あなたたちの疵になりたい

 関東から東北、秋田県に引っ越してまず驚いたことは、この時期すっかり散っている桜がやっとほころび始めていることだった。
 花火を楽しみにしていたが、学校がある能代は花火大会がある大曲からはかなり遠くて、ほぼ秋田の反対側、といったところだ。横手焼きそばとかも到底食べられそうにないし、土産に買えそうにもない。
 そんなことを考えていた三月、全てを後悔するにはもう遅く、しかしすべてがここから始まっていたのだと思う。


「一年坊主、ほれこしゃぐな。早えとごけ、監督の気ぃどご損ねでも知らねど」
「……? 」

 河田先輩はその時既にいわゆる「超高校級のプレーヤー」で、しかしここ山王工業高校バスケ部にはそんな連中しかいなかった。自分もその末席に加わりにスカウトを受けてここに来ているが、それにしても。
 それにしてもだ。寮の食堂で、俺は首を真上にしてやっと河田先輩の顔を見る。が、顔が見えない。先輩は飯を食っている俺のすぐ後ろにぴったりついてこちらを見下ろすので、ぐうっと首をそらして見上げても、体がでかすぎて、胸筋がありすぎて顔が下半分しか 見えていない。
 言われたこともそうだ。何を言ってるかまったくわからなかった。ここらへんの方言はいわゆる「だべ」みたいなやつだと思っていたのに、河田先輩は今一回も「だべ」を言わなかった。
 何もかもが自分の手に負えない。俺はとりあえず物の入ったままの口を覆って、席を立って向き直った。急いで飲み込んでから「すいません」と頭を下げる。縦割り社会で必要なことだった。

「違うベシ。ふざけてないで早いとこ食えって言ってるベシ」
「べ……」
「話こじれたべ」
「べ……?」

 深津先輩は一年生のときからレギュラーの、学年どうこうじゃなく大先輩だ。すっかり空いた皿を返却口に下げに行くついでに声をかけた様子だった。
 口調と方言の洗礼を受けてキョドっている俺を見て、先輩たちはちょっと笑った。

「わり、面白くてよ。マ慣れてくれや」
「ベシ」
「わ、わかりました」
「ああ、あとホントに飯は急いで食え、食えるうちに食え」

 河田先輩は俺をちょっと上から下まで見て、もう一度「食え」と言った。

「おめ細っけぇから、少しでも食っとかねえと厳しいし。でかくなれよ」
「今でこそこのサイズだけど、河田も入部したときはお前くらいだったベシ」
「は……はい! ありがとうございます!」

 直角に礼をした俺を見て、河田さんは呆れた顔をした。

「だがらはえぐけ。んでいっぺ練習していっぺ寝れ。へばな」
「は……はい! はい? が、がんばります!」
「誑かすなベシ」
「抜かせ」

 どうやら「へばな」というのは「じゃあな」とかそういう意味のようだ。深津先輩と連れ立って返却口に去っていった河田先輩は、遠目に見ても本当にデカい。俺があれになれるんだろうか……。自分の席に残った夕飯をちら、と見て、次いで隣に座っている同級生を見る。

「淳くん、よかったね。兄ちゃん、仲いい人の前でしか秋田弁出ないんだ」
「……美紀男がいたからじゃないの?」
「僕にはもっとキツいよ」
「……」

 先輩たちが消えて行った出入口のほうを見る。ほかにも次々食堂を後にする先輩たちは、時折屈むようにしている人も見える。俺らは、美紀男以外はみんな見上げるみたいにして入ってきたのに。
 俺も、ああなりたい。ああなるために来たのだ。
 万感の決意を新たにして、出入り口の上にかけてある時計が目に入った。
 食堂が閉まるまで、あと五分しかない。

「……ああ! みんな! 時間ねえ!」
「え? ふあ! 急がないと!」

 残っていた新入生全員で焦って飯を詰め込んで、飛び出すみたいに食堂を出た。







 能代は海沿いの町で、すこし歩けば雄大な日本海が出迎えてくれる。関東にいたころは太平洋ばかり見ていたので、この荒々しさにはまだ慣れない。
 慣れている暇がない。

「周回遅れは戻ってからシャトルラン追加だ! 遅れたぶんだけ増えるぞ! けっぱれ!」
「けっ……!?」
「頑張れ!」
「はい……!」
「下向くな息つらくなるから!」
「はい……っ!」

