさすぎる。
 すっかり洗い物まで片付けてから腕いっぱいにノートやらを持ってきて、春は日車の足元の床にチョンと座る。「椅子に座れ」と言うと「せんせえ狭くない?」と言うので、さっさと教材を机の上に乗せてやってから座らせた。

「アンチモンってヤな名前ぇ。アンチみたい。忘れてないかんね」
「高校理科じゃまず出ないから全部忘れろ。周期表どこまで覚えた?」
「りちうむ」
「リ……いや偉いぞ。三つ目まで覚えた」
「面積もとめる計算できていいことある?」
「突然机とか作りたくなった時とかに使うんじゃないか」
「せんせえ突然机とか作りたくなったことあんの?」
「ないが」
「ないのぉ……」

 春はノートを置いてショボくれた顔をした。今まで必要なことしかしてこなかった、必要な勉学すらできてこなかった春は、使い道もわかってない学問もとりあえず楽しく取り組んでいる。知らないことを知るのがムチャクチャ楽しい、とは本人の言であった。
 飢えに飢えて砂漠化した知識欲に放水車で知識をブチこんでいるような光景を想像して、日車はシュールさに笑いそうになる。春は物覚えの良さがスポンジどころじゃすまなかった。
 高校教育は義務教育ではないので行く行かないは個人の自由だが、「高卒」の資格は社会で「高校でやる程度の話題は振っていい」の身分証になり得る。ただこれの悲しいところは、身についていなければ高卒だろうが高校でやる程度の話題は通じないし、中卒でもそこらの高卒よりよっぽど話の通じる人間もいる点に限る。学歴は保証にはなり得ないケースがままあることだった。
 それでも、あまりに奪われてきた春には、せめて「学位」を持ってほしかった。エゴにすぎないかもしれないが。
 そんなことを考えながらなんだかすっかりアンニュイになってしまった日車に、実はさっきから春の視線が注がれていた。気づいてどうしたと聞けば、春は随分言葉を選びながら答える。

「あんさー、せんせえよく言うじゃん。これこれの点を証明できれば〜とかぁ、これでケッパクセイが証明できる〜とか」
「言うな、仕事柄。何が知りたい?」
「悪魔の証明ってなぁに?」
「すごく難しいことの例えだ。もとは土地の権利が元々誰のものだったか探すのはものすごい大変だし、結局敗訴することを比喩的に言った言葉、だったと思う」
「せんせえはさぁ、俺が悪魔だって証明できる?」
「……証拠は?」
「いーっぱい言われてきたよぉ」
「そうか。じゃあ悪魔なんじゃないか」

 随分にべもなく言ってしまって、日車はしまったと思う。春を見れば案外「ふーん」みたいな顔をしていて、わかっていたことを改めて聞いたふうな素振りであった。
 ちょっと気に入らない。年端もいかない子どものくせに、そんじょそこらの大人よりもよっぽど大人だ。大人とは、諦観を覚えたものであった。小さな絶望をいくつも積み重ねて、そのうち希望を持たないことが絶望しないライフハックだと気づいた者だ。春は、すっかりその顔をしている。不条理を身に染みて理解している。
 だからこそ。順序が逆転した挙句、学ぶべきことを学べず学ばざるべきことばかり学んできた春に、不遜ながらも尺度を理解する機会を与えたかった。こう言えば聞こえはいいが、日車の本心としては、結局春が救われることによって自分が救われたかっただけに過ぎなかった。
 司法に魂を売った手前、この春(バカ)が司法によって救われ、制度によって救われることが、なにか自分にとっての救いになる気がしていたのだ。

「最近はどうだ?」
「あえ? なにがぁ?」
「悪魔と呼ばれることはあるか」
「ぜんぜんなぁい」
「じゃあ悪魔じゃなくなったんだろう」
「えー? えへへ。せんせえおもしろー、そういうのアリなの?」
「何がありで何がなしかの判断材料にするための知識を勉強するのが学校だ。そこに行くための勉強を見てやってるんだぞこっちは」
「俺ぇ、学校出たら自分が悪魔かどうかの証明できると思う?」
「できる。俺が、お前が悪魔じゃない証明をしてみせようか」
「えへへえへえへ、やめてぇ。なんかくすぐったい。今更だけど、せんせえなんでそこまでしてくれんの?」
「お前のような人を助けるために司法が、弁護士が、俺がいるからだ」
「それはわかんないけど……俺が悪魔じゃないかぎりは助けてくれるの?」
「正しくない処遇を受けているなら、悪魔のだって手を取るさ。そういうふうにできている」
「じゃあ、せんせえ、せんせえ、一個だけ。今の約束して」

