世界は炎と灰と悲劇に包まれている。
1945年、6月。ニューブリテン島。
不死の「彼」はそこにいる。
「おぅい。おぅい、いるのかい」
「彼」は草葉の陰からわずかに声のするほうを見て、発生源を認めるとすぐにまた身を伏せた。相手をするだけ無駄なのだ。
しかし発生源は、「彼」が身を潜めてから吐いたでかいため息を道標にガサゴソ近寄って来て、「彼」を認めて嬉しそうにした。
「やぁ日本語達者の異人さんよぅ。外国の話をしとくれよ」
「黙れ、なんだってお前と呑気にお喋りなんざしなきゃならねえ。異人さんって呼ぶくらいなら、お前の仲間と俺がばったり鉢合わせちまうとどうなるか、わかるだろうが! ここは静かだろうと思って来たのに」
「おれぁ役にも立たぬ歩哨だもの、誰もこっちまで来やしないよ。それにジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア、とくら」
「ちくしょう! 戦争なんかしてんじゃねえ!」
「彼」がぐわわ! と吠えると、のんきな歩哨はきゃらきゃら笑った。
このアホンダラは、ある日突然「彼」が身を潜めている川のほとりに現れた。ボケらんと突っ立って、日が沈む頃にのほほんと帰っていく。日がな一日中川面に石を投げている日もあれば、悲しくなるほどヘタクソな釣りをしてみたり、何やら土を掘ったりしてみている。
世界は炎と灰と悲劇に満ちているのに、こいつばかりがどうしてこうもすっとぼけなんだろう。「彼」の悲劇はそこであった。興味に負けたのだ。
このすっとぼけ日本兵、名を嘉吉と言った。それなりの家の生まれだが、三男坊であったらしい。
いいとこの跡取りは戦にはやらん、て決まりがあってなぁ。一番上の兄サマは家におるのよ。次の兄サマは頭のできがとびきりなもんで、飛行機乗りさんに可愛がられとるのよ。おれぁ残りもんの不能だもの、こんなとこでもお役に立てるかどうか。
嘉吉はいつもそんな話をしては、「彼」の話をねだる。こっちのことなんて話す気なんかいつになっても起きない。話したところでどこまで理解できるか。それだけバカっぽいのだ。
無視していれば、「ならこの話はどうだ」と嘉吉は聞いてもないことをぺらぺら喋る。情報管理とこの世で一番縁遠い男だ。「彼」は嘉吉のいる部隊が何から何までクソカスなことを、嘉吉の語り口から推察して、しかしそんな中でもこんな男がまだ生きていることが救いのように感じた。
嘉吉はいろんなことを話す。戦友のこと、故郷のこと、戦況のこと、採れた魚をぜんぶ上官に食われること。ある日器用に煮炊きをしているな(これは後々あまりに馬鹿にしすぎかと反省した)と思ったら、どうやらそこいらの木の根を煮て食おうとしているらしかった。
「やめとけ、それ毒だぞ」
「あら異人さん。おたくさんから話しかけてくれるのは珍しいね」
「しまった……」
そういえば、嘉吉は随分痩せ細った。それもそうかと思う。「彼」が見下ろす眼前で「ちぇ、食えもしねぇのかい」とむすくれて飲む飯盒の中身は、土の味がするだけの煮湯だ。ろくすっぽ食えちゃいねぇのだろう。
「なぁ異人さん、アンタぁそろそろ何か話しちゃくれんかね。そろそろこっちも弾がない」
「……異人と呼ぶのをやめたら考えてやってもいいぜ」
「彼」はそう言った。その呼び名があんまり好きじゃなかった。その実、「彼」は実際純然たる人ではないからだ。
世界の理を拒否する否定者、「彼」は死を否定する「不死」である。
嘉吉は「アメリカでなく、どこの国でもないが日本人ではない人」の意で「異人」と呼ぶが、「彼」にしてみれば「人間でない」と呼ばれている心地がする。
南北戦争から100年ぐらい。あの時自身が人でないことを知ってはいても、こうも人が死ぬ最中で「彼」は「人」を考えていた。俺が人でないにしても、これが「人」のすることか。「人」ってなんなんだ。
「そうなあ、きれいな銀色の髪だもの。ぎんと呼ぼう。ぎん、あなた何かを食っているところ見たことがないけれど、何も食わんで平気なのかい」
嘉吉はフワフワ言った。
ひととき、「彼」はぎんと呼ばれることになる。
○