 河田先輩が一瞬だけ並んで、大きい背中がすぐ小さくなる。ストライドが長すぎる。どんなペースで走ってるんだあの人、俺もいつかああなれるんだろうか。ブワブワ浮いてくる汗を拭って、必死に足を前に出す。
 まだ空気が冷ややかで助かるが、これが夏になったらどうなるんだろう。
 本物の洗礼の手始め、外周ランニングに始まり、既にシャトルラン追加が確定している。その他基礎トレが免除されるわけはない。ただただ増えていくランニングと遅々として減らない距離に、のどかな日差しにクラリとしてしまった。「ほら追加だ、がんばれ、増えるばっかりだぞ」と一ノ倉先輩が背中を叩いてくれた。
 返事とも呼べない返事をして、のたのた足を動かしながら、海を見ていた。
 大きい。河田先輩の背中くらい。
 引きずるみたいにたどり着いたゴールで河田先輩は待ってくれていた。半死半生の俺にタオルをかけてくれる。駅伝みたいだ。

「ちゃんと上向いて走ったか?」
「は……」
「秋田の空は広いだろ」
「……は、い。ひろいです」

 空なんかひとつも見てる暇なかった。下を向くより景色が変わらなくて、このまま本当に終わらないんじゃないかと思って怖かった。
 けど、河田先輩が下を向くなと教えてくれたから、上を見る。
 かすれた視界に、先輩が笑ってるのが見えた。
 うれしい。先輩が笑ってくれている。俺がどんなに無様でも。




「う、ォえ……」

 飯が食えない。
 疲れすぎてちっとも入っていかない。頑張って詰め込んでも、少しもしないうちに吐き戻してしまう。ちっとも消化されていない、ちょっとしか食ってない飯が便器に吸い込まれていくのを見ながら、涙が出そうになる。
 ずっとここにいるわけにもいかない。一回吐いたから今度は食えるかもしれない。口をゆすぐために洗面台の前に立って、知らない人が映って驚いた。
 戻ると美紀男が心配そうな顔で待っていた。茶碗の中身は残りわずかで、自分の分と見比べて胃が重くなる。

「淳くん、大丈夫? さっきも……」
「心配させてごめん。大丈夫、食う。頑張る」
「でも……」
「大丈夫だって。ここでリタイアなんかしたくない。合宿はもっと厳しいだろうし、ここで耐えられなきゃ強くなんかなれない」

 せっかく美味しいはずなのに、なにだか酸っぱい白飯を機械的に詰め込む。何度も休んだり吐いたりを繰り返しているせいで、せっかく温かい食事が出されているのに、すっかり冷めきっている。
 なんとか食べたら、限界になる前に今日の授業の復習と明日の予習をやって、片付けと明日の準備をする。正直限界は超えてるけど、限界の先で落ちるまでやれることを全てやりたい。俺たちはバスケ選手じゃないから当たり前に授業がある。赤点なんか取ってみろ、王者山王の面汚しになりたくない。もう誰にも怒られたくない。河田先輩の迷惑になりたくない。

「峰岸。明日の練習は出られそうピョン?」

 片付けと準備を終わらせて気絶寸前の俺に、深津先輩が話しかけてくれた。出れる出れないじゃなく、出たいから出る。そう言いたかったのに、頭がかくっと揺れて、無言で頷いたみたいになった。

「スマセ……」
「いい、明日も外周だけどやれるピョン?」
「深津先輩は……今のメニューつらいですか?」
「つらいピョン」

 ばっさり言われてしまった。三年生になってもこの走り込みはつらいんだ。心臓の下にどかっと穴ができたようで、骨が重くなる。頭が重い。ちょっと俯いてしまった俺に、深津先輩はつづけて話しかけてくれる。