 最初に逢ったころにしていたヘニャけた笑みは、防衛のための笑顔でしかなかったらしい。
 今の春は、子どもの顔だった。日車の家で暮らすようになってからまだそれほど経っていないが、こけていた頬がすこし柔らかくなった以上に、そも強張らなくなったのが大きい。幸せな子どもにしかできない素振りでゆるく作られる笑顔を、日車は最近になってやっと見るようになった。
 約束して、と言いながら、春は精一杯言葉を探して小指を立てる。言いたいことがたくさんあって、しかし言葉がこれっぽっちも追いつかない、五歳児くらいがやる挙動だった。
 それでいい。お前ほどの歳ごろで絶望を知った気になるな。ふくふくの頬を見て、次いで目を見て、日車は指を絡める。ゆびきりげんまんのポーズだった。

「……約束する。お前が触法しない限り、例えお前が悪魔だろうが俺はその手を取る」
「……俺も、約束します。俺せんせえみたいになる。ベンゴシなります。せんせえみたいに、だれかのヒーローになる」
「まず高校入学してから言え」
「あヒッデえ! そういうこと言う! せっかく人がまじめに夢言ってんのにぃ!」

 春はむき! と拗ねて、指を絡めたままの手を腕相撲のように引き倒した。春の「稼ぎ」は配信業であるが、数々のバイトも兼業する肉体労働者でもあるので、若木みたいな見た目に反して力はあるのだった。日車は手首の骨をテーブルにしたたかに打ち付けて、なんともしょっぱい顔をする。「今の本気なんだかんね! 知らないかんね、何年か後にせんせえの仕事ぜーんぶなくなっちゃっても知らないかんね!」とプリプリしながら勉強道具を抱き込み、貸している部屋にシュッと消えて行った春の背中を見て、ああ、いいなあと思った。
 残された日車の眼前には、すっかり自分の仕事だけが残っていた。見遣るだけで心臓の上のあたりが重くなる。
 別に弱者救済を掲げたいわけじゃない。彼ら彼女らとて、春と同じく正しい法のもとに正しく置かれるべき人間で、そのために自分が手を尽くさなければいけないこともうんざりするほど理解している。それでも、どうにも最近息を吐くことが多いような気がして、息をつめて取り組むことに対して心持ちが非常に億劫になっていた。これではいけない。日車は顎先から首の後ろまでを強くなでつけて、かなりしっかりと気合を入れた。
 そうしてしばらく独りでキーボードを叩いて、ふと日車はバキバキになった首を伸ばした。ぼちぼち短針と長針がてっぺんでランデブーをする頃である。もうそんなか、と思って久しぶりに画面から目を離すと、リビングの端に春が気配の一切を消して立っていた。驚いて二ミリほど浮き上がった日車に、春は「おやすんなさいしにきた」と言った。

「そうか。気にしないで寝なさい。おやすみ」
「そうしようと思ってたんだけど」

 寝巻に貸してやっているスウェットの裾をモニモニいじって、春は言葉を考えた。発育が良くない春が着るには日車のスウェットは大層丈が余っていて、これから寒くなるし今度ちゃんと用意をしてやらないとと思いながら、日車は言葉を待つ。

「嫌だったらヤってゆってぇ。なんかね、怖いんよ。ずうっと心臓がばくばくしてる。今さっきまでずっと調べものしてたんだけどぉ、これきっと嬉しいっていうのね。嬉しくてばくばくしてんの。んで、なんで嬉しいかを考えたのね」
「うん」
「たぶん、なりたいもの見つかったからなんだよねぇ。なりたいもの見つけられるようになったからなの。俺ずっとあの家から出れないと思ってたしぃ、炎上しても出れないと思ってたからぁ、なんか今すごい、怖いのね」
「うん」
「でねぇ、うんと……ごめんなさい、もぉちょっと自分で考えてみたい。でもとりあえず今日寝れないと明日大変だと思うのでぇ、せんせえに一緒に寝て欲しいの」
「寝、一緒に?」
「うん。さっきまでちょこっと見てたけど、せんせえすごいキツぅい顔してたからぁ、俺とせんせえでしんどいの半分こしてぇ、俺のうれしい半分あげたら俺も怖いのなくなるし、せんせえもしんどくないかなって」