嘉吉はいつからかぜろぜろ咳をしながら立っていた。ぎんの姿を認めると、以前までは主人を前にした犬のようにはしゃいだものなのに、今となっては気のいい友人くらいなものだ。十分か。
「軍医はいねぇのか」
「佐田さんは死んじまったからなぁ」
にゃはは、と笑いながらぎんの腕をペチペチ叩く素振りは、から元気、とかが似合う。
ぎんは自分の体を見下ろして、しばらく食っていないのにひとつも衰えていないことを改めて自覚した。飢餓はさもありなん、この地獄にあって枯れ枝のように痩せ細ることは死を意味する。この体はそれすらも「否定」している。
ぎんが物思いに耽る間に、ペチペチ叩く素振りはいつか撫でる動きに変わっていた。こそばゆい。
「何」
「ぎん、ぎんよぅ。お前はこんなとこでも立派な体なんだね。長生きできそうでいい」
「いいもんか。いいもんかよ」
「いいに決まってるさ」
嘉吉はフワフワ笑う。どこだって行けるもの、と続けた。
「日本は島国だからなあ、泳がなきゃいけない。けど、やれ中露なんかは地続きだってんだろう? 歩いて渡れちゃうのよ」
「知ってるよ。それの何がいいんだ」
「いろんなもんを見聞きできるだろう。それが羨ましくてアア仕方ないんだよ」
いろんなものが見たいんだよ。嘉吉は言う。
「家を出て、国を出て、いろんなものを見たいよ。そんでたまに国に帰って、生まれた家はマァあってもなくても、地元の飯なんか食べてサ」
「家を出て国を出たろ」
「家があったから戦地に送られたし、お国のために戦わにゃならんし、地獄で食えそうなものばっか探したかったわけじゃないよ」
言ってることは中々だが、それでも嘉吉は笑った。
そう思えるまでに、いろんなことがあったろう。ぎんは嘉吉の今までを思う。長く生きて来て思うことは、人間ってな有限な命にいろんなもんを詰め込みすぎじゃないかと、そんなことだ。
俺にやらせときゃいいのに、いろんなことは。
ただ、嘉吉がこうホニャホニャ笑えるようになっていて、言う最中にも泣きそうなふうでないのなら、マァ許してやってもいいか、とも思う。
「だからナ、ぎんのいろんな話を聞きたいのさ。おれにぁ到底行けないようなところも行ったんじゃないかい? どこの生まれで? 日本語はむつかしかったろう」
そこまで言い募ると、嘉吉はひどく咽せ込んだ。しばらく肩を抱いて摩ってやれば落ち着いたようだが、日が傾いているのを見てふらふらと帰って行った。
あの様子じゃ明日はここには来ないだろう。そう思っていたのに、嘉吉はぎんを探しにやってきた。昨日の帰りよりも足取りは怪しい。ぎんやぁい、ぎんやぁい、幽鬼のような嘉吉をぎんは抱き止めてやり、すぐに横たえた。
「馬鹿野郎、寝てりゃいいものを」
「寝てりゃ壕が掘れるのかい」
吐く息がこれほど早く熱いのに、声がいままでにないほどヒヤリとしていて驚いた。
強張る指と爪の間には土がびっしり詰まっていて、ぎんは日本兵の状況を思い知る。ここがどこだか思い出す。ジャワは天国ビルマは地獄、ここは死んでも帰れぬニューギニアなのだ。
やるせない。ぎんはそう思った。これを連れてどこかへ逃げちまえば、ここを抜けてどこへなりと行っちまえば、そんなことを思って、それは到底ただの人間にはできないことなのだと思う。
そんなことはぎんにしかできないのだと思う。
「ぎんやぁ、ぎんの話をしとくれよ」
「この期に及んでまだそんなこと言うのかよ」
「こんなことで留めてるあたり、おれぁお人好しだけど」
「まだ上があんのか」
「うふふふ。ある」
嘉吉は忙しない息の合間に笑った。
見てられない。ぎんはプイと顔を背けてしまって、嘉吉の足のあたりを見ていた。
「ぎん、ぎんや。ぎんの生まれはどこなの。日本ではないだろ」
「……俺もどこだかわかっちゃないんだよ」
「え、わ、あら! やっと教えてくれたナ。じゃあ、日本には来たことあるかい?」
「まだねぇな」
「そうかそうか、やめといた方がいい。あすこは家とか国とか、大きいかたまりが尊ばれるとこだ。人の自由はあんまりない」
「流石に嘘だろ」
「嘘じゃないさ。現に、バンザイ突撃が決まったもの」
ぎんは絶句した。
人の自由はあんまりない。「あんまり」だと?
