ユニオン

 世界とは断絶によってできていて、個人とはその究極形である。
 人と手を繋ぐ行為は結束の意味としてまま用いられるが、その内実は、「あなたと私は違う生き物なのだ」と再確認することに他ならない。


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 絹を裂いたような、電車が急停車する時のような、黒板に爪を立てたような、硬いもの同士が擦れて出る歯が浮く音のような、思い当たるかぎり全ての不快感を伴った悲鳴が響いて、辺りは一時騒然となった。
 人が死んでいる。頭が潰れて死んでいる。
 おかしいのは、その死に方だった。
 ただしく、頭が潰れて死んでいる。ただ、その人は落ちてきた看板がぶつかったでもそういうふうに車に轢かれたでもなく、歩きながらにして、不可視の何かに頭を挟み込まれて死んだのだ。
 そんな事件が、時折日本のどこかで起きていた。目撃情報はあったりなかったりだが、報道に上がることはまず無い。トラウマ級の目撃証言だけが積み重なり、真実はどこにも見当たらなかった。

「すいません、すいませーん」

 頭が潰れて死んでいる人の周りに、ぐるりと人垣ができる。時は週末昼下がり、場所はなんてことない地方都市の駅前であった。何もなければ一週間でもっとも人がいる場所、時間帯である。
 すぐ近くを歩いていて逃げた人、遠巻きにカメラを携えて野次馬に来る人の中で、年のわりに低い頭が人垣を割って一番前に出ようともがいた。
 目立たないくらいの前のほうに出て、ケースも飾り気もないスマホで被害者の写真を数枚撮った。目立つ行為ではなかった。そんな野次馬は他にもいた。低い頭は来た道を再び「すいません」ともがいて人垣を離れ、時間を確認して息を吐いた。

「これで三日間のメシがかにぱん一つの生活とはしばらくおさらばだ。日に食パンが2枚食える」

 何度もため息を吐きながら頭を掻き回して、ふと低い頭は自分のジャージの肩まわりがフケまみれなことに気づいた。
 行かなきゃいけないとこに行く前に、銭湯に行かなきゃならない。低い頭は最後にひときわ重たいため息をついた。電車賃が足りないかもしれない。


*****


「呪術使いィ?」

 虎杖はぐへ、と下顎を突き出した。呪術師は俺がこれからなるやつ、それとは違う呪詛師ってのがいるのを覚えたのが最近のことだ。ここに来てまた区分があるのかよ。虎杖はうんざりして話の続きを待った。

「そう。マァ広ーい意味じゃ呪詛師と変わんないよ。人に向かって呪術を使う奴らさ」
「じゃあ呪詛師でいいんじゃないの?」
「ノンノン悠仁、広ーい意味では変わんないってだけだよ。呪詛師と呪術使いには決定的な差がある。さてそりゃなーんだ?!」

 虎杖はムニュと下唇を突き出す。さっぱりわからんからである。
 初夏、放課後であった。平たく補習である。不本意ながら突然呪術師になり始めた虎杖は技術も知識も同輩二人には到底追いつけず、五条が補習を設けてくれていた。
 自らドラムロールの音を口ずさみ、自ら「ジャジャン!」と大仰な素振りで五条は話を続ける。

「奴らが呪術を使う対象は、いつだって自分一人なのさ。呪詛師みたいに人を殺めるためでも、呪術師みたいに呪霊を祓うためでもなく、ただ足が速い、背が高い、親指が逆側にめちゃくちゃ曲がるとかと同じように術式を使う。そういう奴らを呪術使いって定義してる」
「めっちゃ効率がいいオリジナルの暗記方法とかそんな感じで術式使うんだ。へー」
「そんな感じ。数いるわけじゃないから会うこたないかもしれないけど、一応覚えといてね。んじゃ今日は終わり!」
「オス! あざーっした!」

 解放された! 今日は任務があるでもなし、これで本当に自由だ。マァ自分は執行猶予の身であるのだが。ともかく自分の時間の来訪というのは老いも若きも嬉しいもんである。虎杖はサッサとノート類を仕舞って、今後の予定を考えた。今日はまだ早い時間なので、街まで降りてゲオでも冷やかそうか。
 虎杖は足取り軽く寮に戻り、私服に着替えて、事務室でチャリを借りて街へ出た。
 今日は何気に心待ちにする漫画の発売日だ。最寄りに残っていればいいが。


***


 シケてる。やっぱり一般人の謝礼なんてこんなもんか。スジから仕事もらったほうがよかったかもしれない。
 青年は電気屋にいた。下手なスーパーよりカップ麺とかが安かったりする。青年は手頃なカップ麺をいくつかと乾パンをカゴに放り込み、あとは廉価版のDVD3枚三千円コーナーをグダグダウロウロしていた。
 やっぱりサメは捨てがたい。サメを観たい。サブスクサービスは毎月更新しなきゃいけないし、そもそもクレカがない。現物で買い集めて厳しいときに全部売っ払うか、地道にレンタルするしかない。
 ディープブルーに伸ばそうとした手が、ふと他人のそれと触れる。青年はねずみ取りよりも爆裂的に飛びのいた。