 とんでもない殺し文句が出たものだ。時に一番残酷なものは無邪気であるという。日車はとりあえず保存だけはしっかりして、今まで取っ組み合っていたノートPCを雑に閉じた。その挙動に春が怯えたので、「寝支度をするから少し待ってろ」と伝えて、日車は猛然と寝支度を始めた。さっきまでの仕事に対する筆の遅さとは似ても似つかないフッ軽具合に自分でも少し笑いそうになる。ゲンキンが。思いながら、しかし身の内の澱のようなものも知覚してはいたので、今日ばっかりは自分に目をかけてやることにした。
 歯を磨きながら日車は、はたして自分がこれほどまでに春に対してあれこれしてやりたくなる気持ちについてふと考えた。自分が正しいと思うものによって正しい場所に置かれた春のことを嬉しく思う、とすでに結論付けてはいたが、このハリキリ具合はいささか行き過ぎでは? なぜこうまでも手を尽くしてやりたくなる? 泣く子も黙らせる黙る子は泣かさない最強大秀才の日車も、自分の心理の名前をポンと思いつくのはできなかった。

「見栄を張る……違う、思いあがる? これも違う……?」

 春も「自分で考えてみたい」と言った。自分もちょっと時間をかけて考えてみようか。
 そう思いながら寝支度を終えて春を探せば、日車の寝室で床に寝ようとしていて、先ほどまでのいじらしさもそっちのけ「異文化交流か! 布団に入れ」「なんで何が変なの普通じゃん!」としばし喧嘩めいた言い合いが続いた。



M12 ベテルギウス

 食卓に椅子はあるのに、日車と春は向かい合って床に正座している。
 両者の膝の間には封筒が置かれていて、双方小声で「お前が開けろお前のだろ」「やだ先生開けてよ」と言い合っては、双方「ムニ……」と黙るのを繰り返していた。

「……これができなきゃ弁護士にはなれないぞ」
「うわあ! 一番ずるいじゃん今それぇ! いやあー。んええー」

 春と「約束」をして以降、何かあるにつけて日車はこれを言った。そうすると春はウニャウニャ言いながらもしっかりとやり遂げるので、特に編入試験勉強が行き詰った際にはこれを大層重宝した。
 そんな必殺技でもまだ春がウニャウニャしているのは、これが編入試験の結果通知であったからだ。受験票を持って会場に行くのとは別種だろう緊張を、日車は社会人になってから何度か経験済みだ。このペラっちい茶封筒のなかに今までのすべてが紙ぺら一枚に収まって入っているそのおっかなさは日車も重々承知している。
 本来学ぶべきを学べず、学ぶべからずばかり学んできた春が、はじめて、多少イレギュラーではあるが正しい方法で大人の階段を上る瞬間である。唸りに唸って、ペンだこのできた手でそろそろと封筒を持ち上げる春に日車はどこか寂寥を覚えながら、そのビビりまくりなさまを見ていた。

「……開けます……」
「はい。どうぞ」

 何枚か入っていた書類のどれが一番読みたい本命なのかわからず、とにかく緊張でめちゃくちゃになったままの春はとりあえず一番最初に広げやすかった書類を見て、「わかんないけどこれたぶん先生が書くやつ……」と手渡してきた。俺が書くやつ? と思いながら受け取り、日車が受け取っている間に春は次の書類に目を通している。

「成績単位取得証明書……?」
「本学への編入を許可します……?」

 読み上げ終わって、二人そろって顔を見合わせた。
 地獄の底から這いあがった春少年は、日車の薫陶を受け、このたび高校編入試験を合格したのであった。二人で勝ち得た合格である。

「どういう意味ぇ!?!?」
「パニックになるな、高校行けるぞってことだ。やったな」
「こ、ぇえ!? ほんと!? マジで言ってる!? 天地神明に誓って!?」
「お前なんでたまに出る言葉が四角張ってるんだ」

 春は「ほああ」と奇妙な声を上げながら水にぬれた半紙を置くような手つきでそっと書類を床に置いて、「ひええ」と顔を覆ったまま横に倒れた。しばらくウゴウゴやっているのを横目に日車は書類を全て改めて、今一度春が高校編入試験を間違いなく合格したことを本人に代わって確かめた。
 じゃあこれは明日出しに行って、郵便局に寄らなきゃいけないのはこれ、と仕訳まで済ませたところで、ウゴウゴやった末にごめん寝のポーズで小さくなっていた春から腹の虫の音がする。封筒自体は日中のうちに届いていたようだが、日車が帰ってくるまでヒイヒイ言いながら開けるのを待っていた春は夕飯どころか昼食もすっ飛ばしたのを今になって思い出したらしかった。「めちゃんこ腹減ったけどなんも支度してねえや、米も炊いてねえ」と腹を抱えてウゴウゴしだしたので、日車は仕訳けた書類を片付けて上着を取る。

