糸がある。
気力の糸、緊張の糸なんて言うように、人の意思は糸に見える。
そう思っている。
イッショウは、立ち並ぶ兵卒たちを見るともなしに見た。そも盲目の身であるので、視る、というよりは、推察した。
兵卒たちはみな鉄棒を挿されたように背筋を伸ばしている。ようだ。糸が上に、よくよく澄ましてみれば震えながら、伸びている。時折糸が体に巻き付いて大きく膨れているものがいて、ああ自分を大きく見せたいのだろなァと思いながら、並ぶ兵卒たちの間を歩く。
おおむね「一糸乱れぬ」整列を続ける兵士たちの間で、異物がある。
暗闇の中、ただ上に向かって伸びる糸のなか、その糸はイッショウにのみ向けられている。
たかが糸、されど糸。それはともすれば槍でも刺されているのかと思うほどに頑強に、真っすぐにイッショウを射抜いている。
「……あいすいやせん、そこのあンた」
気に入った。知りたくなった。この糸の持ち主はどんな人間だろう。盲のイッショウは、視覚を情報で補う部分がある。気に入った人間がどんな人間か、見えている人間よりも知りたい癖があった。
イッショウが糸の先に声をかけると、並んでいた兵卒たちが一斉にそちらを向き、道を開ける。どよめき、空気の動き。
糸の持ち主はその場に立ったまま、「はっ」と返事をした。壮年の早いころ、といった男の声だった。
「どこのどちらで?」
「はっ、この度世界徴兵により准将を仰せつかりました。カクイチと申します」
「へえ……その、なんだ、所属? はもう決まってるんで?」
「まだです。買い手がつかない経歴を持っておりまして」
「さいですか。じゃあ……」
撚られていく。運がいい。イッショウは気を良くして踵を返し、しかし数歩歩いて止まる。
「すいやせん、カクイチさん。道案内を頼みてェんですが、かまいやせんか? 「来たばっかり」なもんで」
任命されて間もないとはいえ、海軍大将からの頼みである。この場にいる人間に正気で断れるものではない。カクイチもまた快諾した。
が。
「恐れながら申し上げます。階級は貴方の方がずっと上ですが、俺も「来たばっかり」です。地図見たところで俺も迷うと思いますが、それでもよろしいですか」
この強心臓の新人准将、言ってのけた。
「頼んだ手前、まして選んだ手前、迷ったとして文句なんざつけられやしょうか」
「はぁ、心得ました。……時に大将殿、普段杖はどちらで?」
「?」
「立ち位置を間違えちゃやりづらいでしょう。欲しいのはガイドであって介護じゃないでしょう? 利き手と逆の三歩後ろにいますので」
イッショウは瞠目する。
どこまで見えている。何が見えている? イッショウが考えながら「右」と言うと足音が近づいてきて、「わかりました、大体このくらいの距離感におります」と踵が床を叩く音がした。
「どちらに向かわれますか」
「……はは。カクイチさん、あンた、変わってると言われることはありやせんか?」
「よく言われます。どちらに?」
「食堂でも行きやすか。小腹が減っちまった」
「あるんですか? 俺そこからです」
「どうなんでしょう。知らねえで言ってみやしたが」
「そこからなんですね」
じゃあまずは案内板を目指しましょう、遠回りになるかも分かりませんけど。カクイチはハキハキ言って、次いで「八時の方向、二十メートル先が出口です」と言った。
この男、あまりに慣れている。買い手がつかないような経歴とは、どんな? どこで何をしていた? 興味と知識欲は増すばかりだ。
広間を出る直前、後ろの方で「バケモノと怪物が手を組んだ……」と聞こえてきたのには、気づかないふりをした。