「おろ、スンマセ」
「ヒェッ、お、ヤ」

 手が触れたのは、珍しい学ランを着たツーブロの青年だった。
 下手すりゃ通報されんじゃねえかと自分でも思うような素振りで背の低い青年はキョドキョド後ずさって、びっくりしすぎて泣きそうにすらなっていた。もう恥も外聞もなく逃げ出す五秒前である。
 そうして背の低い青年が社会不適合ぶりを漏らしている間に、青年ーー虎杖は背の低い青年が持つカゴのなかにあるDVDを認めて、「あ!」と声を上げた。

「あヒッ、なんでしょ」
「あごめんごめん、カゴんなかハルク入ってるから。俺気になってんだよねMCU。でもどっから観たらいいもんかわからんくてさ」

 人を選ばない笑みで僅かに緊張を解いた背の低い青年は、「あ」とか「え」とかさんざ顎を震わせた末に、唇の先だけでブツブツやりはじめた。

「なんて?」
「あの……俺も全部みたわけじゃないけどMCU観始めるなら公開順か時系列順で攻めていくのがいいと思ってだから公開順ならアイアンマン一作目からだし時系列順ならキャプテン・アメリカからだしでも全部買うってなったら作品数ヤバいから余裕があるならディズニープラス入ってサブスクで観るのがいいと思うけどそれができるなら気になったタイトルから観ていっても」
「ちょいちょいちょいうぇいうぇいうぇいうぇい」

 思わず待ったをかけた。ついていけん。虎杖は眉間を揉みながら「え?」と唸った。

「待って。もっかい言って」
「あェ、あすいませ」
「違くて違くて。怒ったとかじゃねーから。覚えきれねえからもっかい聞きたい」
「ア。ぇと」

 背の低い青年は念仏の五十分の一くらいの声でボソボソ唱えて、それを虎杖は必死に聞き取った。公開順がおすすめで、ネタバレ食らっても死なない肝があるなら気になったやつから観ればいいらしい。

「はェーッ詳しいのな! ありがと! じゃあ一番新しいこれからにしよっかな。エンドゲーム?」
「なんでミステリをオチから読むようなことを……さすがにそれはちょっと……」

 青年はカゴをいったん置いて、背負っていたリュックサックを弄った。薄っぺらなCDケースに挟まれた円盤が一枚出てくる。端っこはボロボロで、ギリギリケースの形を保っているだけのゴミに、これまた端っこの塗装が剥げてボロボロのディスクが挟まれている。管理が悪いというより、持ち歩き続けた感のある品だった。

「これ、アイアンマン一作目の池田秀一吹き替え版。録画のダビングだからちょっとテンポ悪いけど、ええと」
「借りていいの?」
「う、うん。あごめ、えと、はい」
「いいよタメで。マジ? ありがとうな! ここらの人? 返す時連絡したいからラインかなんか交換しねえ?」
「ウォッ、あばば、ハイ!」

 青年はケータイで一瞬ジャグリングを見せてから、ラインのQRコードを出した。虎杖は器用なんだなーと感心したが、その実「なんてぇ陽キャだ」とテンパり散らかして手が滑ったに過ぎないのだった。同じのもう一度見せてと言われようもんなら、画面粉砕マジックしかできようもない。

「こ、これ?」
「そう、それ俺。えーと、『Q』ってのこれ合ってる?」
「あ、合ってる」
「あそうだ名前聞いてねえじゃん。俺虎杖悠仁」
「な、夏木、玖太郎」
「だからQ? かっけーね」
「え、ウ。お……」

 青年−−玖太郎はしばらく押し黙って、首がなくなっちまうんじゃないかと思うほど肩を縮こまらせて照れた。
 虎杖は、だんだん玖太郎がわかってきた。めちゃくちゃ陰キャなのだ。その中でも、放っておいてもフヒフヒ喋るほうではなく、放っておくとマジで喋らねえタイプだと思う。虎杖はこの手合いとのかかわり方を祖父の既知からさんざ学んだので、一般には忌避される玖太郎の性格も特に苦じゃなかった。

「じゃあ、玖太郎って呼んでいい? 見終わったら連絡すんね」

 何より、微塵でも好意以下の感情が覗けば、この手合いは一気に萎縮してしまう。寝不足だなと思ってわけを聞いてみれば「なんでもない」と逃げ、あとで別のルートから聞いてみれば「怒らせたんじゃないかって凹んでたぜ」なんてザラだ。虎杖はすこし大仰に、しかしシンプルにDVDを貸してくれる仲の人間が東京でできたのが嬉しくて、いわゆる夏よりも莫大に笑って円盤を受け取る。
 指先が触れた。玖太郎の指は、はたらく人の手であった。