「え買うの? どこ行くの。昨日あっちのほうのスーパーで豚バラ安かったから買ってあるよ。ちょっとくれたら何か作るから待ってぇ」
「随分遠出したな? いや飯行くぞ。行きたいとこ言え」
「えぇえ? いいよ作るってぇ。なんにしよ。アスパラとか巻く?」
「お前がそうやって今までさんざ食費支えてくれてたおかげで、今までかけてた分の食費がほぼ丸ごと浮いているんだ。今日こそ還元されるべきだろ。いや食費だって本来お前に出させるべきではなくてだな」
「あそれ長い?」
「長くしていいならいくらでも長く小難しくできる」
「じゃあやだ! やめてメシいこ。えへへ、人にメシ奢ってもらうの久々だあ」
「前だって給料の現物支給みたいなメシだったんだろう」
「十分じゃん。働いてメシ出してもらえんだよぉ?」
「そういう……いや長くなるな。上着出せ、どこ行きたい?」
「今度こそ白ごはん!」
「普段食ってるだろ。吉野家だな」
「そこ回らない寿司じゃないのぉー!?」

 春はワギャ! と騒ぎながらいそいそと上着を用意した。一番はおかあさんの甘い卵焼きとおとおさんの焼きそば、とは言うが春は牛丼屋のカレーが好きだった。

(転換)

 好きなものを食え、と言えば春はバカなのであれもこれもトッピングを頼んだが、半分ほど食べたところでバカの顔をして「も腹いっぱい……」と言いやがったので、結局残りは日車が食べた。食べ過ぎでぐんにゃりして店を出た二人に、二月の寒気が吹き付ける。ぎゅぎゅ、と身を縮こまらせた春を見て、日車はなんでこいつマフラーしてないんだろうと思った。

「なんでマフラーしてないんだお前」
「こんないい上着もらったらこれだけでイケるってえ」
「縮こまってるのにか?」
「え? これ怒らりる空気?」
「怒らりる空気だ。もう金に不便してないだろ防寒具買え。どんなにダサくなってもいいなら俺が勝手に買うぞ」
「ゆーて先生がくれた上着めちゃアゲじゃーん! 先生の見立てならかっこよさ確実だよお。あでも高いの買うんじゃない? じゃあやだ。今度自分で買う」

 わはは、と息の塊を吐いた春は、吐いた分を鼻から吸った拍子に上を見上げて動かなくなった。地元とはいえ寒いもんは嫌なので、早く帰りたい日車は「どうした」と訊く。
 春は、「あれなぁに?」と空を指差した。

「それは星だ。あれも星だしあっちも星。ここから見えて空にあるものはぜーんぶ星だ」
「流石にそれはわかるけどぉ。俺も怒るよお」
「おお、まさか俺に怒らりが発生するとは。会った頃から随分成長したな」
「ちげーんだって、ちげーんだって、あれの名前が知りたい」
「は? はぁ」

 空を指差したまま器用に雪道でダバダバ地団駄を踏む春に向けて塊をひとつ吐いてやってから、日車は「冬 星座 名前」で雑に検索をかけた。まだまだ栄養不足気味の低い頭にあわせるように屈んで、スマホを観ながら日車も空を指す。

「冬の大三角、その右がオリオン座だ。さて問題、冬の大三角はプロキオン、シリウス、あとは?」
「べ、えー、べ。ベテルギウス」
「一番明るいのは?」
「シリウス」
「正解」
「うぃ〜!」

 雪道で器用に嬉しいステップを踏む春の頭越しに、日車も星を見た。一番近いシリウスですら光が地球に届くのにおよそ9年かかる場所にいる。最も遠いベテルギウスは約550年。
 途方もないな、と他人事みたいに思った日車の袖を、さっきまで踊っていたのが嘘みたいに静かな春の霜焼けた手がツンと引いた。

