客電をつけて

OP

 夏が好きだった。
 家族の誰の名前にも入っていない季節だったし、寒くて死ぬ心配もない。水は公園で飲めばいいし、草木も豊かだ。比較的ひもじい思いをすることが少ない。
 何より。
 夏はあざやかだった。
 幼い頃に連れて行ってもらったひまわり畑の大迷路は、今でもよく覚えている。気が狂いそうなくらい青い空に、負けじと差し向けられる黄色に包まれて、なにだか世界に溶けていくような心地がしたのだ。
 叶うなら、もう一度あれを感じたいと、そう思って生きてきた。



M2 HYDRA

 久慈川春雪の生業は数え切れなかった。日によって違う仕事を転々としながら、コンスタントに続けていた仕事、というにはささやかなものは動画投稿サイトにおける配信のみで、しかしそれも続けていけるかわからなくなった。平たく言えば、炎上をしたのである。自己の不始末ではなく、視聴者の悪意による気まぐれな放火でもって。
 唯一やりがいのある仕事だった。唯一苦しみだけで構成されていない仕事だった。そも、仕事ではなかった。よすが、拠り所、そんなふうにしていたことにそのうち金銭がついたので仕事と呼ぶようになった。その程度のことであるが、何せ春雪にとっては拠り所であったので、これを続けていけなくなると、いよいよもって身支度をしなければいけなかった。
 死出の道を行く旅支度である。春雪は両親に会うための身辺整理を始めた。
 その旅支度を止めさせたのも、また視聴者であった。春雪の配信は絶大な人気を誇るわけではなく、「いつものコンビニにいる笑顔がかわいい店員さん」とか「喫茶店の看板ネコちゃん」くらいの集客力で、さほど強くはなかったが情には溢れていた。悪意と反転した情でもって世界から断絶されかけた春雪は、春雪の持ち得なかった知識と憐憫でもって、またも気まぐれに救済措置が取られた。
 裁判である。

「君の弁護を担当する日車寛見だ」

 そう言って現れた背広の男は、後に思えば「福音」とかいう言葉が似合うさまだった。
 さもなければ、破壊がふさわしい。

「清水、着るもの用意してやってくれ。ユニクロでいいだろう。領収書切っておいてくれ。何までなら飲める?」
「……何までって、なんでぇ? ……ですかぁ?」
「体調によっては空きっ腹に入れたら良くないものもあるだろう。……最後に食事をとったのは?」
「さっきぃ。フリスク」
「終わりだ。清水、服と飯交代してくれ。重病人に食わせるもの基準で選んでくれ」

 そうして春雪が「はわぁ、えぇ? なに? なんの話になってんのぉ?」と事態が飲み込めないでいる間に、文化的最低限の衣服と食事が春雪の前に揃えられた。来客用のマグに入れられた茶の湯気ごしに見る日車は、視覚効果も相まって、春雪の目に一層超常として映った。
 だって信じられやしなかった。バイト先の制服じゃない新しい服と、他人が用意してくれた食事だ。
 日車は「食べながらでいいし、全て理解しなくてもいいから、こっちの説明責任だけ果たさせてくれ」と紙をあれこれ並べ替えながら話す。本当にマジで一ミリも理解できなかったが、隣で介助についてくれている清水が「ご飯の後にしたらいいのに」と言いながら空いた皿を入れ替えてくれたことが更に信じられなかった。
 春雪は、コールスローサラダをムギムギ噛みながら、日車から視線を外さない。だって見ておかないともったいないと思った。
 真っ黒なスーツから伸びる節だった手は、魔法みたいにサッサと春雪へ降っていた艱難辛苦を退け、濯ぐ。魔法みたいな腕が繋がっている胴も同じに夜のようなスーツに包まれていて、春雪は一層夜が好きになった。夜は人がいないので、補導にさえ気を付けていればどこにいても良かったからだ。時折知らない男の人に連れていかれて、体中を触られるのはとってもとっても嫌だったが。
 ともあれ、目の前に魔法があった。これを見ておかないのはもったいない。だって今後こんなに美しいものをお目にかけられる機会はきっと一生ないと思えた。春雪はサラダをボロボロこぼしながら、じっと日車を見続けていた。

「だので、当面君の安全が保障できるまでは自宅に戻るのは難しいだろうと思う。受け入れ先の児童養護施設が見つかってから進めるべき話だろうが、なんたって今回はスタートがイレギュラーだ。しばらく俺か清水の家で君を預かれればと思うが、どうだ?」
「え、私の家ですか?」
「不都合が?」
「あの……散らかっていまして」
「だそうだ。俺の家になるが構わないか」
「えぇ……いいよぉ、めんどくさいでしょぉ、何日かなら外で明かせるよぉ。……明かせ、ますよぉ」
「参考までに聞いておきたいが、どうやって?」
「ネカフェ行くか、駅のトイレの掃除道具入れ、あそこ見回り逃げちゃえば一晩いれるし、次の日バイトなかったらぷらぷらしてたら明るくなるしぃ。それでよくなぁい? ……です? 俺グズあくまだから」
「一層許可できなくなった。俺の家だって人をもてなせる有り様じゃないが、野宿より良いだろう。せめて今晩は泊まれ」

 日車は春雪の想像も及ばない次元でものを考えた末に言っているのだろうが、春雪のプリミティブな思考では、次元がかけ離れすぎていていっそ怖かった。なぜこの人はこんなにも自分に目をかけてくれる? 打算だろうか? あげられるものなんか名前と母の手紙か、体くらいしかないのに? というか、ベンゴシって雇うのにものすごくお金がかかるんじゃなかったか。そのお金は果たして自分が払える額か? ただでさえ叔父は新台を打ちに行くって東京まで行って、その旅費は今までひっそり溜めてきた金で賄われたのに?
 春雪はここにきて具合が悪くなった。五臓六腑がぐるぐるして、頭が接続不良を起こしている。じわりと浮き出た脂汗にか、現状に対してかわからないまま、春雪は「……やだぁ」と言った。

「こわい。なんで? わかんない。きもちわるい」
「……すまなかった」
「てか今、おじさんいないしぃ」
「水道出るのか?」
「電気は止まってなぁい」
「……」

 日車はひどく悩む顔をした。春雪は焦って弁明をしようと口を開いて、吐き気にぎゅっと閉じる。
 そんな顔をさせたかったわけじゃない、そんな顔をされたら苦しくてしかたない、気持ち悪い、吐きそう、でも違うと言わなきゃいけなくて、あれ? そも俺はこの人に違うと言える立場だろうか。一層気分を悪くさせたりしないか? この世でいちばんきれいな魔法使いは、きっと叔父とは違う生き物だけど、だけど、だけど。
 なけなしの経験と本能で回る春雪の思考は、そこで一旦停止した。
 吐き気を抑えるのに必死で息をするのをすっかり後回しにしていたら、まんまと息苦しくなっちまって、うわ息! と思って口を開いたら呆気なく吐き戻した。過食嘔吐である。必死になって隠していたつもりなのは春雪だけだったらしく、日車と清水は「わかってました」みたいな手際で介助をする。

「結構しっかり食べるから大丈夫かなと思ってたら……ごめんねしんどかったね、途中で止めればよかったね」
「自分の容量とペースも忘れるくらいまともに食ってなかったんだろう、あんまり責めるな。我慢させてすまなかった、落ち着いたら水を飲め。大丈夫だから」

 そう言って背中を撫でさすってくれる手が、背骨と当たるたびに怯えたように止まるのが、不可解でならなかった。別に今更珍しいことじゃない。けれど、そうなる前が正しい状態だったんだよ、と言外にとっくり説かれては、すっかりパニックになった頭では「そういうもんなのかなぁ」と思う。
 なんかまぁ、そうなんだろう。だって魔法使いがそう言うのだ。
 春雪はそのままあれよあれよと日車の事務所のソファで寝付かされた。迷惑をかけるから本気で辞退しようと思ったが、もう体が動かない。春雪は自覚していないが、とことん弱ったところに嘔吐をブチかましたのに加え、シンプルに情報の奔流に押しつぶされて発熱していた。
 初夏とはいえ、日によっては夜も冷え込む。すっかり日も落ちて、清水もいつの間にか帰っていた。つらくなったら呼べ、その辺にいるから。日車はひざ掛けの上からスーツまでかけてやって、自分のデスクで何やらパチパチ叩いていた。