***
「大将さん、今手に持ってるの爪楊枝入れですよ。一味はこっちです。ここに水がありますからね、お気をつけて」
「あいどうも。ところでカクイチさん、今日は何の面を?」
「般若です。「見」ますか?」
「ここでは止しやしょう。やりたかねェでしょう」
「ええ。そのために面をしていますから。お気遣いありがとうございます」
海軍が世界徴兵を実施してからしばらく、そろそろ徴兵された新兵たちも海軍での暮らしに慣れてきたころ、新参も古参も一向に慣れないものがある。
カクイチの面である。
イッショウがゆっくり蕎麦を食っている隣でカクイチは面の隙間から器用にストローを挿して茶を呑んでいる。周りで見ている海兵たちは、イッショウの言葉に応える声音の落ち着きと能面の激しい表情とのギャップで、何度も二度見を繰り返している。カクイチはうんざりしているふうに面の隙間からストローを抜いて息を吐いた。
「そろそろ道も覚えてきやしたし、無理に付き合ってもらわねェでも大丈夫なんですがね」
「爪楊枝と一味を間違えて振りそうな人を一人にしておけるとお思いなら、貴方随分見る目がないですよ。別に構いません。俺は性格が悪いですし」
「買い手のつかねェ経歴、ですかい?」
「ええ。事情を知ってる出世狙いの奴さんらは「どうしてお前が」の顔をしてますよ。愉快だなあ」
「あんまり他所様に目くじら立てられるようなことを言うんじゃあありやせん」
「反省してます。けど」
「許せるほど乾いてもねェんでしょう」
「ご明察」
カクイチは笑った。
最初に話した時に言った「買い手がつかない経歴」を、カクイチは未だイッショウに話していない。が、イッショウの勘が告げている。言われずともそろそろ知ることになりそうだ、と。
カクイチは「大将さん、予定の時間まであと十五分です」と言った。
「急がなくていいですよ。なんならゆっくり食っててください、先方には俺が名代ですって伺うので」
「さようで。そいじゃお言葉に甘えましょうかね」
「そうしてください。そば湯ここね」
「あいどうも」
「じゃあ行きますんで。戻れます?」
「迎えはいりやせん。迷ったら呼びます。あっしがあンたに頼んだのア」
「介護じゃなくてガイドね。わかってますよ」
電伝虫はコートの左ポケットね、と言い残す声音は朗らかで、声だけ聴く限りはとても生乾きの傷なんぞ抱えていないように思える。それでもカクイチは面をかぶるのを止めないし、着用する面も日替わりだ。日替わりにできるほどの数があるということだし、イッショウへの世話焼きの細やかさから金遣いが荒い性質でもないことはうかがえたので、それほど長い年月、面をつける必要があったのだと思う。イッショウは箸を置いて、すこし考えてから手を合わせた。
***
さて、盲人でありながら大将を仰せつかったイッショウはそれだけで「怪物」と揶揄されてはいたが、実感と実績を伴って怪物と呼ばれるきっかけとなった戦闘があった。
新世界を目指す海賊たちが必ず通る魚人島、その魚人島へ行くための必須工事を船に施す技師のいるシャボンディ諸島は、自然の神秘と景観を主力とした観光都市でありながら、常に流血がどこかで起きる最悪の治安地域となっている。海軍の注力も高く、小競り合いが絶えない。
ある日威力偵察に訪れたイッショウ以下一個師団の海軍は、運悪く正気も仁義もない海賊の無法を目の当たりにし、これをイッショウが許すわけもなく少々大きな戦闘へと発展した。シャボンディ諸島までたどり着いたとはいえ所詮は正気も信条もない暴力集団、大将イッショウ率いる海兵の前には有象無象と散りゆくばかり。