「あんさぁ先生、最初にメシ連れてってくれる前に俺に言ったこと覚えてる?」

 日車は春が舌ったらずに「せんせえ」と言わなくなっていたのに今頃気がついた。内心の驚きを鉄面皮で封じ込めながら、「覚えてない」と応える。

「俺も全部ちゃんと覚えてるわけじゃないけどさぁ、俺みたいなのを助けるために司法があって、先生はそれに魂を売ったから、俺が幸せにならないと困るっつって」
「ああ、あったな」
「んでさ、俺がわかんなーいっつったら先生そのうちわかればいいし、わかんないでもいいって言ったんよ」
「今はわかるか?」
「今も全部はわかんない。でも、ほらあれ、何光年だっけえ、めっちゃ遠いじゃん。でも俺らに届いてんの。たぶんあれと同じ分り方をすんのかなって思った」
「詩人だな」
「先生が最初に和歌詠んでくれたからねえ」

 にへへ、と春は息を吐いた。続くかと思った言葉を待って黙っていたが、予想に反して春から言葉が出てこない。訝しんだ日車が春を見ると、大人びた顔で目を細めていた。
 何の顔だ、どこかで見た気がするが。

「あんねえ、今日俺にもぉ一個封筒届いてんの。入所できる養護施設決まったよ。俺、先生んち出ます。おうち帰ったら書類書いて欲しいの。始業式までまだあるから、おゆはんは作りに来るねぇ」

 街頭の灯りに縁取られた春の笑顔は、しかし吐息でかすかにぼやけて見えた。
 なにとなく漫然とこんな日が続いていくと思っていたが、案外ほんとうに想像以上に春は成長している。住処を探して、本人が覚えてるかは知らないが「ベンゴシ」になるため? に励もうとしている。春のませた感性に、風格が追いついてきていた。
 空気がそうさせる以上に凛々しく見える春の顔を最後にひたりと見て、日車は息を吐いた。一瞬霞に遮られた春の顔は、風にほどけて消える頃にはいつもの顔になっている。

「……ベンゴシになるのは大変だぞ」
「ん。それはもうわかるようになったよ、先生ほんとにすごい人なんだねぇ。マジの魔法使いじゃん」
「何の話だ?」
「こっちの話。ちょっとだけ先生から離れるけど、辛いときも泣かないでねえ。俺は大丈夫だから、やりたいことやって」
「それはお前だろ。わからないところがあったら聞きに来い。教えてやるから」
「まだちょっとだけ先だけどね! えへへ、やっぱちょっとさみーや、早く帰ろ」

 春の癖毛の頭は光を受けて普段より割り増しで綿毛のようにポワポワしている。いつものゆるっとした子犬みたいな素振りで、春は三度器用に雪道で軽やかに日車の周りをグルグル回って、手を引いた。
 身のこなしの割にやわらかく引かれる手を、この気温に似合わないポワポワさを、日車はなぜか違和感として受け止めてしまった。
 春の手は冷たかった。


M15 黄色

 日車の家を出る日、春は泣かなかった。目いっぱいに涙を溜めてはいたが、顔中に力を入れてこらえながら「お世話んなりぁした」と泣きべそを隠し切れていない声で言って、来た頃よりも増えた荷物をスポーツバッグに詰め込んで家を出た。
 それからもほぼ毎日日車の家を訪れ、夕飯をこさえたり簡単な片付けをして、夜には帰っていく。日車は強盗殺人事件の弁護を担当しはじめ、帰った頃には春も家を去っていることも少なくなかったが、ラップのかけられた夕食に添えられたメモがこれでもかと主張するので、最初のうちはあまり今までと変わった気がしなかった。

「なあ、高校の制服届くの、ここの家のままだが変更の手続きは必要ないのか?」
「あ、あー……そっか。制服届くんだった。やーいいよ、めんどくさいでしょ。先生最近ずっと忙しそうだし」
「弁護士の仕事の九割は書類と役所だぞ」
「盛ってなぁい?」
「ちょっと盛った。まぁ六割くらいか」
「それでも半分じゃあん。いい、俺やるよ。じゃあね先生、ご飯ちゃんと食べてよ」

 春が家を出るのに間に合った日にそんなことがあって、寂寥、よりも先に違和感が日車へ去来した。
 やけに頑なだな。
 涙袋をこすって疲れた素振りの春を見ながら、なにだか真意が見えない心地がした。ホラー映画を観ている時に感じる、ちょっとした違和感が降り積もって嫌な感情へと変遷していく過程と似ている。
 今までいた人間がいない生活をしているからだ。そう思うことにした。

 そろそろ降雪も落ち着いた頃、日車は出先で飯を食ってから事務所に戻るところだった。歩道の脇にはうず高く雪が積まれ、視界が悪い。
 横断歩道の信号が変わるのを待った。可視性の低い青信号が見えたので、白いところを踏まないように歩く。
 交差点の真ん中あたりを過ぎたところで、日車はぎくりと身を固め、歩道の真ん中で立ち止まってしまった。