「……あのぉ」
「どうした。気持ち悪いか?」
「わかんなぁい。……です。……痛い」
「頭か?」
「あたま……も、そう。ここが痛い」
「どこ」
「ここ」

 春雪がぎゅっと握ったのは心臓の上だった。
 綻びていた。春雪がいままでの人生の半分で築き上げ、身に着けざるをえなかった警戒の牙城に、大きなひびが入っている。前後不覚になるまで体調を崩したことは少なくもないが、甘えるなんて行動に出たのは本当に久しぶりで、それも無自覚で、何より久しくやっていなかったせいで「これでよかったっけ」と思う暇もなかった。
 日車はノートPCを閉じて、春雪の寝ているソファの横に膝をついた。そんなことしたら膝が汚れるのに。春雪がはふはふ息をつくのに必死でそれが言えないでいる間に、日車は忙しなく動く肩までひざ掛けとスーツをかけてやり、頭を撫でた。

「今に痛くなくなる。すぐだ」
「……なんでぇ?」
「あとは君次第の部分も大きいが、そのきっかけに俺がなるから」

 情で築かれた城に比べて暴力で築かれた砦の、時になんと脆いものか。春雪はわからないままポトポト涙を落として、「そぉなの」と呟いて眠った。
 叔父によって築かれた警戒の城、その落城の瞬間である。春雪は城だった場所の最奥でひとり、日の光を全身に浴びた。
 この光のためなら、この人のためなら、すべて捧げてもいい。今まで使い切らないように少しずつ使ってきていた命は、この人に使うために失われずにいたのだ。
 春雪がここまで考えられたはずはない。が、もし活字化するならそんなような高揚を、それに気づいた全能感を、案外世間では愛と呼ぶのは、間違いなく知る由もなかった。



M6 愛にできることはまだあるかい


 日車と出会った初夏、結局一緒に暮らし始めた夏を超えて、春雪――いまは日車がそう呼んでくれるので春は、自分が本当に何も知らないで生きて来ていたことを骨の髄まで痛感した。
 日車が日頃向き合っている書類が全く読めない(意味はわからないまでも読めはするかと思って覗いたら、見たことない漢字が山ほどあって本当に読めない)し、世間の一定数の子どもたちはこんなにも保証された環境で教育を受けられていたのか、と感電したように驚いた。この世は知らないことが多すぎる。
 そんな経緯を経て、春は高校編入を目指して勉強をすることになった。元素周期表は半分くらいまでなんとか覚えたし、日本史にカエサルとリンカーンは出てこないことも覚えた。日車の書類は相変わらず意味がわからないが、きっかけの裁判が終わった時に日車が貸してくれた辞書を開きながら追えば、なんとなく難しいことを言っているのだけは分かるようになってきた。
 そして、日車がいつも眉間にしわを寄せて向き合っているこの書類に書かれていることが、自分ではない自分と同じような人に関することなのも理解した。
 バイトはほぼ全て辞めたが、春には配信業がある。春の状況にあって一番いいだろうとその時は思われた「国選弁護士を宛がって裁判を起こし、無理やりにでも春を世間に引っ張り出す」という策を思いついた豪のリスナーもいる春の配信におけるリスナー層は、ここ数か月で少々変化があった。同じ単元を勉強している学生など、若年層が増えたのである。勉強でわからなかったところがあったとき、辞書で調べてもわからなかったとき、またすぐ訊けるところに日車がいないとき、春はリスナーを頼った。

「あーわかった、ここにレ点つければいいんだあ。ありがとー助かったあー。いや困ったあー。せんせえが最初に和歌詠んでくれたからさぁ、あれどういう意味だったんだろーって調べまくってたら今日本語めっちゃ楽しくて仕方ないんよぉ。すげくねぇ? 俺今漢和辞典とか読んじゃってんのぉ」
『よかったじゃん』
『ええこっちゃええこっちゃ』
『はよ歌え歌え歌え歌え歌え歌え』
『タイトル読め雑談枠だって言ってるだろうが』
『数学も面白いぞ、数学科に来い』
「数学ぜーんぜんわっかんなぁい。できた時楽しいけど、できなかった時のどうしよーもない感どうにかなんないのぉ? クレームだよもぉ。わかる人だけやってぇ。アでもわかる人が増えてかないとそのうちわかる人が皆死んじゃったら数学ぜんぶがわかんなくなっちゃうのかぁ……」
『かしこいな せやで』
『楽しいを積み重ねていけばいいんだよ いきなりレベルアップしすぎなんじゃないの』
『日本語好きとか言って語彙ガバガバやないかい』
『いいぞいいぞ 数学を楽しめ そのうち一緒にABC予想証明しような』
『高校進学すらできてない子になんてこと言うんだお前……』
「ABC予想ってなーにぃ? ABCの次に来るのはDでしょ。おわり」
『草』
『てんさい』
『バカ』

 アハアハ笑って春はコメントを眺めた。そのうち一緒にABC予想証明しような、その言葉がどうにも引っかかった。

「あんさーぁ? 前にせんせえが俺のこと、たとえ悪魔でも間違ったことしてなければ助けるよーって言ってくれたのねえ。それからずっと、俺掃除とか洗濯とか料理とか、あと高校受かって独り立ちする以外になんかできることないかなあってずっと思ってんのぉ。なんかなぁい?」
『熱烈だなあ』
『その弁護士の名前教えてくれないか?応援したい』
「だめえ。名前出すなってなんか紙書いたから。今思うとあれ契約書だねえ。破ったら怒られるどこじゃ済まないんだよお多分」

 春はシャーペンの軸先をヘニヘニ噛みながら回顧する。右も左もわからなかった頃に結ばされた契約は無効なのでは? とも思ったが、思い返してみれば日車は十分すぎるほどに説明をしてくれていた。あそこまでやってもらって理解できなかった当時の春の頭が終わりだし、今思ってみて理解できているなら日車の説明に不足はなかったということだ。
 当時の終わりきった頭にあれだけの説明をしてくれた日車に、今もなにか一つ訊けば千の言葉で返してくれる日車に、もっと何か報償があるべきだ。そしてそれは、俺から与えられるものでありたい。春はずっとそんなことを考えていて、これの名前がなんなのか知りたかった。
 しばし考え込みながら流れるコメントを遡って、ふと辞書を手に取った。
 熱烈ってなんだ。
 辞書を引けば、きわめて熱心なこと、とある。じゃあ熱心ってなんだ。続いて探そうとする春の目に、ひとつ単語が飛び込んだ。
 熱愛。

「……お? あのさーぁ? 愛ってなに?」
『哲学的な話? 単語の意味的な話?』
『自然法的な話かな』
『難しい質問が来たなあ 好きってことだよ』
『突然どうした 好きな人でもいるのか?』
「うーん……俺が先生に幸せになってほしいから何かしたい、って「好き」ってことなの?」
『どこまでできる?』
「俺ができるならなんでもいいよ」
『ん? 今なんでもって言ったよね?』
『おいやめろ』
「なんでもやるよお。出て行けって言われたら出て行く……あ、嘘。それはヤかも。ばいばいになっちゃうな」
『てえてえなぁ』
「てえてえってなーに」
『尊いってこと』
「尊いって……いや辞書引こ」

 価値が高い、大切で貴重なものとある。
 なぜ自分はこんなにも日車にあれもこれもしたいと思ったか。日車は春を「ふつう」にしようとしてくれる黒いスーツを着た魔法使いで、つまり「尊い」。してもらった分のことはもちろん返すべきたし、そんなにすごい人なのだからありとあらゆるものを受けていいと思ったのだ。
 じゃあなぜ自分がしたいと思うか。日車に「ありがとうな」と言われたい。日車に大切にされたい。大切にされるには、大切にしたいと思えるほどのキッカケが必要だ。

「……家事、足んないかも。もっと先生にありがとなって言ってもらえること、やんなきゃかも」

 ヘニヘニ噛んでいたシャーペンを口元から離して、ペン先を見た。警戒の牙城が崩れきって、瓦礫の後片付けも済んでしまえば春はすっかり日車に懐いて勉強を聞きに行っていた。あれは何、これがわからない。最初のうちは何度説明をされてもさっぱりわからず日車の顔ばかり見ていたが、最近はすっかり教科書とノート、設問を指さす日車の手ばかりを見ている。
 日車の手は、春とはまた違う、よく働く人間の手だ。春は縁がないが、指先に奇妙なタコがあって、きっとあれはキーボードをたたいてできたタコだと春は思う。タコができると痛いのだ。春は日車の指先を働かせない方法を考えながらペン先を見ている。
 日車の手は出会ったころからああだった。春ひとりを助けて終わる仕事じゃないということだ。日車は春と同じように人を助けて、春もまたこれまで日車に助けられてきた人のひとりに過ぎない。
 それが、なんかイヤだった。