「だから心配してるピョン」

 ばっ、と顔を上げた。深津先輩の顔はいつもと少しも変わらない。けど、嘘だとしても言葉が優しかった。それだけでがんばれる。

「早く寝るピョン。寝ないと伸びないピョン」
「は、はい……! ありがとうございます」

 そうだ、深津先輩は河田先輩が俺に最初に言葉をかけてくれたとき横にいたから、あの言葉も知ってる。
 でかくなれ。がんばれ。ああ言ってくれたあの人の隣に立ちたい。今はそれだけでいい。
 それだけがいい。



  一ノ倉先輩はフルマラソンぐらいある外周ランニングで、一回も歩かないらしい。恐ろしいほど我慢強い人なのだそうだ。どんなに辛くてもすこしも手を抜かず走り抜くことであの忍耐が生まれていて、その忍耐のおかげで俺たちはシャトルランが増えている。腕が鳴る、と言いたいところだが、システムがおかしい。どうにかしてくれないと、そろそろ死人が出るかもしれない。
 俺とか。
 時期は夏のはじまり。俺は入学した頃より体重がガツンと落ちた。朝起きるのがほんとうに辛い。飲み物はなんとか飲めるので、麦茶とかポカリとか味噌汁とかで誤魔化している。
 寮生活のつらいところは食事の席に全員集合させられることだ。俺がすっかり食えなくなっているのはもう周囲にバレているし、先輩たちが俺を見る目も変わった。
 もう既に辞めていった部員たちに向けるのと同じ目を、まだしがみついてる俺に向ける。
 やめてほしい。
 そんな目で俺を見ないでほしい。
 まだ俺は負けてない。まだ俺は折れてない。
 まだ壊れてない。
 河田先輩の期待に応えたい。
 先輩たちは、部員が減ることに何も感じてないふうだ。自分が退部してもそうなのかと思うと、怖くて仕方ない。
 頑張りたい。河田先輩に、頑張ってるなって言ってもらいたい。
 ほんとうに、ずっと、それだけを支えにやっている。どうしてこんなに河田先輩のこと好きなんだろう。なんであんなにあの人の隣に立ちたいんだろう。考えようとしても、考えるためのエネルギーが足りないので、ずっと考えられずにいる。
 外周、残り十二周。美紀男の背中が見えて、ああ俺は美紀男よりも後ろを走っていたのかと思う。春先は美紀男に頑張れと言う役だったのに。チームメイトに迷惑をかけてはいけないのに。

「ふぁ……ひい、じゅ、淳くん。大丈夫? じゃないよね……」
「……うん……」
「もう少しで半分だよ、頑張ろう」
「……うん……」

 美紀男はやさしい。みっともない俺にわざわざ振り返って声をかけてくれる。
 関東より北とはいえ、秋田もちゃんと暑い。日照時間日本ワーストって聞いてたのに、暴力的な日差しが全身を刺す。
 美紀男は俺が「うん」しか言わなくなっているのを心配しているようだが、「ちゃんと追う、だいじょうぶだから」と言えば口をむにむにさせて前を向いた。
 俺より美紀男のほうがでかいからあつい。俺より先を走っている人たちの方がずっと動いてるんだから俺よりずっと暑い。河田先輩はあと何週あるんだろう。きっと俺より汗をかいてる。逃げ水が見える。光っている。太陽が照っている。光っている。目の奥が光っている。鼻の奥がツンとして、胃がグッと持ち上がって、顎の下に力が入っていて、ずっとよだれがあふれてて、汗が止まらなくて、指先がぴりぴり、足がしびれて、眩しくて、光っていて、光っ













 河田はペースを落とそうか悩んで、結局すこし上げた。運動量が上がるのでさらに暑くなるが、さっさと外周を終わらせてしまえばその分だけ休憩も増える。残り四周、そろそろ峰岸か弟の美紀男が見えだす頃だ。

「……なにしでらんだ」

 燦々と降る日差しを受けて光るジャージの巨体は、見間違えようがない。美紀男だ。しゃがみこんでいる。足でもやったか? 河田は手のかかる弟に一発くれてやるために更にペースを上げ、近づく。

「おらシャキっとせい、なしたよ」
「に、兄ちゃん!」

 美紀男は兄の姿を認めると、想像と違った顔で振り仰いだ。
 ぐっちゃぐちゃに泣いている。
 何事? と思って伺う――前に、美紀男がその巨体で覆い隠していたものを見せた。