「は……」

 二の句が継げなかった。春だ。日車が渡っている反対側の横断歩道を、家を出たあの日と同じ格好のまま渡っている。少しばかり増えた荷物を詰め込んだスポーツバッグもそのままに変わらない姿だった。
 日車の鼓動以外のすべてが止まってしまったのは、ただ春を認めてしまったからだけではなかった。
 ……なぜあの顔をしている?
 春の顔は、白飯を乞われて寿司屋に連れて行ったよりもずっと前、ほんとうに初めて会った時のそれと全く同じだった。
 どこに目がついていればあれをミモザなんぞと喩えられようものか。あれは波濤を前に朽ちるのを待つ枯れ枝だ。雪の中で斃れることも許されないまま凍りついていく枯れ草だ。
 あれは、命のやりとりを経験した顔だ。

 手前の仕事はちゃんとキリのいいところまで片付けて、日車は電話をかけた。相手は春が持ってきた児童養護施設である。入所の手続きの書類にこちらの不備もないし、書類自体に不備もなかった。なぜ春があの顔をしている? それだけが知りたかった。

「いえ、うちには入所されてませんね」
「していない?」
「念のためもう一度お名前伺ってもよろしいですか?」

 すっかり呼ぶことがなかった春のフルネームは、春が行ったはずの施設の名簿にないらしかった。そうですか、お騒がせしてすみません。電話を切って、額を親指の腹で何度も撫でた。
 日車は考える。業腹だが、春は日車を信用していなかったのだろう。だから転居先も知らせずに家を出て、行方をくらませて、日車のもとには嵐だけを残して消えたのだろう。
 しかし本当にそうだろうか? あの春が? 未だ日車は春を疑いきれていなかった。元来一度信じたものを違うと思えない質であったのも相まって、しかし春はなにかを秘密にしたまま日車のそばを離れた、それだけは間違いないと思った。
 ただ、春がすべてを打ち明けてくれなかったことに対する自分の感情がなんなのかが分からず、日車は釈然としないまま数日を過ごした。
 春はあれから日車の家に近づいていないらしく、また連絡も途絶えた。それならそれで別にいいのだが、なんとなく感情がニュートラルになったまま、自分以外にやる人間がいないので、自分でやらなきゃ無尽蔵に増えていく家事を黙々と片付けて、また無尽蔵に湧いて出る仕事を粛々と片付けて、帰りを迎える声のないことに、胸の内に澱を増やしながら。

「書類一枚で片付くなら、片付けてしまえばよかったか。偉そうなことを言っておきながら」

 自分の仕事なんか何割が書類仕事だと言った時を思い出しながら、ある日妙に荒れた家の中を片付けながら日車は思った。警察には既に届け出て、検分も終わったところであった。片づけを手伝うまではしてくれないらしい警察官に「数日は用心してください」と言い残されて、仕事ではよく取り扱うが自分の身に起こってみるといざどうしていいやらわからない。引き倒された本棚を跨いで、壁に爪を立てた跡を見遣る。
 ……春の背丈なら、丁度このくらいだろうか。
 自宅の鍵を渡している人間は春以外におらず、不在の間に春が何かしたか、春に何かがあったかの二択だ。
 世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし。こうも懊悩するくらいなら初めから出会わないか、ずっと手元に置いておけるようにしておくべきだったのだ。

 今まで名前を付けあぐねていた澱が「執着」であった、とわかったのは、見慣れない綺麗さに整えられた春の遺体が入った棺桶の小窓を眺めたときだった。硝子の蓋を閉めるのは他の人間がやった。日車と久慈川春雪は、書面上は赤の他人であったから。
 春から名前をもらっておけばよかった。もらった代わりに、名前をくれてやれば、何か変わったのかもしれなかった。


M15 大丈夫(リプライズ)

 強盗殺人容疑の弁護と並行して、日車にはもうひとつ仕事が増えた。春を殺害した男、久慈川秋生の弁護である。
 これがまたえらく難航している。そも春の裁判があれだけ難航したのだって、もとはと言えばこの男のあれやそれによるものであった。あんまり思い出したくもない。密度を増した当時が、今目の前で繰り広げられているからである。
 さて、この男を減刑するのと春を生き返らせるのでは果たしてどちらが容易いだろう。久慈川秋生は春を殺したことを善行だと思っていて、それを世間は褒めこそすれ断罪するなど言語道断だと喧伝している。本人に喋らせれば喋らせただけ泣きを見るタイプであったし、止めたところで黙りもしない。
 策はないわけではない。が、日車はあまりこれを好まない。どうしたものか、と思っていれば、穴の開いたアクリル板越しに久慈川秋生は問うた。