「あ、あり、ありがとう」
「こっちのセリフ! 大事に観るわ。んじゃまたね、門限あんだ」

 虎杖は快活に手を振って、ぱっぱと帰っていった。


***


 虎杖は寮の自室に帰ってきてから、自分が何をしに街に降りたかを思い出した。漫画買いに行ったんだった。結局なにも買わずに帰ってきちまった。ただただ夜風の中をウェーイってチャリかっとばしてアー気持ちいいなーって帰ってきちまった。虎杖はえーマジかよクソ―と鼻の根っこにギュギュと皺を寄せながら上っ張りを片付けようとして、ポケットに慣れない膨らみを見つけ、アッと取り出した。
 つい先ほど玖太郎に借りたアイアンマンだ。本人の言った通り、コンビニで投げ売りされてるダビング用の安いDVDにマッキーで「アイアンマン1 池田秀一版」と書かれている。そのタイトルだって大分こすれて伸びたり薄くなったりしていて、いかに大切に連れ歩かれてきたのかが伺えた。
 玖太郎はたぶん、ふつうの高校生じゃないだろうと思う。指先がそれを物語っていた。虎杖は自分の手の爪を順繰りに親指の爪で弾いて考えた。最近は寮で飯が出るのでめっきり瑞々しいが、祖父と暮らしていたころはもっとかさついていた。玖太郎の手は、当時の虎杖の手を割増しでかさかさにした手だった。
 伏黒みたいなこと思うけど、と前置きしながら、虎杖は自分の胸のモニャモニャをなんとか言語化しようとする。友達ができてうれしい。それが、つましく働く人でうれしい。そのつましい人が、きっとこれ以上なく大事にしてきたDVDを貸してくれたのがうれしい。

「……へへ。じいちゃん、俺ともだちできた」

 万が一伊地知なんかが見ていれば、ゴミカスの呪術界にあって何とささやかな健気だろうと泣くような、泉の水のような微笑みだった。


***


 玖太郎はしばしのねぐらに帰ってきた。橋の下である。風よけは常設していると通報を受けた警官に張り込まれて帰ってきた拍子に職質を受けるので、都度片付けて大きなカバンに詰めてコインロッカーに預けているが、今日ばかりは引き取ってくるのを忘れた。思い出しようがない。今日はすごい日だった。あたりが真っ暗なのを信じられなかった。
 震える手でケータイを取り出して、ラインを開く。はじめて公式アカウント以外のトークルームができている。玖太郎は感動で何度もホーム画面とラインを行ったり来たりしては眺めた。なんてこった。何回見てもある。ほんとにあるんだ、ともだちの連絡先が。玖太郎は自分が今晩の風よけを忘れたことも忘れ去って、橋の下ひとり小声でキャアキャアいいながら両手でギュっとスマホを握りしめて足踏みしていた。
 しばしそうして、玖太郎はつめたいコンクリの上にそろそろと膝を置いて座った。さすがに疲れた。なぜって、虎杖はマジで真夏のバカ威力が強い太陽が人の形をして歩いているようなもんなので、直射で浴びるとまず目をやる。紫外線には人につかれたと思わせる物質を分泌させる効果があるらしい。それをゼロ距離で浴びればそりゃ疲れるのだ。疲れるが、日光には必須栄養素のビタミンDの生成を助長する効果もある。つまり適量浴びれば健康に良く、普段浴びてこなかった人間には余るほどビタミンがつくられて妙に寝付けなくなったりするのだ。知らんけど。
 少なくとも夜型かつ陽だまりを避けて生活してきた玖太郎は、すっかり夕方の過ごしやすい時間にものの数分虎杖と会話しただけでよくわからん脳内物質が下手な滝より出ていた。風よけも毛布も簡易ガスコンロも全部駅前のコインロッカーに忘れてきたが、なんかもういっかと思った。だってこんなにポカポカしている。はじめてともだちができた。それだけで、夜のひとつやふたつ平気で越せそうだった。

「はひ」

 いっそ胸の中に抱き込むように持っていたスマホが震える。飛び上がって画面を見れば、ライン通話ではなく固定番号にかけられていた。名前は表示されておらず、番号だけが表示されている。玖太郎は泡を食って呼び出しに出る。

「はヒ。はっはい」
「Qか?」
「ぁい。アはい。Qです」
「依頼だ」

 ふわふわしっぱなしだった五体と五臓六腑が、一気にガチリとスイッチが変わった。表情にあるのは先ほどまでの笑みの残滓で、その奥には何もなかった。

「はぁぃ」
「呪術高専東京校一年に所属している宿儺の器、知っているな」
「知らないです……」
「クズが」

 知らないこと知らないって言っただけで怒られた。むちゃくちゃだ。

「調べろ。今電話している板切れはお前が遊ぶために与えたんじゃない」
「……しら、調べて出てくるものなんですか?」
「バカが」

 玖太郎は受話器の前で唇とキュと吸った。もう黙ってた方がいいんだとおもう。
 電話の向こうの男性は玖太郎をバカにしきった溜息を吐いて言う。

「自分の意志で動き出す核弾頭を飲み込んだガキがいる。殺せ」
「名前とかわかりますか」
「虎杖悠仁だ」

 その後も男性はなんだか言っていたが、何も聞こえちゃいなかった。ああ世界ってこんなもんだったよな、という言葉だけが爪の先まで満ち満ちて、それ以外がすべて押し流されていた。