であったのだが。
「発砲止め!」
戦場に鋭い声が響いた。壮年の早いころ、といった男の声である。
敵味方入り乱れ、意思の糸が混然となる中、カクイチの糸はイッショウを射抜いていた。
射抜いている。つまり、イッショウを経由してさらに向こうへ意識が注がれている。
「止めていられるか、今が攻め時だ! イッショウさん!」
メイナードの声がする。実際に戦局は言うとおりで、今ひと押しすれば一網打尽にできる。それを、止めた。
何を考えている? 盲いた自分に、盲いていない海兵にも見えていないものが、カクイチには見えている? だとすれば何が? イッショウはカクイチの次の言葉を待ちながら、しかし仕込み杖を構える。
「大将さん! 技を出すなら四メートル前から二時の方向か三分待て! 要救護者がいる! 大将さんから十一時の方向すぐ! 一般人が巻き込まれている! 撃つな、撃つな!」
言いながら声がイッショウの横を通り過ぎ、近くで瓦礫を掘る音がする。
「ママぁ……?」
「ごめん、本当にごめんなぁ……! 俺たちがアホだからこんな痛い思いさせちまった、もう大丈夫だ!」
「カクイチさん」
「大将さん、お手数かけました! でも好きにやんないでくださいよ、まだいるかもしれない!」
「カクイチィ〜! なぜ止めた!」
「一般人が巻き込まれてるっつっただろうが! 人を守る気がねえんなら海軍辞めててめえで勝手に賞金稼ぎやってろ!」
大声だった。どんな戦場でも出したことのないような。カクイチは仮面の奥で目を吊り上げ、しかし子どもに聞かせないようにしっかり頭を抱き込んでやり、猛然と走りながら吠えた。反論すらも片手間に向かっている先は子どもの親のもとで、母親に子どもを託しながら謝罪と避難を伝えた。
いい人間だ。イッショウは思う。できた人間じゃないか。
彼のどこに「買い手がつかない」理由があるというのか。この人間性をしてなお買い手のつかなかった「経歴」とは何だ。
イッショウは残る海賊だけを的確に薙ぎ払い、残りを部下に任せて自身も母親と子どもの元へ下がった。
「……海軍の落ち度で、必要ない血を流させてしまいやした。カクイチさん」
「はい。医療班もう呼んでます。すみません、もう少しだけ辛抱してください。ご希望のものがあれば手配します」
「いえそんな……海兵さんに助けていただいただけで……」
「そのお面ほしいー!」
「こら!」
「……はは。そんだけ大きい声が出せたら命に別状はなさそうだ。……これをやったら、もう少し痛いの我慢して、お母さんの言うことよく聞いて、偉い子になれるか?」
「なるよ! 海兵さんみたいなかっこいい男になる!」
「ふふ……」
「救護班です! 負傷者は……」
戦闘の喧噪も止まないなか、カクイチはかすかに笑った。
「じゃあ、ちょっと目をつぶってろ……ほら。つけてやろうな」
「わあ、サイズ合わねえ! 何も見えないよ」
「ひ……!?」
「じゅ、准将……! その顔……!」
「見えなくていいんだ、今は。じゃあ、後は頼みます。行きましょう大将さん」
「……? ええ」
イッショウの視界には光がない。都度「今日は何の面を?」と訊かなければ、カクイチがどんな面をしているかもわからない。人の位置や銃弾の通り道などは見聞色の覇気で見えるが、目の形や表情なんかまでは見えない。
なので、カクイチが面を外した矢先にあちこちから悲鳴があがる理由がわからなかった。こと治安最悪地域のシャボンディ諸島において、多少の悪人面で慄く市民はそういない。それでいてなお、ここまで怯えられる顔を、カクイチはしている?
