戸籍とは妙なるものである。
制定されたのはつい150年そこらの話なのに、古来から受け継がれるもののように語られ、時に救いとして、時に呪いとして人の名を刻み連ねる。
そも、加茂家というのは、賀茂忠行の係累である。呪術界における御三家とて日本国民であるので、慶応の時代に始まった戸籍制度に則り国に登録されねばならなかった。その際の書き損じにおいて賀茂の名は以降加茂と表すようになり、しかしそう珍しいことでもなく、また登録を行ったアホンダラがこれまた大家であったので誰も物申せず、今日に至る。
さておき。加茂家は、賀茂忠行の係累である。
これがまずかった。
*
新しい当主が立つ。
それまで泣く子も黙る黙る子も泣く権謀術数によって次期当主として擁立されていた加茂憲紀をあっさりと庶子へと追い落として。
処遇が決まった加茂がまず訪れたのは、祢宜拓人のいる病室だった。彼は渋谷事変へ参戦する加茂への献血でかなり無茶な量を供出し、数日昏倒する羽目になったので療養中の身である。意識が戻ってからはまた変わらず採血が行われているあたりが、なんとも御三家らしい。
「拓人」
「おん、どないした。鳩が豆鉄砲食らったような顔しよってからに。お前加茂やろ、カモの顔せえよ」
頼んでもいないのにひとつ言えば五倍になって帰ってくるこの辛口が、なぜか無性に苦しかった。加茂は祢宜に「……ほんまにどないしたん」と言われるまで黙りこくってしまって、言われてやっと口火を切った。
「加茂家の当主が私以外で立った。私は庶子となる」
床にぶつかったのは、祢宜のニンテンドースイッチだった。次いで、生足。祢宜はなまっちろい素足でリノリウムを蹴って、加茂の胸倉を掴んだ。
「お前、ほん、何、お前」
「本当だ。直にお前の沙汰も下るだろう」
「ちゃうやろ」
「違くない」
「ちゃうやろが!」
「なにが!」
両手で胸倉を掴んだ拍子に、祢宜の膝が崩れる。もともと極度の貧血と栄養失調と低血圧を抱えた人間が今際の際級の採血をされて、数日で動けること自体が通常であればおかしい。赤血操術の賜物であったが、それにだって限度がある。二人は胸倉を掴みあったまま壁伝いにしゃがみ込み、ひっつきあった。
真っ白な病室で、祢宜の髪と加茂の出で立ちだけが黒い。
「せやな、せやんな、俺らちゃんと話し合ったことなかった」
「……何を。モンハンはお前がダウンロードで買うと言ったから、俺も勝手に買っただけだと言っただろう」
「茶化すなや。俺らの将来の話やねん」
「そうだな。話し合ったことなかった。もう、もう時効だろうから言ってもいいだろうか」
「聞く前に許すほど耄碌してへんわ」
「お前とはじめて会ったとき、お前、私を憎んでいただろ。都合がいいと思ったんだ。この男はきっと私を出し抜こうと働くだろうから、その企みを私がうまく使えれば、最良の当主になれると思ったんだ」
「ほー、ええ読みやん。間違うてへんよ。今もクソ嫌いや。お前がご母堂を呼び戻そうとしてたのは知ってたし。俺ももうちょい人権欲しかってん。やからな」
「うん」
「お互い野望があるやろ」
「ある。そのためにお前が必要だと思っていた」
「ハハ。はははは、は。……俺もや」
「そうか、良かった。俺だけだと思っていた」
「今気づいても遅いやんか」
「それもそう」
「アホ。カモがネギ背負ってのこのこ散歩しよってからに」
「俺が背負うのは、空前絶後、母様とお前だけだよ」
「TOEICの試験会場連れてってくれるっつってたやん」
「与太だろうあれは」
ははは。社交辞令にも満たないような笑いの仕草だけをし合って、二人はひっついて小さくなった。
泣く子も黙る黙る子も泣く、悪人も黙って首を振る権謀術数渦巻く呪術界で、加茂は母親と祢宜だけが、祢宜は身の安全と加茂だけが拠りどころであった。
「……なあ、若。頼みがあんねんけど。一生で一度、一生のお願い。これを叶えてもろたら、もう二度とわがまま言わへんよ」
「聞く前に許すほど耄碌していない」
「あんな、若。俺このあとどうなると思う。若はどっか、せやな……噂くらいしか聞いてへんけど、死滅回遊、いうんやったっけ。あれ行かされるんちゃうの」
「そうだろうと思う。赤血操術を扱える、当主ではない男だから。使い勝手がいいだろう」