やっぱり嘉吉はバカだ。最初にそう言えば良かったのに。そう言や話してやったのに。緑色の海も、青い街も、いろんな話をしてやったのに。
そうでなくとも、元気になったらいろんな話をしてやろうと思っていたのに。
ぎんが悔いているころ、嘉吉は噛み締めて筋の浮いたぎんの頬を撫でていた。
「……なんだってんだ」
「ひひひひ。ぎん、立派だナ。なんでも噛めそうだ。てことは、長く生きていられるね」
「おかげさんで」
「ぎん、ぎんやい。死にたくないよ」
「……おれも死にたい」
「いやァ、ぎんは、生きるだろ」
きれいで、立派で、格好いいもの。
自分がそうじゃないみたいに嘉吉は言った。
「死にたくないけども、御国のために死なにゃならんのよ。……ほんとは聞いちまったんだけどナ、ここはとっくに駄目だったけど、生きて帰ったんじゃ示しがつかないってんで、みんな死んじまえって話なのよ」
「そんなバカな話があるか!」
「言ったじゃないか、そういう国だ」
「……バカ。お前が」
「おれぁバカだよ。だからこんなとこに来たの。でもこんなとこに来たから、ぎんに会えたんだものなあ」
ぎんは嘉吉に負け続けている。
最初は興味に負け、今は情に負けている。
なんとか助けられないだろうか。代わりに戦地へ突っ込めないだろうか。それとも、不死を盾に嘉吉を連れ出してやれないだろうか。
そんなこと何度も考えた。何度も考えて、毎度「俺が無事でも嘉吉が死ぬ」で諦めてきたのだ。
「ぎん、おれぁもう死ぬから、お人よしをやめてもいいかい」
「内容による」
「お前は死なない、そんな気がする。だからなぁ、この指、指でもなんでも、なにかおれを食んで、どっか連れていっちゃくれないか」
「玉砕なんか、行かなきゃいい、そんなの」
「行かなきゃ身内に殺されちまうサ。臥せったところで手榴弾を渡されるんだもの。アア、どっちがぎんが探しやすいだろ。ぎんの好きなほうにしよう」
「どっちもクソ喰らえだ」
「でっかいのに子どもみたいなことを言う」
「…………できない」
そうだよなぁ。すまないことを言った。
嘉吉は笑った。
ヘタクソに手足を突っ張って、ひどく長い時間をかけてやっと斜めに立って、フラフラと野営地に戻っていく嘉吉の背中が、とても悲しく見えた。
○
それからしばらく、この島は騒がしかった。夜通し悲鳴と爆撃が聞こえ、止んだと思えば死に損なった兵士が呻きながらぎんの隠れ家を通り過ぎる。そんな日が何日か続いた。
やっと静かになったと思って、ぎんはついに隠れ家を出た。連合に出会えばなんとか言って、日本兵に鉢合わせたら素直に一度死ぬしかない。
嘉吉を探さなきゃならない。ぎんは嘉吉が帰っていったほうに歩き出した。壮絶な地獄の谷と血河をいくつか超えて、人の手が入っていたらしい空き地を見つけた。
「嘉吉……嘉吉!」
あばら屋、だったものの陰に嘉吉はいた。近くでは人の形を留めていない遺体がごろごろ転がっていて、アアこれは重傷者だったものだ、手榴弾を渡されたまま、嘉吉は重傷者として捨て置かれたのだとわかる。それもそうだ、別れ際があんな状態であったのだから。
ぎんはまだ息をしていて、嘉吉があのよくわからない団塊のひとかけらになっていなかったことを安堵した。それはそれとして、嘉吉はあの日から(それ以前からも)ろくに飲み食いしていないことになる。あれだけ忙しなかった息はいまは葉擦れの音にも紛れる細さで、しかし左手にピンの抜かれた手榴弾を、手が真っ白になるほどの力で握り込んでいた。握り込みすぎて、解けなくなったんだろう。