そろそろ「短くない付き合い」になってきたと思った矢先、知らないことばかりである。イッショウは子どもの頭を撫でてやり、その場を辞した。
人波が割れていく。船が海を進むように。海軍大将であるイッショウが身分を明かして歩くときは、いつもそうだ。
ひとつ違うことがあるとすれば、今日は人波を割るのが自分ではなく、すこし先を歩くカクイチであることだった。
***
カクイチは盲人のイッショウを心配して、会議以外の用事は自分が代理として出向く。どうしてもイッショウ本人の耳のみに入れたい話などがある時は道案内についてきて、帰り道にいつも「バリアフリーがクソもなってねえ所を大将とはいえ盲人に歩かせようって気概がマジ気に入らねえ」と吐く。
言い訳みたいに「欲しいのはガイドであって介護じゃないってね、わかってますよ。わかってますけど」と続けるその口ぶりは、しかし言い訳を述べる前までの声音は本当に心底、といったふうで、そのたびにイッショウは言おうとしたことを呑み込んでいる。カクイチは優しい。
イッショウは懐中時計の蓋を開け、針を撫でた。カクイチが用意してくれた時計は時針のうえに硝子の蓋がされていないもので、触れれば時間が分かった。時計を視認できないイッショウにとって大変ありがたいと同時に、こういう気遣いが身に着く場所にいたのだなあとも思う。
書類を取りにいくだけのはずが、ずいぶん時間が経っている。最初に声をかけたのをきっかけに、それ以降今更引継ぎをするのも面倒なほどカクイチがあれこれ把握してしまったのでイッショウは助手としてカクイチを登用しているが、彼以外にも部下はいる。その部下から特に報告が上がっていないことを鑑みると、さほど大事に巻き込まれたわけではないことは理解できる。
が。イッショウは先日のシャボンディ諸島を思い出した。
「奴さんらは「どうしてお前が」の顔をしていますよ」
「人を守る気がねえんなら海軍辞めててめえで勝手に賞金稼ぎやってろ!」
世界徴兵で徴兵された海兵は二人のほかにも大勢いるが、表向きはまだしも、長年海軍に従事してきた海兵たちをすっ飛ばして階級に着いた面々は、一部から相当反感を買っているらしい。
加えて、まだ本人からも聞けていない「買い手のつかない経歴」のこともある。大事ではないだろうけど、厄介なことに巻き込まれているんでしょうねえ。イッショウの勘は下手な事実より鋭い。部下に声をかけて、最近やっと歩き慣れてきた廊下を進んだ。
「随分と調子のいいことを言ってるらしいな、ええ? 先輩が階級ってもんを教えてやろうか」
「……」
「おーおー利口になったな、先輩を前に口が利けねえか! 仮面の下はバケモノだもんなあ、やっと身の程を覚えた」
「……身の程知らずなバケモンに必死こいて噛みついて。悲しくなってくる脳みそですね」
「何だと!」
喧噪は近いところで聞こえた。曲がり角の先で、紙と硬いものが落ちる音がする。カクイチを叩いたらしい将兵は笑った。
「人の姿は内面を表すそうだが、何度見てもおぞましいツラだな! 内面の表れか。ハハハハ」
「……こういうのを見ると、海兵になって良かったなと思うよ」
「ああ!?」
「あっしの部下に何をしてくれてんだい?」
醜悪だ。これを見たくなくて目を閉じた。イッショウが曲がり角から姿を現すと、将兵は「ゲェ!?」と悲鳴を上げる。
「カクイチさん。教えておくんな、何してんだい」
「何もありゃしませんよ。日常です」
「た、たたた大将藤虎……! す、すみません! 自分はこれで!」
「……」
「……」
「……お足元、いいですか? 書類落としちまって」
「あっしも拾いやすよ」
「大将さんにンなことさせたって広まってみてくださいよ。物理で俺の首が飛びます。これ以上立場悪くさせないで」
「……立場が悪いってのァ」