「なあ、俺どうなると思う。若について行けると思うか?」
加茂は押し黙る。言葉もないままにお互いを青春アミーゴみたいな間柄だと思っていた祢宜拓人は、加茂家預かり、祢宜の嫡子だ。人権団体も真っ青になって泣く言い方をすれば、彼は加茂家のための生きた造血装置である。加茂憲紀が放逐されたところで、いくら周囲が彼らをニコイチだと思っていたって、仕組みがそうはさせない。
彼はおそらく新しく立つ当主の予備血液パックになるだろう。
まして新しい当主は自分と違って、望まれてその地位に立つ人間である。御三家が一角、加茂家の当主に立つ人間である。顔も名前も知らないが、その人間はきっと、自分では考えつかないほど、祢宜を人間だと思わないだろう。
言わなかった。言えなかった。世の不条理を知り始めた齢六つから付き合いのある彼に、「母親と共に暮らしたい」だけを宿願として立つ加茂憲紀は、そんなことは到底。そも、許しがたい。
「……あんさんと同じ血ィ流れてんねんから、何考えてるかぐらいわかるっちゅうねん」
「……忌々しいな」
「わかるねんから、言うてや。若の口から」
「言えるか。6歳からの付き合いだぞ。今までの人生の3分の2だぞ。6・3・3で12年というだろ。学習机ぐらい長い付き合いの、友人に。相棒に。伴侶に、そんなことが。言えるほどの人間だと思われているのか」
「どんな例えやねん。言えへんのか。俺やぞ。俺はお前や」
「言えない。言いたくない」
「言うたらほんまになってしまいそうやから?」
「性悪。言わなくてもわかるくせに」
結論を出したくなくて、だらだらとくだらない言い合いをする。が、悪い沙汰ほど早く下るものだ。いやいやと前髪を揺する加茂に、祢宜は笑った吐息を吹きかけてやる。
「若、……憲紀。俺を殺してって」
「お前が俺を殺せたらやってやろう」
「……けち……」
仕方ないふうに笑って、祢宜は加茂の鼻頭に噛みついてやった。
キスとも呼べないそれを合図にしたように、悪い沙汰は本当にさっさと訪れて、真っ白な病室にけたたましく足音を鳴らして踏み込む。
加茂と祢宜をそれぞれ羽交締めにして、悪い沙汰は二人をそれぞれ別の場所に運ぶ。引き離す。
「やめろ! 拓人に乱暴なことをするな! 私の……」
友人だぞ。相棒だぞ。伴侶だぞ。
どれを言うのも違う気がした。そも、庶子に追い落とされた以上、加茂が言う「私の」は特に効力を持たない。
無力だ。たいせつな人をまたも守れない。こんな自分に、たとえ日頃から祢宜から供出されている血が多少流れていると思ったって、価値があるとは今はすこしも思えなかった。
「……やっとあんさんとも顔合わせんで済む! せいせいするわ!」
祢宜は心底、といったふうに叫んだ。祢宜を運搬しようとする使用人たちは「だろうな」のような顔をしている。
どこに目がついている。あの顔を見てもそう思うのか。
加茂は祢宜の顔をジッと見た。
クソほど体がしんどいときに「大丈夫です」と言う時の顔だった。
加茂家の無理な指示に従わなければいけないときの顔だった。
今際の際でもないのに走馬灯が巡る。祢宜は加茂のためにほんとうによく働いた。本人の野望もあってこそだろうが、血を共有し合うことによって芽生えたテレパシーのようなものは、その献身をおよそ本当に加茂のためを思ってやってくれていることを早々に察知していた。
足で襖を開けて「鬼ごっこと焼肉行かへん?」と言ったときも、マリオカートで負けそうなときにわざと回線を切ることも。
新学期早々、極度の貧血に起因して「明るいところ見ると頭痛なんねん」と言った次の日、ド能天気なサングラスをかけながら登校しやがったときも。
任務において、赤鱗躍動が使えないゆえに精度を高めた赤縛で、ありったけの補佐をしてくれていることも。
すべて、ほんとうに、彼がしたくてそうしていたことに、とっくに加茂は気づいている。
「……、それはこちらの台詞だ、ばかッ!」
だので。
さきほどの言葉が、せめて好意的なふりをして、余計な怪我をさせまいと言ったものだなんて、同じ血が流れているからわかってしまった。
「殺しておけばよかった思ても遅いからな! 首洗って待っときや、こっちからやりに行ったるからな!」