「兄ちゃんどうしよう、揺すっても呼んでも起きない。血出てる……!」

 峰岸淳。一年生のなかでも小柄で、入部したての自分を思い出して声をかけた部員だった。
 小さい細いとは思っていたが、本当にこれが山王の部員か? 峰岸の体躯は、河田に焦りや驚きよりも先に疑念を寄越した。
 ガリガリだ。やせ細って、食いでがなさそうな身体だ。これで練習に、ついてきてたとは言えないが、それでも参加していた? この痩せ方おかしいぞ。なしてこいだばなってらよこいつは。
 峰岸は額と頬と鼻から血を流して、どうやら倒れ込んで盛大に擦りむいたようだった。跡が残りそうだ。受け身を取る余地すらない気絶。目はうっすら開いているが、隙間から黒目が見えない。力の抜けた全身が時折妙に突っ張って、呼吸が浅い。
 見たことないタイプのダウンの仕方だった。本能で恐怖すら覚えるレベルの異常。

「……美紀男、逆走して片っ端から三年に声かけろ。こごサ呼んでこい。まだ走れるべ?」

 自分一人の手には負えない。そう思った。
 河田は美紀男の肩をバチッと叩いてやる。友達の一大事で、この俺の弟だものな。美紀男はのんびり屋だが、あまりに体がデカいから急いで動くと周りをなぎ倒すのを嫌がるだけなのだ。炎天の野外、周りに人もいない。好きなだけ大手を振って走れ、そう言えば美紀男は薄い唇をグッと引き締めて立つ。

「う、うん兄ちゃん…!」

 大きく息をついて、巨体が駆け出す。その前に、美紀男は振り向いて訊いた。

「兄ちゃん、淳くん、大丈夫だよね」
「……、大丈夫」

 美紀男は再びグッと歯噛みして走り出した。丸っこくて大きい背中がドスドス遠ざかっていくのを見ながら、河田は口の中だけで「たぶん」と呟く。

「は……、はッ、うぐ」

 峰岸は時折体を丸めて力み、苦しそうに舌を突き出した。吐くものもないのに吐いてる時の動きをする。
 はち切れそうだ。暴れ出しそうだ。叫び出しそうだ。
 河田は胸の辺りが不快感でいっぱいになったのを誤魔化すように峰岸の上体を抱き起こして、何も出ないだろうが横を向かせた。吐いたものが喉に詰まると危ないことだけは思い出せた。
 なぜ不快なんだろう。そりゃ人がこんなになってるのを見て快いと思う感性は備わってないが。
 考えながら、河田は自分の手のひらにすっかり収まる骨ばった肩をタップしてやる。
 上体を支えてやっている左腕一本で、難なくこのまま全身を抱き上げてやれそうな痩身だ。二年後自分と同じ体格まで育つビジョンが見えない。河田は残る右手で峰岸の細っこい首に触れた。脈が不規則な様子はないが、早い。熱い。
 首筋を辿るように、暴れまくっているだろう胸の上に触れる。Tシャツ越しでも骨が感じ取れた。

「峰岸。おい、峰岸」

 返事はない。うっすら開かれた瞼が震えている。黒目は見えない。
 たぶんおそらく熱中症も疑われるので、日差しから庇うようにして位置を変える。その間にも返事はない。ただ正常でないことだけがわかる呼吸と、時折突っ張る手足がアスファルトをこする音だけがする。

「……おめ、頑張るったって、こごまでやらねでいいべや」

 いつだったか、夕食を前に「いっぱい食ってでかくなれ」と言った。峰岸は精一杯の声と顔で頑張ります! と言って、頬をふくふくさせていたのに。
 見る影もない痩けた頬は、悲しくなるくらい白い。
 なしてだ。峰岸。
 俺のせいなのか。
 絶対王者山王、その苛烈な練習に疲れ切って吐く部員は少なくない。それを苦に部活を辞めていく部員も少なくない。壊れるまで部活に励む部員も、決して少ないとは言えなかった。
 なぜかあの頃の河田は、否。今も、峰岸が「壊れるほう」に入ることが不思議でならなかった。