「嘉吉! まだ息あるな、助けてやるから」
ともすれば亡骸と見間違う嘉吉の体には、既にびっしりウジが這っている。叩いて払おうとすると、薄っぺらな布一枚を隔てて骨を叩くような感触がした。
「ぎん」
幻聴のような心許なさ、声とも思えぬ声は嘉吉が死に物狂いで立てた音声だ。ぎんはウジを払う手を止めて、嘉吉に耳を寄せる。
「助かる、大丈夫……助けてやるから……」
「ぎん」
「なんだ」
「つれてってくれ、ぎん」
「嫌だ。おまえが行くんだ。おまえが来るんだ。お前の代わりの骨だなんだじゃねえ、おまえが」
「つれてって……ぎん……ここじゃないところ……どこかとおいところ……」
いっそ今、てきとうな爆雷が降ってくれたら良かった。
ぎんに自分を食えと乞う嘉吉の頬はひきつっていて、しかしぎんにはそれが笑っているのだとわかる。
ハエが産みつけた卵を、孵ったウジを一度払って、ぎんは一息に、がぶりと頬に噛みついた。ひきつっていた口角までも噛みちぎる。
もう無理をして笑わなくていいし、心底笑っているのなら、それを連れて行きたいと思った。
申し訳程度に溢れた嘉吉の血は、なにだか悲しくなるほど味がしない。
ぎんの逞しい喉仏が大きく動いたころ、嘉吉は「ふ」と言った。
それきりだった。
○
「ねぇアンディ、アンディって昔から色んなところでいろんな人と出会ってきたんだよね?」
風子は何気ないふうでアンディに訊く。手元にはタチアナからもらった焼き菓子があり、封のシールをがんばってカリカリ剥がそうとしながら訊いていた。
「ああ、色んなとこ行って色んなヤツと会ったぜ」
「てことは、色んな人から色んな名前で呼ばれてたんだよね。思い出深い名前とかあるの?」
ふむ。150年強でついた名前がどれだけあったか。そも、うち10年はこのユニオンで粉微塵にされていたので、140年ちょいぐらい。
70年ぐらいずつ遡ってみるか。と考えたところで、風子のモチモチの頬が目に入る。
アンディは生唾をひとつ呑んで応えた。
「それひと口くれたら教えてやるぜ」
「え? いいよ。はいあーん」
「あ」
風子は既にひと口齧った焼き菓子を、遠慮なくアンディに差し出した。わざわざあーん付きで。
出雲風子は日本人で、かつ忘れられない日本人がアンディにはいる。にしても、日本人ってみんなこうなのか?アンディは仮説を立てながら咀嚼する。ふわふわで甘い。今どきのガキはいーもん食ってんなぁ、と思う。
「はいあげたよ、忘れられない名前。あるの?」
風子はわくわくした顔でアンディを見上げる。その目のまん丸さが、なにだか苦しくなって、アンディは笑った。
「悪いな、お前があんまりキス待ち顔なもんで、忘れちまったわ」
「してないしてない、キス待ち顔なんて……!!」
風子はギャア、と不平を吠え、アンディが体格で押し戻す。いつもの風景だ。
あれはあいつが呼ぶから俺になる。俺をああ呼ぶのは、もうしばらくあいつだけでいい。
そっちはどうだ、今の連中に言わせりゃ、その辺りは地上の極楽だそうだが。まだどいつもこいつもが極楽送りになる地獄か。それとも、もう極楽に行けているか。
……ぎん、ぎんやぁい。
耳の中で、呑気な呼び声が聞こえた気がする。
アンディは笑った。連れてきてたんだった。
参考資料
総員玉砕せよ!(水木しげる)
ニューギニアの戦い(Wikipedia)
父が祖父から聞いた話