「俺、ベンゴシになろって前に言ったんよ……。ベンゴシなって、だれかのヒーローんなるって。……だれかのヒーローじゃなく、先生の助けになりたい……」

 ぽつ、と、浮かされたように呟いて、ああこれだ、これが答えだと、難しい証明問題のきっかけを掴んだように頭が晴れる。
 これだ。
 自分もベンゴシになればいい。それも、日車のための。
 腕の立つ優秀なベンゴシになって、日車の仕事を手伝ったり、なんなら肩代わりしてあげればいいのだ。

「……あっ。わっ、わぁ! これだよ!」

 ふぉろわぁー! と、気づいた内容に反してアホ丸出しの声を上げて、春は喜ぶ。なんてったって嬉しい。
 これは、目標ではなく生きる意味だった。
 日車に楽をさせてやりたい。日車を幸せにしたい。それも、自分の手によって。
 ただ明るい野原に出ただけだった春の眼前に、道しるべが現れたような心地だ。これだ。この道を行こう。
 愛にできることはまだある。おれにできることもまだあるんだ。
 あんまり嬉しくて、その夜春は日車の寝室に忍び込み、眠る日車の隣で膝を抱えて座っていた。今まで胸の内にあったムニャムニャの名前を世界は愛と呼ぶことが、愛する人がいることが、その人のためにしたいことが明確になったのが、眩しいほどに嬉しかった。


M9 大丈夫

 人は忘れる生き物である。春のはじめに自転車に乗って最初の数日は毎年筋肉痛になるように、アホほど歩いた雪道だろうが冬の初めは歩き方を間違えるように、人は季節を跨ぐほどの時間が空けば、けっこういろんなことを忘れていくものだ。
 春もまた。まして、あんな劇的な救われ方をしたのであればなおさら。
 希望を持たなければ絶望しない。希望があるから絶望する羽目になるというのを、すっかり忘れていた。

「お前、こんなとこにいたのか」

 秋も暮れかけたある昼下がりであった。春は近所のすこし大きなスーパーに買出しに来ていて、「先生なんだかんだ和食好きだからシャケ出始めたし炊き込みご飯でもやったろ」と仕入れた戦利品を横に、フードコートで休憩をしていた。
 呼びかけられて、全ての細胞が固まった。
 抵抗も思考も許されない。
 そう躾けられた。
 油の刺されていないブリキみたいなぎこちなさでも、その声のした方に首を向けられたのは、日車はひと夏で育んだ春の心根のおかげか、せいか。
 見るからに低所得者の、薄汚い男――久慈川秋生が立っていた。
 ピントがズレる、とでもいうべきか。春の意識は現実からなん段階かズレこんで、物事の判断がつかなくなった。すべてとおいスクリーンの向こう側で起きているような。ある種の防衛機構だった。
 人ひとりをそうまでさせる恐怖の権化、春に対してすぎるメタ特攻を持った男を、春自身は、劇場のうしろのほうから眺めるような心地で認識していた。こうして遠くから見ると、叔父は小さい。実際小さく見えているのだが、そして実際特段身長が大きいわけでもないのだが、今の春にとって、かつて世界の恐怖のすべて、世界の不条理のすべて、また世界そのものと教え込まれた久慈川秋生は、なんだかとってもちっちゃかった。

「……先生のほうがおっきいなあ」

 ぽつ、呟いて、はっと気づいた。見回せば、日車の家の玄関であった。見慣れた安全な場所にほぅ、と息をついて、体中に血と熱が巡りだせばすぐさま全身から疼痛が訴えられてくる。見れば、ひっかいたような跡や、頭皮にぴりぴりした感じの痛みがある。きっと忘我のうちに髪の毛を掴まれて、なにかのきっかけで暴れて抵抗をして、ここへ逃げ帰ってきたのだろう。探しても、今日の夕食に買ったシャケと舞茸が入ったエコバッグが見当たらない。貴重品を入れたサコッシュだけは持って帰ってきたところは、パニック状態の自分を褒めたかった。
 我に返ってからそこまでを確かめて、今一度はふ、と息を吐いた拍子に、春は涙と震えが止まらなくなってしまった。

「……なんで? なんで、なんで今、なんで。なんでぇ……」

 制御をすっかり離れた肉体が煩わしい。思い通りにいかないことに腹が立つ。こんなこと昔は日常だったのにどうしてだ。腹立つ。うざ。キモい。なんで。嫌だ。
 今がおかしいだけなんだきっと。おれが本来いるべきはあっちだったはずなんだから。ちょっと幸せに絆されて、勘違いをしたんだ。
 悔しかった。痛感した。今の生活は針の上に組まれた緻密なジオラマみたいなもので、ちょっとの外的要因で崩れ落ちてしまう。いくらちっちゃく見えたって、あの男には、叔父には、それをやるだけの凶暴性がある。怖かった。
 玄関先で唸って震えている春の背中に、声がかかった。

「……大丈夫か?」

 声を認めて、その次にこぼれた涙が、温かかった。春は震えと涙は止まらないまま、ゆっくりではあるが滑らかに、首を巡らせた。ユニクロのショッパーを提げた日車が帰ってきていた。

「どうした? 何かあったか」
「いや……えっと……寒くて買い物やめて帰ってきちゃったから……ちょっと情けなくて……」
「……想像に難くないのであんまり踏み込みたくはないし、嫌だったら言わなくてもいい。今までこの時期どんな服装で生活してたんだ」
「ジャージとTシャツだけどぉ……」
「この土地のこの気温でその装備で生活できていたほうがおかしい。情けなくない。今が正常だ」

 日車は自分の荷物を全部床に置いてから「立てるか?」と春の肩に触れる。昔であれば二センチくらい飛び上がって怯えていただろうに、制御を失った春の体は怯えなかった。春ほどポワポワした世間知らずの弱者が今まで生きてこられたのは、ひとえに春の体が生に貪欲だったおかげに他ならない。その体が日車を拒絶しなかったことに、未だすこし遠いところでなんだかちょっと安心して、「ン」と返事をして立った。

「先生、なに買ってきたの。先生の冬コート、まえにクリーニングから帰ってきてるよ」
「俺のじゃない。お前の冬コートだ」
「えッ」

 春はマジで? と思考停止したままリビングに運搬されていて、買出しに行く前に勝手に読んでいた日車の蔵書が出しっぱなしなのが目につく。反射みたいに「ごめんなさい」と言ってしまえば、日車は「何が? お前今日ほんとにどうした」と怪訝そうな顔をした。その怪訝さのすぐ裏にあるのが心配なのをもう知ってしまっていて、心配であることを疑うこともしない自分に、「ああ俺すごい変わったんだ」と思う。
 ひと夏で、それより前のほとんどすべてが怖くなってしまった。

「趣味じゃなかったらすまないが」

 そう言って渡されたユニクロのショッパーには、これからの時期ありがたい厚手のスウェットが何着か、そして春が着るには少々シックなコートが入っていた。日車が着た方が絶対似合う。が、それを春のためにと用意してくれたことが、骨がしびれるほど嬉しい。

「ちょっと肩にあてて立ってみてくれ。目算で買ったからサイズが不安だ」
「ん……はい。えへ、うわ、あったかそう。似合う?」

 ふわふわした心地のままコートを胸におしつけて、春はくるくる回った。さっきまでのパニックが嘘みたいに元気なふりをした。浮かれた素振りをしていなければ泣きそうだった。靄がかった頭で回ったのでふらつく。そのさまに手助けをしてやりながら、日車も「思っていたより丈が余っている」と笑った。日車が笑っている。うれしい。

「すぐ伸びるからいいか」
「伸びーる伸びる、すぐ身長二メートルなるからね俺。先生の隣に立って恥ずかしくない男になるかんね俺」
「それはお前の進路次第だろ」
「だから俺ベンゴシなるもん」

 前後不覚で前後にふらふらしたまま口走ってしまって、春だけがはっとした。日車は気が付いていたようである。日車は出しっぱなしだった蔵書に一度目線をやって、再び春を見た。アレでバレたのか。アレだけでバレたのか。ベンゴシへの道のりの長さに唇の裏をちょっと噛みながら、春は日車の言葉を待った。
 その実以前一度口に出しているのだが、今になっても同じことを言った春に、日車は信じられないような顔で言う。