「……かぁた、せん、ぱ……」

 風の音にも掻き消えるような。ともすれば聞き落とす声だった。
 河田は思考の渦から顔を上げて峰岸を見る。
 震える瞼の下に、黒目が帰ってきていた。が、左右でバラバラのほうを向いている。まだ峰岸が帰ってきたわけではなかった。

「峰岸。わかるか、峰岸。大丈夫だからな」
「かァた、せんぱい。おれ、おれ……」
「なんだ? 聞いてる」

 体の震えで押し出される空気だけで喋るみたいな峰岸の声を聞き漏らすまいと、河田は顔を近づける。より強く抱くかたちになって、その痩身の硬さにつらくなりながら耳を澄ます。

「おれ、まだやれます……せんぱいみたいになりたい……あなたに言ってもらったから……」

 ーーだめだ。
 これを。ここにいさせては、だめだ。
 河田はゾッとして顔を離す。峰岸はどこも見ないまま微笑んでいる。

「かぁたせんぱ、おれちゃんとたべれる、ちゃんとはしれる、ちゃんとでかくなるから」

 幸せな夢でも見てるみたいに微笑んでいた峰岸が、ウ、と息を詰める。吐くか。それでもいい。河田がぐらつく頭を支えてやると、その拍子に峰岸の目から涙が落ちた。

「ちゃんとなるから……おれにがっかりしないでください……ちゃんとなるから……」
「…………ならねぇでいい……」

 呻いて、支えていた肩と頭を抱き込む。峰岸の血が、汗が、涙が練習着を汚す。
 河田はこのとき初めて自分が、「河田雅史」が高校バスケにおいてどういう存在であるか理解した。
 自分は絶望であるのだ。その力で他者の望みを挫くものだ。
 そしてそれは、自分にとっても。
 人を願ってはいけない。勝利のみを願って、それに尽くしていなければならない。
 でなければ、この不快感が自らを襲うから。
 近づいてくるいくつかの足跡を遠くに聞きながら、河田はこの不快感を漠然と痛みだと思った。




 峰岸は救急搬送され、その日の晩、河田は夕飯を残した。

「自分を責めるなピョン」

 寮の消灯前、廊下。切れかかった古い蛍光管の下で、深津に声をかけられた。河田は怪訝そうな顔をする。

「別に」
「嘘ピョン。自分があんなこと言わなきゃよかったって顔してるピョン」
「……」

 自分の顔が妙に濃い自覚がある河田は、しかし濃すぎるが故に表情に乏しく見えることも理解していた。
 それがこいつにはへこんでいるように見えたらしい。河田は少し笑った。

「お前にはそう見えるか」
「書いてあるピョン」

 深津は呆れた顔をして、乱暴に肩を組んだ。
 こいつがこんな絡み方してくるの意外だ。河田は深津の次のアクションを待つ。

「お前が自分を責めたいなら好きにするピョン。ただ、それなら俺も同罪ピョン」
「お前関係ねえべや」
「あるピョン」
「どごサよ」

 漏れ出た方言で聞けば、深津は少し声を落として答えた。

「峰岸、複雑な環境から来たヤツだったピョン」
「……どんな」
「本人にその自覚がないが、友情と親子を盾に小間使いされてたらしいピョン。あの気立てと根回しの巧さはそこ由来ピョン」

 だからオールラウンダーピョン、深津は付け足す。思えば峰岸は、動けていた頃は確かにどのポジションもできたし、細々とした準備がやたらよかった。何かあるごとに「お前がやる場面だったろ」と言われてきたのだろう。
 ただ、深津は「友情と親子を盾に」と言った。

「……あれもできろこれもできろを、四六時中ってことか」
「褒められる機会がほぼゼロだったピョン」

 肯定だ。

「それを聞いたうえで、甘言を流し込んでやれば、とか、思ったピョン」
「……ばがけ」
「返す言葉もないピョン」
「結局誑かしたのはおめだべや」
「……そこはちょっと全部納得はできないピョン」