「見目が悪いもんで」
慣れたようにさっぱり言って、カクイチは「うわめちゃくちゃ時間経ってますね、申し訳ありません。戻りましょう」と普通の声音で言った。
先日、「戸棚に茶菓子隠したんならちゃんと覚えててください、すっかり忘れて悪くなった饅頭を処分するのは誰だと思ってるんです」と怒ったときのほうが、よっぽど激しい声だった。
「カクイチさん」
「はい」
「戻ったら、話がありやす。構いやせんね」
「ええ、今日は現状このあと予定ありませんし。なんの話ですか?」
「大事な話でさァ」
オフィスに戻ったイッショウは手早く人払いをして、カクイチを自分の正面に座らせた。カクイチの糸は今もイッショウに向かっている。
「……買い手がつかない経歴、ちゅうのを、教えてもらいてェんですが」
そうして。はじめて。
糸がブレた。
真っすぐ座っていた姿勢が崩れる。肩が前に出る。首を守ろうとする。
これは、カクイチの根幹にまつわる問いであった。
「……全て話して、罷免されることがないと約束してくれますか」
「あっしはただの大将。罷免も任命もできやしやせん」
「……」
カクイチは少し黙って、やがて苦しそうに語りだした。イッショウとカクイチの間に張られている糸は、張りをなくして撓んでいる。
「……母は、幼いころに海賊に殺されました。父は海兵でしたが頂上戦争の最中に死にました。俺は母が死んだのと同じときに海賊に顔の皮を剥がされて、まかり間違っても人の目に入れていい見目じゃあ今もありません。だので面をつけているんですが、最初の面をくれた人が、故郷の軍人でした」
「……」
「故郷は非加盟国なので、海賊の脅威から自分たちの力だけで国を守らなきゃいけない。天上金を払う余裕があったら、すこしでも国内の治安統制に、民に使いたい。そういう国でした。いつもどこかで火が上がっていて、悲しんでいる人がいる。でも、周りが駆けつけて支え合っている、そういう国でした」
「……いい国だ」
「ええ。だから守りたかった。少しでも側で、少しでも長く守っていたかった。あの国の人たち、みんなどっかしら怪我してるんですよ。腕のない人、足のない人、耳の聞こえなくなっちまった人、目の見えない人。いつも悲鳴が上がっている。でも、すぐに笑うんです。軍人さんたちが来てくれた、軍人さんたちだけに戦わせるな、俺たちの国だって。国家は人民統治のための一単位ってのは理解してますが、それでもみんなが家族みたいだった」
「……」
「そこを捨てて、海へ出ろって。海賊を殺せって。今まで守ってもくれなかった世界政府が言ったんですよ。冗談じゃないぞと。俺の戦い方は人を死なせないために伸ばしてきたんであって、人を殺すために鍛えてきたんじゃないんだ。その時は大暴れして断りました。ただ、二度目は、奴さん汚くて。戦艦に乗って来たんですよ。国中に蔓延っていた海賊なんかは一斉に逃げ出して、ああありがたい、平和になったと思って。でも、言いたいことはわかるよな? と。世界政府の戦艦をいつまでも非加盟国の沖合に浮かべとくわけにはいかないじゃないですか。どんなしっぺ返しが来るかわからない」
「……」
「徴兵を受けて、故郷を後にして数日後、……ふ、ふふふふ。今度は王下七武海が故郷を粉々にしたそうですよ。もう耐えらんなかったです。両親も故郷も奪った海賊を雇ってる組織にこれから勤めろってんでしょ。冗談にもできない。冗談じゃない。よくある不幸と言われちゃそれまでだが、俺にとっては世界がひっくり返るような事です。許せなかった、全部。誰の下にもつきたくなかったし、誰の上にも立ちたくない。なので、俺を迎えに来た戦艦をめちゃくちゃにして帰りました」
イッショウとカクイチの間にある糸は、摩耗して擦り切れているように見えた。疲れ果てている。やつれきっている。打ちのめされ果てている。ぼろぼろの糸が繋がっているのは、他でもないカクイチであった。