「……なんでそんなにベンゴシになりたいんだ」

 諦めてくれ、みたいな顔だった。こっちに来なくていい、その場にいてくれ、のような。なんでそんな顔をしてそんな事を言うんだろう。胸に当てていたコートを抱き込んで、くらくらしたまま日車に向き直る。
 日車は疲れていた。肉体もそうだろうが、きっと精神が憔悴していた。なにかのきっかけでパッキリと折れてしまえば、二度と修復できるかわからないくらい。
 世界だと教え込まれていた叔父は日車に比べたらあまりにチンケで小さかったのに、真に世界だと思った日車もまた、世界と比べたらちいさな一人の人間なのだ。小さくはないが、その双肩は世界を乗せるにはあまりに足りない。黒い魔法の鎧に包まれた肩は、疲れた顔に、春に勉強を教えてくれる魔法の手につながっている。
 春がこの世界で愛してやまないものにつながっている。

「……まだよくわからんけど、先生お仕事めっちゃ大変でしょ。俺、先生に大丈夫にしてもらったから、今度は俺が先生を大丈夫にしたい。俺の先生がそうみたいに、先生の大丈夫に俺がなりたい」

 きっとベンゴシの仕事は、春が知らない大変なことばかりなんだろう。だから日車は疲れているし、そんな世界に春を来させたくもないんだろう、まではわかる。けれど、これは日車の貸してくれた辞書にあった「掃き溜めに鶴」と同じ話なんじゃないのか。春は思う。いる場所が良くないからって、そこにいる自分まで良くないものだと思わなくていいのだ。春は日車にそう伝えたい。が、言葉が思いつかない。

「……大丈夫、先生。俺は大丈夫だから、先生も大丈夫んなって」

 これ以上に言葉が思いつかなかったので、春は行動に出た。日車が春にしてくれるなかで、春が一番「おれ今だいじょうぶだ」と思えるもの。
 抱き込んでいたコートを肩にかけてやり、頭を撫でた。
 裁判が始まるにあたって初めて会ったとき、食べ過ぎてあっけなく吐いたあと、日車がしてくれたことだった。その時だけじゃなかった。日車は折に触れて「偉いぞ」とか「頑張ってるな」とか言いながら頭を撫でてくれたり、体を気遣ってくれる。春にはそれが大変に嬉しくて、その積み重ねが春に「おれ今だいじょうぶだ」と思わせていた。だから、やった。
 春ほどではないが時折ちょこちょこ毛先のはねる短い髪は、さらさらしている。それだけのことが無性に愛おしくなってしまって、春は精一杯のびあがって日車の頭を抱き込んだ。

「先生、すっげー疲れた顔してんよぉ。疲れたねぇ、お疲れ様ぁ。いつもありがと。今日はもう休んじゃおーよ。誰も怒んないし、怒る人がいたら俺がコラーッて言うよお」
「……ふは、お前」
「なぁに、どしたの」
「こんなマセガキに育てた覚えがなくて」
「先生の背中見て育ったの。マセガキがよくわかんないけど、俺がマセガキになったのは先生がそぉだからじゃね?」
「はは。ははは、そうか。そうかよ。言うようになって」

 日車のほうが諦めたような仕草で、コートごと春を抱きすくめて、しばしゆらゆら揺れていた。抱きすくめられたままの春も一緒になってゆらゆら揺れて、頭がふわふわしているのも相まって楽しかった。昼間のことが夢かと思うくらい。
 嬉しくて心地よくて、何故だか震えがぶり返した。震えていてもまだ楽しくて、ふわふわして、今一度命の使いどころを得た歓喜はこれほどかと思う。春はふらふら笑って揺れる。

「大丈夫か? ふらふらして」
「先生が揺らすからあ。へへ」

 日車はひとりで世界を支えられるほど大きくない。その腕にすっぽり収まっちまう自分は、それよりもっと小さい。けれど、取るに足らない小さな春の、有り余るほど大きな夢は、今ちょっとだけ果たされているんだろう。
 春は「だいじょおーぶ」と笑った。それを聞いて、日車が少し訝しげな顔をして笑った。日車が笑っている、嬉しい。

「大丈夫じゃないだろ。お前また熱出してるな」
「あへへえへえへ。そうなのぉ? 楽しーい。平気だよ」

 動ける動ける、なんなら調子いいよぉ。夕飯を支度しにキッチンへ向かおうとする春と、冗談はその小綺麗な顔だけにしろ、と止める日車が押し合いへし合いしている。
 今までさんざ思い知ったことを忘れていただけだ。世界は厳しいのだ。それを思い出しただけなのだ。
 思い出したとて、日車がいれば大丈夫だと思えた。日車がいれば、なににだって立ち向かえると信じられた。
 結局その日はかんたんな雑炊を日車が作ってくれて、春は吐かずに食べきって眠った。
 とんでもねえ悪夢はしっかり見た。
 心根の底まで叔父の躾の跡が残っていることに絶望しながら、日車がくれたコートを抱いて眠る。
 日車が語ることすら嫌がるような死出の道を往くのだ。けれど、いつかこのコートを日車のスーツと同じような魔法のコートにするのだ。そのために必要なことだと思って、なんとか眠ったふりだけはした。



M12 ベテルギウス


 
 食卓に椅子はあるのに、日車と春は向かい合って床に正座している。
 両者の膝の間には封筒が置かれていて、双方小声で「お前が開けろお前のだろ」「やだ先生開けてよ」と言い合っては、双方「ムニ……」と黙るのを繰り返していた。

「……これができなきゃ弁護士にはなれないぞ」
「うわあ! 一番ずるいじゃん今それぇ! いやあー。んええー」

 弁慶の泣き所を鉄パイプフルスイングでぶん殴られるような心地だった。経験があるのでわかる。しばらくは痛いこと以外の何もわからなくなるくらい痛いのだ。
 春は頭を抱えてムニャムニャ唸った。そう言われてはもう何も言い返せない。冬の盛りをすこし過ぎた二月、日暮れ。二人の間に置かれた封筒は、春の思う最強の魔法使い「ベンゴシ」の第一歩、日車が思う死出の道行きの第一歩になるかならないか、高校編入試験の合否が入っている。
 開けたくなかった。給与明細を見るよりよっぽど怖い。春は虎の子の諫め文句を言われてもなお二の足タップダンス状態で、二進も三進もいかなかった。
 随分長いこと唸って、春は封筒をエイヤッと開けた。一番最初に斜め読みした書類は、きっと正気で読んでも意味が分からないタイプのもの。記入欄があることだけはわかったので「これ多分先生が書くやつ……」と押し付けて、自分が読んでも意味がわかりそうな書類を探すことにする。
 ええいわからん、これか、と覚悟を決めて一枚読み始めたところで、向かいに座る日車も怪訝そうに読み上げた。

「成績単位取得証明書……?」
「本学への入学を許可します……?」

 示し合わせたようにばっ、と顔を合わせたが、春は書類の意味を「入学って書いてある」しか理解していない。入学って書いてあるけどどういうこと? と訊こうと思って、しかし遅延している頭では音量の加減がバカになっていた。

「どういう意味ぇ!?!?」
「パニックになるな、高校行けるぞってことだ。やったな」
「こ、ぇえ!? ほんと!? マジで言ってる!? 天地神明に誓って!?」
「お前なんでたまに出る言葉が四角張ってるんだ」

 日車がそう言うならそうに違いないのだ。どうやら春は、日車の薫陶を受けて高校編入試験に合格したらしい。
 隙間風みたいなうめき声を何種類かずつ上げて、春は書類を丁寧に置いてからごめん寝のポーズを取った。これは当時の春が叔父をやりすごす時のいわゆる「対ショック姿勢」である。同じくらい衝撃が強いのに、体はちっとも痛くないし、心臓のばくばくだって嫌なものじゃない。叫びだしそうなくらい嬉しいけど、同じくらいなにかが寂しい。この姿勢を取らないと叫びだしてしまいそうで、春は出来る限りギュギュ、と小さくなった。
 日車がしずかに書類を仕訳けてくれている最中、ギュギュ、と音がする。春が小さくなろうとする音ではなく、腹の虫の音であった。これらの書類が入った封筒は昼頃には届けられていたが、ひとりで開けるにはあんまりにもおっかなくて、封筒を持ったり置いたりしながらウロウロし続けていたら日車が帰ってきた次第である。それだけの間何も食わずウロウログルグルしていて、日車に「お前合格したぞ」と言われたもんだから緊張が切れたらしい。