「やれるものならやってみろ! せいぜい俺のいない本家で、いい暮らしをするがいい!」
罵倒か、祈りか。果ては呪いか。
どちらともつかない加茂の叫びを最後に、二人は引きはがされた。
*
賀茂忠行は、安倍晴明の師匠として知られる。安倍晴明といえば一般人でも多数が知っている妖怪退治の専門家で、その功績のなかには頼光四天王が大江山の鬼を退治に行く際にアドバイザーを務めた、というものがある。
そして、加茂家は賀茂忠行の係累である。
これがよくなかった。
沙汰が下ってしばらく、祢宜は本邸にて点滴と採血を受けていた。
新当主は、思いのほか祢宜のことを気に入った。なんでも、「こんなに綺麗だと知らなかった」のだとか。
バカ言いやがる。祢宜は伏し目がちに思う。加茂に「干せた能面に悪意でもって切れ目をいれ、そこを目とした悪人顔」と評される顔は、友人同士の茶化しもなく一般論で評すれば、そぎ落としたような頬と切り立つような鼻、色白の肌に柳のような目がある、美形の分類である。が、祢宜はこれを良しとしていない。もっと日に焼けて肉のある健康的な顔になりたかった。頬はこけているだけだし色白なのはクソカスアホバカ超絶怒涛の貧血だからだ。
これを新当主は気に入ったらしい。事あるごとに気を使い、食べ物を勧める。着物を勧める。髪留めを勧める。
これが祢宜には気色悪くてならなかった。何度怖気と吐き気を堪えたか、ここ数日ですでに数えるのをあきらめた。
気を使ってもらえるならばいいじゃないかと思いこそすれ、その奥にあるのは所有欲である。自分の持ち物が美しくあってほしいだけなのだ。状態のいい所有物を人目にさらすための手入れに他ならない。
加えて、新当主は、声が気持ち悪かった。酒に焼けて、人を詰ることばかりに使って来た声帯で、猫なで声を出されるのが本当に我慢ならなかった。
そこまでして、取るもんはちゃんと取っていくのだ。当たり前だろ? そのための命だろ? みたいな顔をして。
……憲紀は、なんか、もっとちゃんと。
ちゃんと心配してくれてはったな、と思う。家臣だから、予備血液パックだからではなく、同輩として、仲間として、友人として、また素直に人として、冗談で「死にそう」と言ったときは「火葬場の予約は自分でしろ」なんて茶化すが、ほんとうにしんどい時は言わなくても「肩を貸せ。いやいい、運ぶぞ。袋を口に宛がっておけ」と俵抱きして医務室まで運んでくれたり、空気を入れ替えたり白湯を持ってきたり、枚挙に暇がない。
人権を得ている、と思う。ただ、精神をコストにして。
これでいいんだろうか。これが望んでいたものだろうか。答えは早々に否と出た。
この人生は加茂憲紀のためのものであって、加茂家のための命ではない。
そう気づいてしまえば、そこから先は、言ってもさほど学校に行けてもいなかった祢宜は、学校にいけない間に知識の蒐集をしていた祢宜には、策を思いいたるまで時間はかからなかった。
「ご当主さま。宝物庫に行きとうございます。鍵をお借りしてもよろしおすか」
いつものクマ隠しの化粧に、今日はすこしだけ紅を入れて。不安げに目をうろつかせれば、薄い瞼に乗せたグリッターは軽率にちらちら光る。飛ぶように白い顔がしおらしく言えば、当主は一も二もなく許した。気色悪い。あとで「お礼」をしなければならない。
「ついていこうか?」「手伝おうか?」とにちゃにちゃ下から笑う当主に、「ずっと来たかったところやから、一人で見てまわりとうございます。次は一緒に行きましょね」と頭を傾けてやれば、当主はウンウンと頷く。気色悪い。あんまりにも軽率にころころ転がりやがるものだから、俺まかり間違ってキャバに行ってもぼちぼちのプレイヤーになれるんちゃうか、と祢宜は思う。絶対に嫌だが。
さて、加茂家もまた呪術界に君臨する御三家なれば、それは巨大な蔵をいくつも所有している。およそ時代別、もしくは危険度別に分類された呪物や記念品が所蔵された宝物庫群をつなぐ飛び石を、まだ新品の草履が渡る。金糸の差し色が目に目映く美しい着物は、目がちかちかして頭痛がする。こんなん着たくない。が、頼んだ手前貰ったものは着ておかないと、後が困る。
目当ての蔵は、年代別でみれば一番古く、危険度別でみれば一番高かった。錆で粉っぽくなっている錠に鍵を挿し、回す。乾燥したほこりの匂いが祢宜を歓迎した。