口の減らない、煮ても焼いても食えない、心臓にすら髪の生えたような、それでいてあれだけ細やかな気配りができる男が。こうも。
「それで、一層戦力として迎えたくなったんでしょうね。三度目の正直ってんで、三隻来ました。もう反抗する気概も理由もないのに。……こんなところです。……大将さん、俺はずっと思っていることがあるんですが」
「……カクイチさん。もう十分でさ」
「世界政府ってのはそこまで偉いんですってよ。俺知らなかった、守ってもらえたことなかったから。ほんとにそんなに偉いんですか? 世界のすべてを支配しているような顔をして、非加盟国と海賊なんかは支配できない、していないくせに。俺が全部壊してやろうと思ったんです。王下七武海なんて制度、結局人の犠牲の上に海賊を抑制しようなんて考えた奴は人間じゃない。海軍が振りかざしてる正義ってなんだよ、どこにあるんだよ! 全部ぜんぶつまびらかにして、全部壊して、全部作り直してやる! 故国のような、人が人を大事に思いあって生きていける世界のほうが絶対にいい、それで息苦しい奴がいたんなら消えちまえよ!」
「カクイチさん!」
告白の最後は慟哭で、カクイチの声はもはやギリギリ判別できるうめき声のような響きをしている。イッショウの呼び声に一度止まった叫びは、湿っぽい吐息を何度か繰り返して、やがて情けない声となって再び現れた。
「なのに俺、今、あんたと一緒に仕事してんの楽しいんです……」
嗚咽。へにゃへにゃで、裏返って、制御できなくなっている、普段の声からは想像もつかない情けない声だった。
本人は「よくある不幸」と言うが、よっぽどだ。カクイチを日頃から「バケモノ」と呼ぶ者は、カクイチの直面を見たことがあるのだろう。怪物や異形を見る機会が多くはなくとも少なくもない海軍にあってそれだけの謗りを受ける顔にされ、それよりも苦しかったこととして故国との別離と滅亡を挙げている。
なにがあっても自分は二の次なのだ、この男は。イッショウは、無自覚ながらも卓越したカクイチの献身に驚く。それが恒常化しすぎて、だので今になって湧き出た我欲に戸惑っている。人間おおよそその我欲に基づいて動くものなのに。
「……あンた、かわいそうな人だ。こっちが苦しくなっちまう」
カクイチの糸は、今やすっかり怯えている。千切れそうになっている。この糸を離してはならない。この男を放してはならないと思った。
イッショウが探り探りにカクイチの手を取ると、甲が湿っていた。カクイチの手はたくましく、使い込まれ、また傷跡に彩られた手だった。そんな手の持ち主が、落涙している。
「……なら、どうぞ罷免を」
「身の上がじゃありやせん、あンたの、そう考えるまでに育てられた考え方がかわいそうだ」
「……?」
カクイチは理解が及ばなかったらしい。面の内側で震える息を吐きながら、イッショウの言葉を待つ。嗚咽を仕舞っておくには、その仮面は通気性が悪いだろう、熱いことだろうと思う。
「人ァ案外、やりたいように生きられるもんです。苦しんでなけりゃいけねェ人生なんてありゃしやせん」
「…………! でも、俺は、バケモノですよ。顔がじゃない経歴がじゃない、本性がそうだ。国を守れたら、他の国やそこに住む人がどうなろうが知ったこっちゃなかった!」
「なかった、でしょう。今はそう思っちゃいないんでしょう? 今まで会ったこともないくらい、呆れるほど立派な人だ、あンたは。……そんな男に、一緒に仕事するのが楽しいなんて言われちまやァ、あっしも浮かれます」
「う……浮かれ、浮かれてるんですか? 大将さんが?」
「あい。ニッコニコにござんす」
「うわ……ホントじゃん……」