「めちゃんこ腹減ったけどなんも支度してねえや……米も炊いてねえ」

 呟いて、日車がそれならというふうに上着を手に取る。焦った。失望されたかと思って。春は抱き込んでいた自分の頭をパッと上げて、つとめて朗らかな声を出した。

「え買うの? どこ行くの。昨日あっちのほうのスーパーで豚バラ安かったから買ってあるよ。ちょっとくれたら何か作るから待ってえ」
「随分遠出したな? いや飯行くぞ。行きたいとこ言え」
「えぇえ? いいよ作るってぇ。なんにしよ。アスパラとか巻く?」
「お前がそうやって今までさんざ食費支えてくれてたおかげで、今までかけてた分の食費がほぼ丸ごと浮いているんだ。今日こそ還元されるべきだろ。いや食費だって本来お前に出させるべきではなくてだな」
「あそれ長い?」
「長くしていいならいくらでも長く小難しくできる」
「じゃあやだ! やめてメシいこ。えへへ、人にメシ奢ってもらうの久々だあ」
「前だって給料の現物支給みたいなメシだったんだろう」
「十分じゃん。働いてメシ出してもらえんだよぉ?」
「そういう……いや長くなるな。上着出せ、どこ行きたい?」
「今度こそ白ごはん!」
「普段食ってるだろ。吉野家だな」
「そこ回らない寿司じゃないのぉー!? 白ごはんだけど上に茶色いもんぶっかけてんじゃん! なんでよぉ」

 ワギャ! と騒ぎはしたが、春はいそいそと上着を羽織る。
 日車のいうとおり現在この家の食卓を支配しているのは春で、つまり懐事情もよく知れている。来週なら回らない寿司屋もワンチャンあったかもしれないが、現状は野菜室のストックをうまいこと使いながら日数をしのいでいる状態だ。
 春は全然買い物行けばいいじゃんと思うが、毎回買い物のレシートの提出を義務づけられていて、毎月日車が決めた金額をちょっとでも超えるとその分はかならず返される仕組みになっている。しかし日車が「支えている」と言うように、すべてを春が負担しているわけでは一切なく、日車も買出しやら何やらちゃんとやるので(特に酒はまだ春に買わせられないので)、正直納得いってない。ぼちぼち短いとも言い切れなくなってきた同居生活のなかで冷蔵庫管理を任せてくれる場面も増えたし、働きに出ている間の冷蔵庫内のことは日車も流石に把握しきれてないだろうと思うので、日車の知らないうちに調理をしてしまう抜け道も見つけたりしているが。
 それに。
 それに何より、春は牛丼屋がわりと好きだった。暴力にさらされて随分薄れてしまったけれど、実母と実父との記憶の中のそのひとつ。遊園地の帰りはいつも牛丼屋のカレーだったのだ。今でも一番好きなのは母の甘い卵焼きと、父が週末作ってくれる焼きそばであるが。

(転換)

 好きなものを食え、と言われたので、春は大喜びしてカレーを頼み、あれもこれもトッピングして食べたが、半分ほど食べたところで腹いっぱいになってしまった。残りは日車が食べてくれたが、その前に一人前ちゃんと食べたところに春がアホの量にしたカレーの残り半分を食べたので、二人そろって食べ過ぎでぐんにゃりしたまま店を出た。
 店を出た二人に、二月の冷気が吹き付ける。今までであれば骨まで痛むほどだろうが、今は日車がくれたコートがある。これがあればこんなに冷え込んでも骨が痛くない。コートとして以上に、日車の魔法の強さを実感する。日車はマフラーを巻きなおしてから顔をしかめた。

「なんでマフラーしてないんだお前」
「こんないい上着もらったらこれだけでイケるってえ」
「縮こまってるのにか?」
「え? これ怒らりる空気?」
「怒らりる空気だ。もう金に不便してないだろ防寒具買え。どんなにダサくなってもいいなら俺が勝手に買うぞ」
「ゆーて先生がくれた上着めちゃアゲじゃーん! 先生の見立てならかっこよさ確実だよお。あでも高いの買うんじゃない? じゃあやだ。今度自分で買う」

 わはは、と笑った。笑ったぶんの息を吸って、ふと上を向く。星がきらきら瞬いていて、きっとあれにも名前があるのだと思う。春にとってこの世で一番すべてに詳しいものはウィキペディアで、その次が日車であった。星を指さして「あれなぁに?」と訊けば、日車は「ここから見えて空にあるものはぜーんぶ星」と雑に答える。そういうことが聞きたいんじゃなかった。

「冬の大三角、その右がオリオン座だ。さて問題、冬の大三角はプロキオン、シリウス、あとは?」
「べ、えー、べ。ベテルギウス」
「一番明るいのは?」
「シリウス」
「正解」
「うぃ〜!」

 日車は聞きたかったことを教えるにとどまらず、春に学びも与えてくれる。そういうところが好きで好きで仕方ないのだった。春は小躍りしながら理科のワークに「光年」という言葉があったのを思い出して、その意味も思い出して、ふと小躍りを止めて日車の袖を引いた。

「あんさぁ先生、最初にメシ連れてってくれる前に俺に言ったこと覚えてる?」
「覚えてない」
「俺も全部ちゃんと覚えてるわけじゃないけどさぁ、俺みたいなのを助けるために司法があって、先生はそれに魂を売ったから、俺が幸せにならないと困るっつって」
「ああ、あったな」
「んでさ、俺がわかんなーいっつったら先生そのうちわかればいいし、わかんないでもいいって言ったんよ」
「今はわかるか?」
「今も全部はわかんない。でも、ほらあれ、何光年だっけえ、めっちゃ遠いじゃん。でも俺らに届いてんの。たぶんあれと同じ分り方をすんのかなって思った」
「詩人だな」
「先生が最初に和歌詠んでくれたからねえ」

 かかる世を心憂りて仰ぎ見ば、火より眩しき雪ぞ降りける。あの歌の意味はまだわからない。けれど、きっとすごく綺麗なものを詠んだんだろうと思う。春は、歌を詠まれたあの日から今日までを想った。
 俺、こんなことまで考えられるようになったんだ。もうあの頃とは違うんだ。あの家にいたころにはもう戻れないんだ。家とも呼べないあの小屋は、春にとってすっかり家ではなくなった。
 だからこそ、もうここにはいられない。
 スーパーで叔父に遭遇して以来、外出時の警戒レベルが跳ね上がりすぎているせいか、おかげか。それとも。
 近辺で叔父を見かけることが増えた。あれの執念深さといえば、春がこの世で一番思い知っている。気づいた瞬間踵を返して逃げているし、見つかろうものなら人気の多いところを通りながら大きく何重にも迂回とブラフを噛ませて逃げている。が、きっと叔父は確実に春に近づいている。
 つまり、日車の家に近づいている。
 この家を離れなければならなかった。愛する人を危険にさらしたくなかった。誰かのヒーローになりたかった。
 日車は、春に言ったことがある。

「……約束する。お前が触法しない限り、例えお前が悪魔だろうが俺はその手を取る」

 今からしようとしていることは触法、するだろうか。今の春にはまだわからない。まだわからないけれど、絶対に日車をびっくりさせて、もしかしたらがっかりさせて、きっと失望させることだろうと思う。
 それでも。その手段を選ぶほどに、久慈川秋生は必ず春を簒奪しに来る。なので。
 春は嘘をついた。

「あんねえ、今日俺にもぉ一個封筒届いてんの。入所できる養護施設決まったよ。俺、先生んち出ます。おうち帰ったら書類書いて欲しいの。始業式までまだあるから、おゆはんは作りに来るねぇ」

 昼前に高校から封筒が届いて、どうしようかとウロウログルグルしていたのは本当だが、それだけじゃなかった。
 偽装書類を作っていた。実在する児童養護施設の名前を勝手に使い、ありとあらゆる形式を調べ、また日車の仕事上の書類と見比べ、きっと日車が見てもバレないだろう入所の書類を偽装していた。
 日車は素直に事情を話せば絶対に春を背後にかばって矢面に立とうとするし、下手に隠し立てしても隠し通せる相手ではない。なんたって魔法使いだから。だので、日車にこの件に手を引かせるか、手前で落としどころを見つけられるまで首を突っ込ませないように、公的な書類に見せかけた紙ぺら一枚をウンウン唸りながら作ったのだ。
 講じておいて損はない程度で済めばいいが、そうまでしても日車を危機から遠ざけられるかはまだ不安が残る。
 何より、日車に魂胆がバレてしまえば素直に終わりだ。嘘もついたし、公文書? も偽造した。これに関しては間違いなく日車が言うところの「触法」であろうと思う。
 春はどきどきしながら日車を見た。
 日車はびっくりした顔をしている。そぎ落としたような頬が街灯の明かりに縁どられていて、光が吐く息に当たってぼやける。きれいだな、と思った。