「なあ、あんた。アレは使ったか? 俺が仕込んだ」
「アレとは?」

 日車が訊きかえせば、久慈川秋生は親指と人差し指で作った輪に舌を差し込んで笑った。
 隣で清水が椅子を倒して立ち去る、音だけがする。日車は退席する清水を見遣るでもなく、かといって目の前の久慈川秋生を見ているわけでもなかった。
 この世のすべてとピントが合っていなかった。

「せんせえ、他にすることないのぉ? 床も拭いちゃった」
「勉強」
「んえ……」
「何が不満なんだ。もとはと言えばそのための屋根だ」
「そ……いいのぉ? 疲れてないの? 大丈夫?」
「何の話だ? 今まで俺がどうやって暮らしてきたと思ってる。自分の世話は自分でするから気にするな」
「……そうなのぉ」

 居候した当初そう言ってはにかんだ春は、ああなるほど、この男から逃げてきたのであれば、ああいった言動にもなろうというものか。あんなことにでもならなければ、この男から逃げられないまま生きていたかもしれなかったのか。あんなことがあってこの男から逃げて来て、挙句この男に殺されてしまったのか。
 逃げてから死ぬまでの間、果たして春は幸せだったろうか。
 それから、気づけば家だった。スマホには清水から次回の面会の日時が送られてきているし、時間もとっくに夜だった。日車は寝起きみたいに感覚のふやつく手で、玄関の照明をつけようとして。

「せんせー、おかえりぃ。お仕事がんばってえらいねぇ」

 幻聴だ。そう思わなければ、何かが揺らぎそうだった。それはそれでもう駄目なのだが。
 もうこの家は明かりを湛えたまま日車を出迎えることはなくなったのだ、そう思って、ここに来て初めて日車の心情は狂った。
 何故春が死ななければいけなかった? 彼が何をした? どうすれば春が死なずに済んだ?
 なぜなにどうして、これではここへ来てすぐの春と変わらない。春のなぜなに攻撃よりも多くの疑問が湧いて出ては、その切れ味が日車の呼吸をせき止める。日車がさっさと紙ぺらを何枚か役所に出していれば防げたかと言われればそうでもなく、かと言ってやっていなかった結果がこれなのだ。どうしたって春はもうこの家にはいない。世界中のどこを探したっていない。この世にいない。
 そうしてしばらく呻いて唸って、日車は問題の核に直面した。
 自分はなぜこれほどまでに、春を乞うているのか? なぜ春が救われることが自分の救いとなるのか?

「辛いときも泣かないでねえ。俺は大丈夫だから、やりたいことやって」

 祈り、だ。であれば、あれは、これは、何を祈ったものだったろう。冷え込むままの玄関で蹲って、日車は考える。
 これからはちゃんと大丈夫になるから、学校へ行け、と言ったのはいつだったか。自分が殉じている司法とは、究極を言ってしまえば本来国が円滑に運営されるために策定されたものだ。日車が思う正義は法としての拘束力は思っているほどなくて、自然法論は実定法の前に授権関係となって、ああだから俺が殉じた法のまえでは真にお前を守ってやることはできなくて。

「……だから、俺が守ってやりたかった。お前だけが俺を肯定してくれていたから」

 いざ辿り着いてみれば、なんと稚拙な理由だろう。日車はその生業から世間のバッシングを受けることも少なからずあり、いくら平気なふりをしたって、実際に平気だと思っていたって日車も人間であった。スリップダメージは発生するものである。独立する前の事務所の先輩も、清水も世間も日車を諫めた。過激な言葉で、または諭すように。お前はそれでいいのか、と。
 それら一切を、春はしなかった。日車がやっているなら、それは少なくとも日車と春のなかでは正しいことなのだと信じていた。春は日車を世界だと思っているのから、日車が正義だと思えば、春の世界でそれは正しいことになる。
 ああそうだ、思い出した。日車が以前春に「お前なんで「ベンゴシ」になりたいんだ」と訊いたとき、春はこう言った。

「よくわからんけど、せんせえお仕事めっちゃ大変でしょお。俺、せんせえに大丈夫にしてもらったから、今度は俺が先生を大丈夫にしたい。俺のせんせえがそうみたいに、せんせえの大丈夫に俺がなりたい」