カクイチが面の奥で息を吐く音がする。鼻からフと吐くような、呆れてため息を吐くような、笑いだった。
イッショウは、取ったままだったカクイチの手が、やおら温まっているのを知覚する。
「ふ。ふふ。カクイチさん、ひとつ、いや二つ。頼みを聞いちゃくれやせんか」
「……内容を聞いてから判断しても?」
「ええ。ひとつめは、あンたがしたいように生きてくだせェ。誰の下にもつきたくなければ、誰の上にも立ちたくなければ、あっしの麾下から外しやす。海軍ごと辞めても構いやせん、その時は二度と接触を図ることのねェよう、赤犬さんに話をつけさせてもらいやす」
「……ひどい人だ、誑かしておいて。二つ目は?」
「二つ目は、……カクイチさん、あンたの顔が「見」たいと思いやして」
一度冷え切り、ゆっくりと戻ってきていたイッショウの手の中の熱が、ぴたりと止まった。カクイチは考えている。イッショウの「見る」は、「手で触れて形を知る」だ。
長いような、そうでもないような。イッショウは内心わりとバクバクであったが、カクイチはすこし冷たいままの手で逆にイッショウの手を取り、耳の後ろに導いた。
「……紐が、ここに」
凪いだ声だった。
失望したろうか、幻滅したろうか。イッショウの手を導いたカクイチの手は再びひやりと冷たくなっていて、しかし耳の後ろあたりが、驚くほど熱かった。
なんだこれは。イッショウは弾かれたように手を離したくなった。カクイチはひどく赤面している。なんだってそんなに恥じらう。その恥じらい方ったら何なのだ。これじゃあまるで。
まるで。
そこまで考えて、しかし思い直す。それほどの秘匿、それゆえの緊張。それほどの覚悟なのだ。まして、請うたのは自分なのだ。ここで退がれば、カクイチにひどい恥をかかせる。
「……あいすいません。直面、拝見させていただきやす」
「……お手柔らかにお願いします」
硬くて重い木の面は、カクイチが支えてくれていたので紐を解いても落ちなかった。桐の箱を開けるような心地で、面を外し、顔に触れる。
暗闇の中に、感触を頼りにカクイチの顔が浮かび上がっていく。木の皮みたいな感触。頬の肉がおおきく削げて、皮一枚の下に歯がある。鼻がない。すこし下って、唇がない。むき出しの歯に触れる。これは、ケロイドだろうか。縫い跡、ひきつれ、かすかな切れ目があると思ったら瞼だ。おおまかな形はわかってきたが、これに色がついたら、ああどんなに痛ましいだろうとイッショウは舌を巻く。
けれど、これはカクイチのオリジンだ。つらく苦しい道行きの始まりだとはいえ、こうしてイッショウの元へカクイチを導いてくれたもの、そしてカクイチを立派な人間に育て上げたもの。そして何より、今のカクイチの顔だ。むしろ気高くすら思う。
きれいな骨格にひどく薄く肉の付いた顔をしこたま撫で、顎先からイッショウの指が離れて、カクイチはほうと息を吐いた。安堵のような、惜しむような息。
「……ありがとうござんした」
「お粗末様でした。ふふ、どうです。噂に違わんでしょう」
「ええ、きれいなかんばせで」
「正気ですか?」
「全く。至って正気でさ。カクイチさん、あンたお声に違わず美形なんだね。盲ていなけりゃ一目でホレていいたやもわかりやせん」
「……ふ。ふは、はははは。そうですか。そうですかよ。そりゃ結構なことでございました」
カクイチは笑いながら面をつけなおそうと顔の前まで持ち上げ、ハタと思いとどまって結局止めた。「どうされたんで?」と問えば。
「いやね、直面で大将さんの顔を見たことなかったものですから。いい機会だと思って」
「お止しなさいや、あっしの顔のほうがひどいもんでしょう」
「冗談きついですって。やさしいお顔ですよ、色男。俺の分まで頬がふっくらしてらして可愛い」
「か……」
「いっつも蕎麦だ饂飩だ詰め込んでる頬、お可愛らしいと思ってます。はあ、面がないとこう見えるもんか」