「……ベンゴシになるのは大変だぞ」

 そんなこと思ったことないくせに。いくら春とて、高校編入試験に受かるほどの頭にもなれば弁護士資格の試験がどれほど難しいかはわかるし、日車がそれらを全てストレートで突破したことも知っている。けれど、みそっかすの蟹ミソくらいの頃から春を見てきた日車にとっては、これから日車と比肩するまでの苦労も推し量れるのだろう。日車は春の立場に立って言っている。この期に及んであまりにも優しい。騙されているとも知らずに。春は心臓がぎゅ、となる音を聞きながら応える。

「ん。それはもうわかるようになったよ、先生ほんとにすごい人なんだねぇ。マジの魔法使いじゃん」
「何の話だ?」
「こっちの話。ちょっとだけ先生から離れるけど、辛いときも泣かないでねえ。俺は大丈夫だから、やりたいことやって」
「それはお前だろ。わからないところがあったら聞きに来い。教えてやるから」
「まだちょっとだけ先だけどね! えへへ、やっぱちょっとさみーや、早く帰ろ」

 書類を実際に見せるまでどうなるかわからないが、現状日車は春の言うことを信じてくれているらしい。ほっとして、しかしまだ気は抜けない。精一杯いつものアホでバカで元気と返事と威勢ばっかりはいい春を演じて、日車の周りをグルグル回りながら手を引いた。
 日車のくれたコートは断熱性こそ優れているが、心根が冷え切っているのを温めてくれはしなかった。冷え切った手が緊張によるものだとバレないように祈るので精いっぱいだ。精いっぱいだけど、それ以上に。残り少ない時間をありのままにいたかったし、多少無茶をしてでも、日車に「こいつもう大丈夫だな」と思ってもらえなければ、家を出られない。探されたら元も子もないので。
 器用に雪道で細かくステップを踏みながら、春は考える。日車の元を去るとき、まず何一つ残さない。すべて取り払って持ち去って、自分が来る前の状態に戻さなければいけない。
 そのうえで、叔父との決着をつけるまでに、何を手放すか。最後まで手元に置いておかなければいけないものは何か。
 愛だけは、死んでも手放したくなかった。
 今や、母の遺した手紙よりも。




M13 MYRA

 さほどゴネたつもりもないが、春がねだれば日車は思った以上にあっさりと共寝を許した。積雪もそろそろ落ち着いてくる季節、つまり冷えの下限。気の許せる生きた人間を湯たんぽ代わりにできたならそれほど助かる話もないのだ。
 雪国の朝は遅く、夜は早い。それにしたって普段より早く目覚めた春は、隣でこちらを向いて眠る日車の寝顔を見ていた。
 春の顔の前に投げ出された手にそっと指を絡めて、長いまつげごしに見る顔は、寝ていてもきれいだ。
 日車と一緒に寝るのは、これが最初ではなかった。最初に共寝をねだった時は、自分は床に寝るものだろうと思ってスタンバイしていたら「異文化交流か」と呆れられた。これもずいぶん昔の事のように思える。
 いつのまにか当たり前の二歩手前みたいになっている共寝も、今日が最後だ。今日春はこの家を出る。
 この瞬間が失われるものではなく、すこしの間だけ手の届かないものにとどまってくれることを祈った。春は日車が投げ出している手を、指先を、たこを、爪を何度も撫でて、涙が浮かんでこないことに安心した。
 けれど、あと五分こうしていたかった。

 業腹だが、最初の何日かはラブホに潜んだ。いい思い出なんか一個もないが、いつまで続くかわからないので出費はなるべく抑えたかったし、夕飯の支度を約束してしまった手前、荷物をどこかに置いて出かけられるほうがありがたかった。春が家を出てから向こう、日車は大層忙しいらしく、ろくに会う機会もなくなったのでおよそ杞憂となるのはまだ知らなかったが。
 荷物を減らし、場所を変えては潜み、そんな生活をしながら、さてどうすればあの邪悪を日車から決定的に退けられるか、春は考える。
 あれは近づくだけでどっしり疲れる、呪いのようなものだ。かといって純然たる呪いでもないので、塩をぶつけたところで逆上されるだけである。フィジカルは弱いが執念がぶっ壊れている。一度そう決めたらどれだけ時間がかかろうが成し遂げる男だ。こう書くと聞こえはいいが、実際成し遂げてきたことといえば恐喝とか恫喝とか、気に入らないことを言って来た人間を破滅させるとか、気に入った女を抱くとか、気が済むまで豪遊するとか、もうそういう次元の話だ。熱意の向けどころが終わりなのである。
 あれを、どうすればいい。どうすれば日車に近づけることなく、できれば塀の中へ押し込められるだろう。塀の中へ押し込めたとて、一年や二年で出てこられては困る。どうすれば……。
 放浪を始めてから、春の生活はルーティンと化した。起きる。荷物をすこし処分する。ホテルを出る。図書館かネカフェに入り浸って知恵を探す。スーパーで少々買い物をして、日車の家へ行く。日車の夕飯を支度し、自分もタッパに少しもらう。会えることは稀なので書置きをして家を出る。夜半まで空いている飲食店をふらふらして、明け方ホテルに戻る。休憩料金の時間だけ寝て、起きる。
 日車にすっかりとろかされた体には、案外堪えた。一週間くらいで「今日もうほんとちゃんと寝ないと死んじゃうな……」と宿泊をキメたが、回復率が段違いで驚いた。あの頃とは変わった変わったとは思っていたが、マジであの頃の暮らしをもう一度やるには体が追い付かない。
 ラブホはシャワーもついてたので、これが何よりありがたい。タイミングが合わなくなっただけで、日車の家に上がるのだし、なんならタイミングさえ合えばエンカウントはする。明らかに浮浪者の恰好をしていたら怪しまれるだろうと思う。シャワーを浴びながら、春は自分の体を見下ろした。傷跡こそあちこちにあって薄く浮かび上がっているが、どれも入浴してやっとほんのり、といった具合だ。
 この半年強、日車は一切春に手を出さなかった。当たり前のことであるが、春はそれが当たり前だと知らなかったので、今なお驚いている。こんな場所で連泊したり仮宿扱いをしているのも相まって、どうにも思考はそっちに引っ張られがちだ。隣室が今まさに盛り上がっているし。未だに自分の価値を見つけあぐねているし。
 日車には、何を捧げてもいいと本気で思っているし。
 春はこの半年強ですっかりきれいに生っ白くなった腹を見る。人肌よりすこし高いくらいの湯はひっかかりもなく流れ落ちる。

「……俺、先生になら抱かれても良かったよ。使い古しじゃイヤかもしんなかったけど」

 それまで叔父や見知らぬ中年に体を触られることが暴力であることを、十分に犯罪であることを教えてくれたのは日車だった。だから日車は手を出さなかったのだろうし、触法しない限り味方でいると約束してくれた手前、春もねだらなかった。それでも、今でも、本気で全て日車のものにしていいと思っている。まだベンゴシになれていない手前、そのくらいしか自分に価値はない。
 隣室の客はシャワールームで二回戦を始めたらしい。厚くはない壁ごしの声が先ほどよりも大きいのが、日車のことを考えているときに邪な気持ちがカットインするのが何だか嫌で、春はシャワーを止めてベッドに寝転がった。
 ダブルベッドは広い。体躯の細っこい春が大の字で寝てもまだ余る。ここにあってほしい温もりは、今は触れ合えない。

「せんせえ、触ってくれたのは手と頭とかばっかだったねぇ。俺ぜんぶあげてもよかったのに」

 何度も思ってきた、「ぜんぶあげてもよかった」である。口に出すのは案外はじめてで、そのたどたどしさに春は笑いそうになる。こんなんじゃベンゴシなんてなれるもんか。よどみなく紡がれる日車の言葉には程遠かった。
 そう思って、そういえばすっかり湯冷めしてしまったので驚くほど寒い。春は日車がくれたコートにくるまって横になる。まだ寒い。というより、寂しかった。
 ずっと考えている。どうすれば日車をあの邪悪から守れるだろう。気づかないうちにほたほたと頬を濡らして、春は眠った。
 夢の中で、日車と会った。日車は読み取りづらい笑顔を浮かべていて、しかしそうとわかるだけで、はっきりは見えてこない。ぼやけた顔で笑う日車は春を痛いくらいに抱きしめて、いつかみたいに揺れながらとっくり説いてくれた。