 何故? と思って深津を伺えば、深津は空いた手で額を擦っていた。

「見てて怖いくらいだったピョン。欲しがりそうな言葉を恥ずかしげもなく言うから、教祖の才能でもあるかと思ったピョン」
「言ってたか?」
「自覚もないピョン?」

 あれこれアドバイスしてやって、「頑張ってるな」だけは言わないから、飢えさせるためにやってるのかとすら。深津は言った。

「……ふは」

 河田は深津の肩に手を回し、回されている腕を掴んで、廊下の壁にドシンと背中をつける。そのまましゃがみ込んだ。拘束されたままの深津も同様だ。

「俺今日、美紀男に人呼ばせに行ってら間、あいづのごど見ででよ。あいづ少し喋ったんだども」
「ンン」
「あいづ、ちゃんとなるがらっつって」
「ンン」
「これ、こごさ、いさせだら駄目だで思った。めごがってやりだがっただげなのにな」
「……これ、って思ったピョン?」
「? んだな」
「ふ……」

 今度は深津が笑った。河田は深津にしていた拘束を解いて二の句を待つ。

「ひとつも笑い事じゃないけど」
「おう」
「力加減がわからないで人を壊した神様みたいなことしてるピョン」

 ぱつん、と何かが切れる音がして、目の前が暗くなる。
 切れかけだった蛍光管がついに死んだ。それだけのことだったが、暗がりの中で見た自分の手のひらが、何故か今だけはひどくデカく思えた。
 河田は高校バスケというシステムにおける絶望のひとつだ。この手のひらはボールを弾き、望みを挫く手だ。
 そんな手で触れようとしたから峰岸は壊れたのだ。

「なぁ。お前の言ってらこどは正しいと思う」
「……撤回するピョン」
「しねでいい、元々俺が言っだんだ、でがくなれってな」

 深津が目だけで伺うようにして河田を見る。
 すぐに目線を前に戻した。
 練習着についたままの血を思って、河田は手で顔をべったり覆う。洗う気にも捨てる気にもなれないあれは、どうしたらいいんだろう。

「……俺、でげぇんだなあ」

 ばつん、ブレーカーの落ちる音。消灯時間だ。
 客電が落ちた。舞台の幕が上がる。
 ここからは演じなければいけない。求められる限り、息の続くまで、傷の塞がるまで、高校バスケにおける絶望「河田雅史」を。
 自分が「河田雅史」であるかぎり、人を願ってはならない。懸想してはならない。
 河田雅史が壊した人間は、天上天下、今後一切、峰岸淳。唯一その人のみ。そうあらねばならなかった。

 峰岸は入院、のち退院とともに山王を去った。親元に送還されたらしい。
 誰も峰岸と会わなかった。厳密に、深津と河田は見舞いに病室を訪れたのだが、真っ白い部屋で真っ白い峰岸が枯れ枝みたいに寝かされているのを眺めたばかりで、会話はできなかった。
 誰とも会わないまま、蜃気楼とか陽炎とか、そういうもののように峰岸は消えた。
 同じ夏、山王工業高校バスケ部は、湘北高校バスケ部に敗れ、早々にインターハイの舞台を去る。









 1996年の夏は、多くの人に傷を残した。
 時事を挙げればきりがないが、河田にとっては峰岸が山王を去った夏であり、山王工高が敗けた夏だった。
 あれから二十六年、大学バスケからプロバスケの世界に舞台と籍は移り、国内プロリーグで河田は戦い続けている。
 2023年春、世間はスポーツに賑わっている。
 バスケもまた。


 シーズン中のBリーグは、今年は例年より人が多い。会場に鳴り響くテーマ曲は、今季は岡崎体育とかいうアーティストらしい。ヌけた名前してんな、と河田は上着の前を緩めた。
 オフなので観戦に来た、というのが建前だ。本音としては、少々ストイックでいるのに疲れた。
 現代にあっても「河田雅史」は絶望の二つ名として健在だ。若い選手が輝かしい活躍を重ねていくなかで、その眼前に立ちはだかる脅威として機能し続けている。
 老いも衰えも実感している。だからこそ、オフも研鑽を重ねてきた。が、ここにきて、フと何もしたくなくなった。
 なので今日のトレーニングの類いを全部放り投げて、深津に連絡を取った。古巣の仲間は「俺試合観に行くけど、お前も来るピョン?」と返事をした。何もしたくなくて連絡した先から結局バスケの誘いが来て、また深津の語尾が「ピョン」に戻っていることに少し笑ったが、ただ見る側になるのも久しぶりだ。快諾して、そういえば深津はいま何の仕事してるんだっけと思う。