「止してくだせえ、何が始まってるんで?」
「ふふ、ふふふ! 死ぬほど褒めてくだすったもんだから、仕返しをしようかと思って」
「意地の悪い人だね」
「斬新な自己紹介ですね」
ふふ、ふふふ。
何度も小さく笑いあって、睦言を交わし合って、頬をつつき合って、そうして明かした夜がひとつあった。
***
翌日、カクイチは随分早くにオフィスで待っていた。「今日は何の面で?」と訊けば、「高砂の神体を」と返ってくる。
「どういった時にかぶる面なんです」
「縁起のいい演目のときに」
「それァ良い。ところで、今日も来てくだすっているってェことは、まだここにいてくれるってェことでよござんすね?」
「ええ、なにだか呪いのようなものを、すっかり祓っていただきましたから。新しい人生が始まったような心地ですよ。だから高砂なんです。……これからも、末永く。不束者ですが、どうぞよろしくお頼み申し上げます」
衣擦れの音。カクイチが深く深く頭を下げている。傍目には見えはしないが、イッショウにはわかる。面の下はきっと笑顔だ。
後を追うようにイッショウも頭を下げると、カクイチは笑った。
「公務の前に、中庭に行きませんか。この時間ならまだ人気もないでしょう」
「ものすごいウキウキしてやすね」
「しますよ」
「そりゃ良いことで」
カクイチの道案内ではじめて訪れた中庭は、太陽と風の匂いがする広い場所であった。きっと細かく手入れがされている。
二人は朝露の含んだ空気でたっぷり深呼吸をした。
「大将さん、失礼なことをお聞きしますがいいですか? 目のことなんですが」
「構いやせんが」
「後天的ですか?」
「あい。見たくねェもんいっぱい見たから、手前で潰しやした」
「そうでしたか、御労しい。……じゃあ、色はわかるんですね。何色、と言えば」
「? ええ……」
なんだろう、と思ってたどたどしく答えたイッショウの手に、カクイチの手が被さる。「こちらに」と導くままに歩けば、何やらしっとり冷たい、柔らかいものが手に触れた。
「フクジュソウです。新緑の葉に山吹色の花が美しい。これが牡丹。奥からじわりと浮き上がって、花びらの先に近づくにつれ淡く薄くなるくすんだ紅色。花壇のレンガは海老茶で、草木の緑と差異があって互いが互いに映えて見える。若木の新芽が文字通り若草色をして、それまでの木賊色とはぱきっと色が違うのが面白い。今日の空は遠浅で、なんだか南の海みたいな色をしています」
「……何をしているんで?」
「大っ嫌いだったんです世界のこと。けど、やっとちゃんと、素直に綺麗だと思っていいんだなって。これを綺麗だと思う人を守るだけじゃなくて、俺自身が綺麗だと思っていいんだなと思ったので。そう思って見てみれば、案外ほんとうに綺麗なので。そのきっかけをくれた人に、少しでも伝わったらなァと」
すこし照れくさそうな声音で言うカクイチに、イッショウはあられもない四字熟語が浮かんだ。
良妻賢母。
冗談が過ぎるだろう。女房役とは言うが。
少し悩んで、しかし「……悪い気もしねェしいいか」とそのままありがたくカクイチの優しさを享受することにした。
あれが何で、これは何色……と続けるカクイチの声を聴きながら、イッショウは考える。目を閉じてしまう前にもし出会っていたら、自分は目を閉じなかっただろうか。しかし、目を閉じたからこそ縒られた縁である。イッショウは、カクイチの糸が、いつになくしっかりと自分に向いているのを嬉しく感じた。
「あ、イッショウさん。あそこ、かもめ」
花を遊んでいた手が、カクイチの手に連れられて上を向く。
あそこ、あれ、ああ飛んでいっちまうよ。
健やかな、無邪気な声が空に呑まれていった。この期に及んで視覚を惜しむようになった数奇が、随分愛おしく思えた朝だった。