「偉いな。頑張ったな。いい子だ。ありがとう」
「せんせぇ、ごめんね。違うんよ。俺が聞きたいのはそれじゃないの」
「ああ」
「ねえやだ。せんせぇから言って」
「春。ふふ、春雪。なあ」
「なあに」
「お前を愛してる。俺もまだわからないが、きっと世間はこれをそう呼ぶんだろう」
「そうなの? 俺のこれも「愛してる」なの」
「お前がそう思うならきっとそうだ」
「せんせぇが言うならそぉだね」
「なあ、ここにいてくれ。ここにいてくれ、お前がいないのは堪える」
「俺も。忘れたことないの。ずっとせんせぇのこと考えてる。いっぱい幸せになってほしくて。考えるたんびに苦しくて」
「ふふ。高尾太夫。ああ、よくは知らんがお前も同じだ。きっと世界がお前を放っておかないぞ。だからここにいて欲しいんだ」
「えへへ、せんせぇ今駒形にいんの? 遠いねぇ。そっくりそのまま同じこと言うよぉ、きれいなのはせんせぇなんだから。世界にバレちゃう前に俺だけのせんせぇになって」
「尽きない」
「そうだね」

 痛いほどに抱きしめられているので、春から日車の顔は見えない。けれど、日車の声が、今まで聞いたどんな声よりも湿っていて、ああ、ふふ、俺も同じ気持ち、胸の奥からじゅわじゅわと痺れる心地がする。
 口惜しいが、春は日車の抱擁をすこし辞して、高いところにある顔を両手で包んだ。まだぼやけている。

「なぁ春、帰ってきてくれ。元より手放した覚えすらないんだ」
「せんせえが俺のこと好きって言ってくれたらいいよ」
「好き。何にも代替できないほど。世界中の誰よりも何よりも」
「ふふ。ふふふ! えへへへ」

 嬉しい。嬉しい嬉しい、しんどい! 春は自分の不勉強を呪い、世界を呪い、日車を呪った。
 どれだけ言えば伝わるかがわからないのだ。ちゃんと言うにはあまりに時間と環境がないのだ。夢の中ですら、日車は素直になってくれないのだ。
 きっとこれが本当に最後なのに、まだちゃんと言ってくれないのだ。そりゃ呪いもする。春とて今やちゃんと人の子である。
 春は包んだままのぼやけた日車の顔をぐいと引き寄せて、鼻にかみついた。大きな鷲鼻を噛んで、額に歯を立てて、頬に嚙みついて、唇に唇を押し付けて離れた。

「嘘つき!」



 目覚めた。薄着で寝落ちたせいで体は芯まで冷え切っていて震えっぱなしだ。あれだけ心から痺れるほど温かい場所にいたのが嘘みたいだった。実際夢なので現実ではないのだが。
 コートを抱きなおして起き上がる。
 嘘つき、と言ったのは本心だった。もうとっくに気づいている。日車が世界で一番、誰よりも何よりも愛しているのは法とシステムだ。あるべきものがあるべきところに置かれる仕組みをこそ何より愛している。きっと春のことも愛しているのだろうが、それは法に殉じようとするのを諫めたことがないからだ。
 それならそれでいいのだ。そう言ってくれればいいのだ。あの夢は、ほんとうにきっとあれで最後になる。根拠のない強い予感が春にはあった。だから最後にちゃんとフってほしかった。お前と一緒にはなれないと。

「……ふふ、せんせぇのいじわる。本当にせんせぇだったの? 疲れたよ。ぼやけて見えなかったし」

 半渇きで寝たせいであっちこっちふわふわしている頭を振って、それでも、最期に笑ってくれていてよかったと思う。よくは見えなくても、笑っていることがわかって良かったと思う。
 体の震えはまだ止まらない。煩わしい。面倒くさいし、もういらない。日車を守れるなら、日車のためならなんでも捧げられると、今なおマジで思っている。
 春は身支度を整えて、充電していたスマホから配信アプリを立ち上げる。思ったより久々だ。
 日車の家にいる間も頻度を落として行っていた配信がぱったり途絶えたので、熱心なリスナーは心配してくれているようだった。配信告知のツイートをすれば、思っていたよりもすぐに反応が返ってきた。
 いい兆候だ。
 配信はまず今日の夜半。日中でできるかぎり準備を進めて、今日からことを始める。
 準備のための買出しに利用する店舗を頭の中でリストアップして、まず薬局に決めた。ここしばらくサボってしまったので、スキンケア用品を買いに行く。
 日車すら褒めてくれた顔だ。使わない手はなかった。



M17 promise(リプライズ)


 位置情報保護なんかは全部切った。
 叔父はなんだかんだインターネットはよく使う人間であった。バイトを詰め込みすぎたり、シンプルに逃げられて春が捕まらない間は掲示板で声をかけて家に連れ込んだりもしていたので、地元に関しては土地勘も相まって強い。
 現実では案外近くにいることはもうバレているし、もう捜されているはずだ。
 ならば、ネットを介して釣る。

『ネットリテラシー死んでるじゃん やめなよ危ないな』
『しばらく見ないうちにどうしたの? 出会い厨にでもなったの?』
『うわマ? こわ』
『絶対アーカイブ残すなよ』
『配信止めろ』
『やめろって またネットきっかけで裁判やるつもりかよ』
『一生ネットの晒し者に自分からなっていくのか…たまげたなあ…』

 もともと状況から国選弁護士に弁護を依頼する豪のリスナーがいる。日車のほかにもう一人欺かなきゃいけない人間がいるのはかなり頭を使ったが、春は「おさんぽしてます」のていで、配信をしながら現在地をどんどん口に出した。
 もちろん日車の自宅からは程遠い場所ばかり。まかり間違っても二度とあの家の近くで配信はできない。ましてこんなやり方をしていて。
 仮宿にしているホテルを中心に、行動範囲を露呈させる。地元の人間なら「ここからこのあたりだな」とわかる範囲で、加えて時間帯をなるべく固定する。かつ、人気の多い場所を選ぶ。あの男なら、きっと人がいようがやる時はやる。どれだけの人がそうしてくれるかはわからないが、叔父がやりそうなことが起きれば、100人いれば2人くらいは通報ぐらいしてくれるだろうと思うし、100人のうちさらに5人くらいは動画を撮るだろう。自分に依らない悪事の証拠を残し、叔父を塀の中へぶちこむ。
 さもなければ、刺し違えるしかない。そう思って、春は常に果物ナイフを携行している。

『どうした? 本当に何があったんだよ。相談のるぞ』
『元から生活相談板の配信みたいなもんだったじゃん 言えよ 乗るから』
「んーやだ。なんもないよ、約束したもん大丈夫だって。だから大丈夫なんだよ。大丈夫にするんだし」
『あかんやつやこれ』
『前に弁護士呼んだリスナー見てるか?』
「ほんとに何もないんだってばあ! なんだろね、すっかり幸せになったから口ゆるんじゃったのかな。みんなも甘いもの飲みなよぉ。俺スタバの新作飲む。駅の中のスタバ、店員さん優しくていいよね。南仙台からだったら電車代なんぼかかるんだろ」
『だからよぉ』
「んへへへへ。ごめんねぇ。この枠はいったんここまでー、また夜にねえ」
『ほんとに場所が割れる告知ツイートするなよ』
『おつー』
『わこつ』
『死に急いでる感怖すぎ』

 何度諫められても止めなかった。手段を選んでどうこうできる相手ではないのだ。
 とはいえ、疲れた。
 雪国の除雪問題は根が深く、道路沿いに家を構える住人は車道と歩道の境に雪を捨てるしかないので、めっぽう視界が悪いし、時折近所の小学生が雪山に上って遊んで車道に転げ落ちるだとか、ゴミを中に埋めていくひとがいるだとか、治安の問題と直結しがちだ。つまり、地域にもよるが積雪も落ち着いてくるころの歩道はもはや獣道で、人の足で踏み固められたところを歩くしかない。横断歩道にアクセスできない場所すらある。
 春は交差点の横断歩道をがんばって歩きながら、もういっぱいいっぱいだった。天気はさほど悪くないのにこうも視界が悪くては、歩道を曲がった拍子に叔父と出くわすのに気づけない可能性だってあるのだ。覚悟も準備もしているが、それはそれとしてできれば一生のうち二度と会いたくない人間である。これを乗り越えれば二度と会わなくていい、それだけが今は春の拠りどころだった。
 耳を澄まして、感覚を研ぎ澄ませて、形容しがたい感情の波が押し寄せるのにぐっとこらえて耐える。きっともうすぐだ。