「……あるん、やろう。ここに。酒呑童子の首が」
かつて京都一帯を荒らし、源頼光らによって討伐された鬼、もしくは盗賊の首魁、酒呑童子の首。断たれたのちに飛び上がり頼光へ襲い掛かったとされるその首は生きながらにして呪物であり、死して級数のつく呪物となりはてた。宇治の宝蔵に収めるには過ぎた代物であったそれは、玉藻前や大嶽丸の首や遺骸とともに加茂家の宝物殿へ納められている。
祢宜の目的はそれだった。酒呑童子の首。神便鬼毒酒を呑んだ、その首。
酒呑童子の首は準一級呪物だが、まぁ失敗したところで壮大な服毒自殺になるだけだ。収蔵目録を思い出しながらほこりを蹴立てないように進み、石の箱を見つける。
実際に自分ができる保証なんてひとつもないが、加茂からよく聞いた話があった。
特級呪物、両面宿儺の指を呑んだ少年、虎杖悠仁。
彼はおそらく禪院にいたという天与呪縛に等しい特性を持っているからこそそんな芸当ができたのだと、わかりきっている。が、特級でさえなければ呪物を呑んで自身や他者を変質させる呪術なんざ溢れるほどあるのだ。
赤鱗躍動も使えないような赤血操術使いの出来損ない、クソカスアホバカ極度の貧血が同じことをできるとは思っちゃいない。が、すべて加茂をもう一度「若」と呼ぶための。
魂が底から望む未来の、そのために必要なこと。
石の箱を開ける。中に納まる首は未だ瑞々しく、つつけば押し返すような張りのある肌をしている。
きれいだと思った。その顔が、祢宜とよく似ていることをいったん置いておけば。
「……ははは。どっちが本物の鬼か、試してみようやないかい」
祢宜はうっそりと微笑んで、恭しく首を掲げる。
冷たい唇にサロメのようにくちづけて。
食らいついた。
*
加茂はスマートフォンを手にしたまま、落ち着かない気持ちで座っていた。眼前には射殺した呪詛師が転がっていて、死滅回遊参戦数日目、今日の眠りはなんとも浅い。
画面に開かれているのはツイッターであった。タイムラインにあるのは鍵をかけたアカウントだけで、名前には「薬味」とある。祢宜のアカウントだった。
二人の縁は表向き断たれたが、加茂家は呪術界に君臨する御三家、千年単位の時代的ギャップを抱えた手の付けようがない機械音痴の家である。祢宜が持つスマホを没収したところで、ニンテンドースイッチの安心みまもり設定やWi-Fiの有無をどうこうできる人間なぞいないのだ。祢宜はまんまとスイッチ経由でツイッターにアクセスし、引き裂かれたその後も二、三やりとりをしている。
が、それも結界に入る前までの話だった。
数日前から電波を拾わなくなっているスマホで、再読み込みもできないまま表示されているタイムラインの一番上には、「薬味」のツイートがある。
「さけがうまい」
それまで「今これ」とキャラメイクゲームのスクリーンショットや「ソロ、泣くほどつまらん」とモンハンのスクリーンショットが呟かれていたアカウントは、「さけがうまい」とツイートしたきり動かなくなった。もとい、こちらから拾えなくなった。
祢宜は望まずして病弱である。鉄材と胃薬と造血剤と吐き気止めと鎮痛剤を常にチャンポンしつづけなければ縦になることも難しいような男が、ましてまだ18歳の男が、酒など呑むだろうか。
限りなく、嫌な予感がする。
この死滅回遊の終わりはどこだろう。
加茂の命に、知らない間にもうひとつ理由ができていた。
母様と一緒に暮らす。そこに、拓人もいて欲しい。
気づかないまま、ずっと戦いに身を投じていた。
それだけのことを叶えるために、あとどれだけ戦えばいいだろう。離れればいいだろう。
拠りどころを得ることは、艱難辛苦、または一切皆苦とも呼ばれる世界で生きてゆくひとつのライフハックである。
が、それが折れたときに何が起こるか、憲紀少年はまだ実感を伴っていない。
*
「酒がうまい! そうやろ」
これほどの笑顔を、加茂のいない場で浮かべたのは初めてではなかろうか。祢宜は呵呵大笑する。愉快でならなかった。心底愉快。
祢宜は近くに転がっていた男から徳利を奪いあげてぐいぐい中身を呑んだ。ただの水だ。ただし、祢宜が手ずから酌をしていたものである。
「こんな時代になっても血酒飲んどるような連中や、ほれもっと呑み。甘露やろう、美酒やろう」