 その小さな肩に世界の悪意を背負わされただろうに、春はパヤパヤと微笑んで、怒れる男に向けて「大丈夫?」と訊いたのだ。大丈夫じゃないのは自身だっただろうに。
 あの小さな頭は、どこまで世界を理解していただろう。日車よりは悪意をよく知ってはいたかもしれない。現状がなにも大丈夫じゃないことをしっかり理解して、だから日車だけは大丈夫にするためにこの家を出たのだろう。残された日車はきっと大丈夫だと思っただろう。春にとって日車は、新しく拓かれたおおきな世界そのものだから、自分がいなくなったぐらいで崩壊するとはついぞ思わなかったのだろう。

「何も、何も大丈夫じゃない。何一つとして、大丈夫じゃないんだ、春。ここには……お前がいない」

 日車が背にかばったと思っていた小さな影は、いつしか日車の背中をすっかり支えていた。いつかこれが隣に並ぶんだとばかり思っていたのに、突然奪われてしまった。支えを失った日車は、世界が変わるのを感じた。
 求められる希望通りに効力を持つ法の、なんと少ないことか。数少ない法を継ぎ接ぎしたところで、時に法は無力だ。告訴も控訴もなく、法を犯したものが物理法則のように罰せられる世界が、あれば、春は。
 日車は春のかわりに舞台への階段を上がった。蹴込みには、絶望とある。


M25 聖戦

 闇をいくら祓ったところで、結局夜のとばりが下りればそこにあるのは闇だ。明かりを灯したところで、虚無が眩しく光るのみである。
 日車が受け持っていた二つの裁判のうち一つは判決が出た。久慈川秋生は無罪にはなり得なかった。が、有罪にもなり得なかった。裁かれもせず許されもせず、宙ぶらりんのまま余生を過ごすだろう。
 大江圭太の裁判は、終わったとは言えなかった。検察官と裁判官を殺した。説明に時間がかかるような不可思議に巻き込まれて、日車は「法を犯した者が物理法則のように罰せられる可能性」と遭遇した。
 死滅回游。もとは暖流に生息する魚が海流に乗り群れをはぐれ、寒流水域に迷い込んで死ぬことを指した言葉であった。
 可能性を見届けなければいけないと思う。日車に知らされた総則は大雑把だが、同時に与えられた力がどうにも総則を成立させ得るように感じた。
 何より、ここにはいたくなかった。結局春は編入する高校の制服の届け先を日車の家から変更する前に死んだので、着るべき人間がいない制服がある家にいるのが嫌になった。ここは春と出会い、春を失った街だ。この街にはこれから冬が来る。そんな季節を前にして、桜を想ったままでは到底生き残れそうにないと思った。ただでさえ春のいない夏と秋を超えて、そのうちに二つの裁判を抱えてきた。もうどこかへ行ってしまいたいと思う。
 だので、日車は別れを告げに来た。久慈川はなんてことはない二級河川だが、山の方では紅葉が見ものらしい。どうでもよかった。ここを選んだのは名前が春と同じだったからである。
 日車は冬の半歩手前の二級河川を前に、長い瞬きを何度かした。そのひとつひとつの間に長い回顧をするように、愛しむように目を閉じ、開く。
 何度目かを終えて、日車は持参した酒の栓を開け、すべて川へ流した。ついぞ成人することのなかった春への手向けであり、決別の禊である。
 いつだったか春に言ったなかで、于武陵の漢詩を井伏鱒二が邦訳したものを口遊んだ。花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ。あれは、酒の席を詠んだ詩であるらしい。日車と春は酒を酌み交わすことはできなかったから、感傷に任せてそんなことをしてみた。
 感傷に任せてそんなことをやりに来たので、済んでしまえば日車は何をしていいかわからなくなってしまった。

「……いつか笑えたら。そういう日があったら。それでいいか」

 問いかけに応える声はない。あるはずがない。
 それでも、いざ声に出してみるとすっきりしたものだ。呪いが解けたような心地がする。春は日車を壊すだけ壊して消えたが、壊されたまま残された日車もなにか新しい予感がしている。後ろ暗くないと言えば噓になるが、何せやりたいことをやれと遺された。遺されたなら、せめてしてやりたいと思う気持ちの名前は、いったい何だろう。
 冬来たりなば春遠からじ。祓っても祓っても尽きない闇も、この戦いが終わるまではお前への悔恨でもって愛とでも呼ぼうか。
 日車は暗く笑って踵を返した。呪いは解かれたのではなく、今かけられた。
 これからこの街には雪が降る。永い冬が来る。