「チケット取ったけど、座席、隣埋まってたピョン。隣の人に交換申し出てくれピョン」
「マジで売れてんだな席」
「お前の功績ピョン」
「ばがけ」

 そう言って、発券番号が送られてきたのが先ほどだ。コンビニでチケットを出力して会場へ向かう。決済は深津が済ませていたので、今度飯でも奢ってやらなければならない。東京は数分おきに電車が来る。河田は電光掲示板を見ない癖がついた。
 東京のゲームは流石に豪勢で、日頃コートに立つ側の河田も観客側にいざ立つと「オオ」と声を漏らす。なんたって人が多いのだ。ここにいる人間のほぼ全てがバスケを見に来ている。良い世界だなと思った。
 指定された番号の隣、の隣に深津はいた。
 坊主頭まで行かないまでも短く刈られた髪は、しかし見慣れなさが勝る。前に会ったのはいつだったっけ。
 さて、懐かしさも一旦据え置き。河田は深津の隣にいる人間に席の交換を頼まなければならない。深津の隣に視線を移した。
 おや、と思った。
 長い。でかくはない。身長の伸びに内臓が追いつかなかったような、ひょろりと骨だけが大きくなったような男が座っている。

「すいません、隣の者なんですけど」

 近づいて声をかければ、男はパッとこちらを向いた。


 豪勢な演出も喧騒も吹き飛ぶ。深津も座席番号も全て忘れて、河田は男の顔を見た。
 影の落ちるアイホール。薄くて乾いた唇。丸く見開かれた目尻のかたち。
 痩けて切り立ったように見える頬と、うっすら浮かぶ傷跡。

「……峰岸」
「……ッか、嘘」
「意外と来るのが早かったピョン」
「ピョン!?」

 男は何度も深津と河田を見て、そろそろ細っこい首が心配になるあたりでやっと理解が及んだようだった。
 峰岸淳。あの夏山王を去った男。
 膝に乗せていた鞄を抱いて立ち上がり、峰岸は急いで二人に挨拶をと腰を折ろうとする。が、峰岸の席は二人の間で、河田は峰岸側から来たので双方に挟まれてワタワタしている。
 立った峰岸を見て、河田と深津は目を丸くしている。先に座っていた深津も席を立った。
 自分と比べたくなった。あの峰岸が、それほどに背が伸びていた。

「お、お久しぶりです……! え、いや本当に……」
「おがったな! 細っけえが」
「ほんとにピョン」
「はい! いえ! すみません一向に食えないままでして」
「いい、いい」

 河田は記憶の中よりもずっと高くなった峰岸の肩を撫でてやった。相変わらずひどく骨ばっているが、あの時抱いた肩より確かにしっかりしていた。
 暖かい肩だった。健やかな肩だった。道を違えても、自分と同じくあれから二十六年使い込まれてきた肩だった。

「……いい」
「はぁ……」

 峰岸は「あなたがそう言うなら」の顔で、とりあえず風に頷く。
 ばつん、客電が落ちる。

「とりあえず座るピョン」

 深津に諫められて、結局三人はそれぞれの席に座った。
 試合は面白かった。いい年した大人がきゃいきゃいワヤワヤ言い合って、最後に拍手を送った。









 三人とも薬指は飾り気がなかったので、じゃあこの後飯行かないか。不自然なほど自然とそういう運びになった。

「予約取ったピョン」
「はっや」
「早……」

 しばらく見ない間に深津の根回し力は主将の頃をゆうに上回っていて、河田は「じゃあ飯代は俺が持つか」と懐を思った。
 案内されたのは随分と隠れ家な居酒屋だった。掘り炬燵の席にでかい野朗三人でミチミチと詰まって、着々と飯を頼む。河田と深津が並び、正面に峰岸が座った。深津は「峰岸側のほうがゆとりもって座れそうだなぁ」と隣の筋肉だるまを思う。