祢宜の腕には管が繋がっていない点滴の針が刺さったままで、アホカスクソバカ極度の貧血ゆえの低血圧で勢いこそないが、血が流れ続けている。
生き血を浮腫んだ顔に受けたのは、新当主だった。
加茂家本殿の大広間は、地獄の様相であった。
新当主、並びに先代や嫡流、赤血操術を相伝している者、その係累。およそ「御三家の一角としての加茂家」を構成する人間がいて、そのすべてが映ろな表情のまま倒れ伏して呻いている。ある者は体中の血を口から吐いたようにして息絶えている。
祢宜拓人。加茂家預かり祢宜家の嫡男。それは先日までの話だ。
今の彼は、酒呑童子の首を食い、その血をそっくり神便鬼毒酒と入れ替えた、人間の枠には入れておかれないものであった。ここに知る者はいないが、受肉した呪胎九相図の血と近い特性を得ている。
「人が吞めば力が湧きたち、鬼が呑めば自由自在に空を飛ぶ力をたちまち失うて、斬っても、突いてもするがままになりまする。よう言わはったもんやな。ほんまもんやないか」
今や祢宜は鬼毒酒の湧く生きた盃である。その盃が鬼と断じたからには、これを呑んだ加茂家のものはすべて毒を呑んだのと同義である。
少々猫をかぶって強請った。ご当主さまが立ったことですし、お披露目やないけど、皆さまに自慢できる場、あったらええなァ思て、とか言って。その場で供される酒に、少々血を混ぜた。ほどほどに参加者共に酒がまわったところで、「えいやっ」とした。それだけだ。
それだけのことで、酒を呑んだ者全員が倒れ伏して再起不能になった。特にひどかったのは赤血操術を相伝している者たちで、不幸にも祢宜の血は出来が良かったので普段から輸血を受けたり術式で扱う場面が多かった。侵蝕の度合いが高かったのである。皆一様にばたばた倒れ、一部は血を吐いて絶命し、さて、加茂家にはもうまともに呪力を扱える人間がほとんどいなくなってしまった。
庶子に追い落とされ、桜島に島流しになれている加茂憲紀、彼以外には。
「おまえ、おまえ。おまえは」
新当主、だったものが涎を垂らしながら呻く。祢宜は笑って話を聞いてやった。
「加茂家を裏切るのか」
「アホ抜かしい。俺は元から加茂憲紀に尽くそうって誓うただけで、こんな家あってもなくてもかまへんわ。俺とあいつがいて、あいつのご母堂がいて、あともう少しいてほしい人間がおったら、世界ごといらんねん。けど、お前らはちゃうやんなァ」
「……」
「加茂家、存続できるやろうか。みィんなくたばってもうた。呪術師として不能や。困ったなァ、こんなとき、相伝を継いだ人間がどっかにおらへんやろうか」
新当主だったものは唸る。呻く。まんまとやられた。脳を壊した人間が急死する前に上げるような呻きに、祢宜はどんどん気分がよくなる。産声だ。望んだ生活の。
「なァ、ご当主さま、だったひと。その席、憲紀に返してもろてもええ?」
祢宜は左手でスマホを構え、右手を挨拶をするように気兼ねなく手を上る。猫の仕草みたいに一度手首を曲げ、戻した。呼応するように男の首が頷く。動画の撮影を終了した。
人の70%は水だそうだ。すっかり酒の回った体では、酒も体液も血も似たようなもんであった。
「ははは。撮った、取った。証拠も言質も。これでだァれも怒らへん。怒られへんやないか、もはや希望やってのに。あとは片付けして、支度して、首長くして待っとるから。早う戻ってきぃや」
若。
隔絶された土地にいる男は、果たして喜ぶだろうか。不穏なツイートを最後にすっかり連絡がつかなくなってしまったから、もしや気を揉んでいるだろうか。何も心配いらない。安心して生きて帰ってきてほしい。それができる環境を作った。
祢宜はもう一度しばらく笑って、笑う動作に飽きた。片づけを、支度をすると言った手前、あるべき当主の帰還を待つ部屋は千紫万紅であったほうが良いだろうと思う。思って、見回して、醜悪さに呆れた。
どうやって片づけをしよう。いや、もう憲紀に手伝わせようか。ここまでしてやったのだし。
祢宜は呑みかけの徳利を呷って、空になった陶器をフルスイングで当主だった男に投げつけた。
既にこと切れていたので、呻きも上がらなかった。
作業用プレイリスト
ハレンチ/ちゃんみな
北斗七星/ビッケブランカ