「……会いたく、なっちゃった」

 北国の昼は短い。三時前にしてほの暗い日車宅で、春はポツンと漏らした。久々に訪れたが、やはり家事に手が回っていない。それだけ疲れているのだろうと思う。
 手には日車が残してくれた書置きがあって、「冷蔵庫にケーキあるから食っていけ」とある。端の方に「貰いものだから遠慮するな」と。絶対嘘だ。日車が顧客からもらうのは謗りばかりで、多少のねぎらいを形としてもらってきたことなんかなかった。知らんけど。
 買って用意してくれていたのだ。日車が。春のために。
 そのことに春は苦しくなってしまって、マイバッグを落としてしばし立ちすくむ。
 ここから動きたくない。
 ここに帰りたい。
 ここで「おかえり」と言いたい。
 叔父を前にして、恐怖をきっかけに起こる「意識のズレ」とは、また違うズレ。
 日車に、ただ会いたい。心がこんなにも叫んでいる。
 春は骨まで痛むほど、日車に会いたくなってしまった。夢の中じゃなく、現実で抱きしめられたら。もう一度頭を撫でてくれたら。どんなにか幸せだろう。
 それでも。
 骨まで痛むほどに逢いたくても、自分の幸せよりも、日車が幸せな方がいい。
 春はグズ、と鼻をすすって、書置きを大事そうにテーブルに戻す。涙で濡らしてしまってはいけないし、大切なものがまた増えてしまってもいけない。どんどん臆病になっていく気がした。

「おい、おい見つけたぞ、見つけたぞ! おい!」

 惜しむことがあるとすれば、それはすべて本来惜しむべきではない。家に帰ってきてすぐに鍵をかけていないだとか、人の家だろうが平気で上がり込んでくる人間に付きまとわれているとか、そうあることではない。まして疲弊しきった春にそこまで強いるのは痛々しい。
 が、すべて春がやったことだった。あの男が、叔父が、久慈川秋生が、そこにいた。
 久慈川秋生は土足のままズンズン春の方へ迷いなく向かってきて、迷いなく春の髪を引っ掴んで、迷いなく全力で床に投げつけた。当時より多少健康状態の良くなった体とはいえ、元が死にぞこないのような体躯であった春は、壁に爪を立てたくらいでは当然抗いきれず、背後にあった本棚も巻き込んで倒れ、まんまと床に頭を打ち付ける。久慈川秋生は何度も何度も春の頭を叩きつけた。そうすることしかできなくなる呪いにかかったみたいだった。
 しばらく繰り返して、次の「娯楽」を思いついた叔父が春を引きずって部屋を出る。
 比類なき暴力。春はここにきてやっと、自分がやろうとしていたことがことに気付く。
 刺し違えるとは、死ぬということだ。
 自分はいま死のうとしている。日車のために。
 気づいても、怖くなかった。そうか、そうだよな。死ぬんだ俺。でもいいや、なんか、怖くなかった。
 日車寛見にたとえば呪術師の才能があるならば、その薫陶を受けた春もまた、頭のネジが飛んでいる。


 橋を渡って曲がったらまっすぐで、せんせぇんちがある。だので、この橋はけっこう好きだった。はずだった。
 橋脚の影で、久慈川秋生の影で、春はごろごろ息を吐く。なけなしの果物ナイフはさっさと奪われて、逆に滅多刺しにされた。五体で穴の開いてない場所がどこもない。体を巡る血潮は痛みに燃えていて、それが延々流れ出るのだから気温どうこう関係なしに春の体はどんどん冷える。
 この世で考え得る素手と肉体による暴力をほとんど受けた。まともに動くところなんて、もはや心すら残っていなくて、春は雪の上に四肢を投げ出したままごろごろ息を吐いている。
 久慈川秋生はまだ何か言っている。もうその熱意と語彙を原稿用紙にぶつけて出版社にでも持っていったらいいのに。それができないのがこの男だった。春はかすんだ目で叔父を見て、ちょっとおかしくなる。

「何がおかしいってんだ。お前今笑ったか? 舐めてんのか? 舐めてるだろ。ふざけるなよ」
「……ふ。ふふ、やっぱちっちゃい……」

 言うや否や、再び目もくらむような暴力の雨が降る。叔父は性的な話だと思っているらしい。あることないこと言っているが、春が口にしたのは人間の話だった。
 世界をその肩に乗せたような、疲れた男。そのくせ、こちらに「大丈夫か?」なんて言う。大丈夫じゃないのはそっちだろうに。そういう男だ、日車寛見は。
 それにくらべて久慈川秋生はどうだろうか。小汚いだけのカスだ。命に優劣がつく世界があるとしたら、法を破ったものが物理法則のように罰せられる世界があるとしたら、真っ先に粉々になっているだろう男だ。
 これのどこが怖かったんだろう。春はもはや痛みも遠のいたので、落ち着いて考えることができた。いや話の通じない暴力が第一母国語の人間はとっても怖いが、今なお春にとって一番怖いのは日車がこれに害されることだった。
 人は集められなかった。けれど、配信アプリはなんとか立ち上げられた。通知なんかの音は来ないようにしているので、画面を見なければそうとはわからないが、久慈川秋生に春のスマホを、まして雪に埋まりかけているスマホを気に掛ける余裕なんかありもしない。そしてこの男は頭がおかしいので、人目を忍ぶ場所にいるのに大声で罵倒を繰り返す。その音量なら埋まりかけでも平気で拾えるだろう。証拠は遺せた。一生ネットの晒し者になるのは春ではなく叔父だ。
 やることはこれで大体済んだ。久慈川秋生は正気もないくせに度胸もないので、いまいち春を殺し切るに足る致死傷を与えていない。どれも早く処置しなければ助からない程度で、すぐ死に至るほどのものはまだ受けていなかった。
 これできっと、日車みたいな魔法使いが弁護しない限り叔父は壁の中に行くだろう。刑法241条がたしかそれだ。なら、自分が死ぬことが決定打になる。痛みも遠のいたとはいえ苦しいので、こんな段階まで来ていきなりチキらず、さっさと縊るなら縊ってほしい。業腹だが。
 どこまでも小さい男である。久慈川秋生は春の呼吸が小さくなるのを悟って、急に手を止めた。
 もう動けもしない。声も出せない。が、まんまとナイフを奪われて、このままちんまりと殺されるのも悔しいな。春は、実際に声になるかはこの際かまわない、と。

「ざまあみろ」

 呪った。
 初めて、人を呪った。
 悪魔の証明を覆してしまおうが、なんなら悪魔になろうが、護りたいものがこっちにはあるのだ。
 一度はじめてしまうと、止まらなかった。あとからあとから恨みが湧いてくる。開くたびに血があふれる口から、春は呪詛を吐いた。

「おばあちゃんたちに嘘ついて、俺のこと勝手にいいようにして。結局殺すんだったら、何がしたかったんだよ。いらなかったんじゃなかったの。なのになくなったら追いかけてきたの。呆れる。俺はやっと俺のしあわせを好きになったのに。おまえみたいなやつに殺されて終わっちゃうんだ」
「なんだ? 何言ってるかわかんねえよ」
「呪ってるんだよぉ。おまえ、こんなにせんせぇのこと大好きで一緒にいたい俺を殺すんだから、おまえはどんなに惨めな姿になっても生きてよねぇ。簡単に死ぬなんて許さないよ、俺のぶんも、お父さんとお母さんのぶんも、どんな目に遭っても生きのびて、全部間違ってたって思ってから死んでよぉ」

 言えたかはわからない。けれど、言い切って、春は血の塊を吐いた。叔父はびびって飛び退り、伺うように春を見遣る。あれだけやったくせに。
 体が驚くほど熱い。いや寒い。いや感覚がない。ごうごうと音がする。何も聞こえない。眩しい。暗い。何も見えない。
 ……きらきらする。
 春は母の「はるくんへ りっぱに生きてね ママより」を思い出す。
 果たして自分は立派だったろうか。これは惨めな死に方ではないだろうか。脳の中にしまいこまれていた記憶が古い順に再生されはじめて、はえー、これが走馬灯かあ、とか思う。
 記憶は今年の夏の初めに差し掛かり、そこからは怒涛の奔流が押し寄せる。きらきら眩しくて、尊くて、大好きで、愛おしい。どれだけ言葉を尽くしても足りない。だいすきな日々だった。
 この日々が紡がれた世界に、どうせ裁かれるとはいえこの男を遺して逝くのはすこし心配だ。
 不安になりはじめた春の鼻先に、冷たいものが触れる。この時期には珍しく、雪が降り始めている。

「あ……かかる世を心憂がりて仰ぎ見ば、火より眩しき雪ぞ降りける……じゃん……」

 やっと、やっと、やっと。
 やっと日車が詠んでくれた歌の意味がわかった。春はガボガボ血の塊を吐いて、笑って、ああよかったわかった、せんせぇ、おれ、と笑って。
 死んだ。
 春の訪れを待たずして終わった。