「あと、だし巻き卵と牡蠣ポン。取り皿三つ。峰岸酒は飲めるピョン?」
「すみません、服薬してまして。ウーロン茶お願いします」

 きゅ、と持ち上がった八の字眉は慣れた挙動だった。
 河田はいつかの血塗れのシャツを思い出して、かすかに下唇を吸う。気づいた峰岸が言葉を続けた。

「いえ、お恥ずかしい話、煙草やりすぎて肺ダメにしまして。学生時代の話ではないです」
「本当か?」
「指詰めてもいいですよ」
「思考回路がデッドオアダイすぎるピョン。喫煙席のほうが良かったピョン?」
「喫煙所が淘汰された頃にやめました」
「本当か……?」
「本当ですよ」

 峰岸は「信用ないなぁ」とこぼして笑った。
 信用なんかない。健やかそうに笑うさまを眼前で見ていても、河田の中では大丈夫と言い続けた末にブッ壊れて消えた男なのだ。こうして笑うさまを見ていることすら信じ難い。うっかり幽霊だったりしないか。河田はどうにも嬉しさと警戒がないまぜになっている。
 順次届く料理をつつき合うにつれ、久しぶりの酒が進むにつれ、ないまぜに混乱したまま河田は酩酊だけが色濃くなってきた。その実この場で1番理解が追いついていないのは河田だ。火照る息が声になって出た。

「そういえばおめだぢ今何の仕事してらんだ」
「河田先輩は……チームどこですか?」
「俺がぁ?俺はぁ……」

 すっかり慣れたチーム名を呟けば、正面から固い音がした。峰岸が箸を取り落としている。

「なしたよ」
「そ……れは本当にですか。今そこ所属なんですか」
「んだ」
「そうでしたか…………」

 峰岸は額を手でべったり煽って息を吐く。隣からもため息を感じて見てみれば、深津も同じようにやっていた。

「なん、なしたおめだぢ。今の所属ダメだが?」
「ダメじゃないです、何もダメじゃないです。ダメなのは俺です」
「俺もピョン……」

 深津までもがガッカリする意味が全く分からなかった。
 河田は音量調節が壊れた声で「なんだお前たち」「なんでそんなガッカリすることがある」「俺の知らない何を知ってるんだ」と捲し立てた。だってなんかズルかった。
 やんややんや騒ぐ河田を御して、居住まいを直した深津が自分を親指で指す。

「まず、俺。JPBL、あと五くらい昇進したら理事ピョン」

 硬い音。河田は箸を取り落とした。
 国内プロバスケリーグ運営団体であと五つ昇進したら理事? どのくらいの立ち位置かよくわからないが、よっぽどなポジションにあることだけはわかった。本気で言ってるのか? こいつならやりかねないから怖い。
 峰岸が「いつもお世話になってます」と深津に頭を下げる。思うところはあるがそうだろうし、いやしかし自分のほうがよっぽど世話になっている。驚きすぎて何も言えないまま河田はとりあえず酒を口元に運ぶ。
 深津は次いで峰岸を親指で指した。

「で、峰岸。お前の所属してるチームを運営してる会社の経理部ピョン」

 硬い音。グラスが落ちた。

「わあ! 先輩これ!」
「……お前」
「……河田」

 酒のグラスを取り落とした河田に、峰岸は慌てて拭くものをかき集める。おしぼりを差し向けた手を咄嗟に引っ掴んで、しかしその手を深津が止めた。
 間抜けた円陣みたいだった。あの頃叶わなかった夢が歪に叶ったことがひどく苦しい。

「えー、あー。アハ。なんか、結局あの頃と似たような感じになってましたね。世間って狭いな」

 峰岸が笑う。頬の傷跡を引き攣らせて笑う。
 苦しかった。河田は久方ぶりに人を願っちまって、その反動をすっかり忘れていた。防御姿勢も取れちゃいない。
 苦しい。痛い。が、快い。
 抜歯が済んだみたいだ、と思った。




 ここまでオフらしいオフは久々だったらしい河田は、あれからみるみるグニャグニャになった。タクシーを呼ぶ頃には半分寝落ちていて、何を問いかけてもムニャムニャ返事をするし、その返事も濃い秋田弁だった。深津と峰岸は苦笑する。飲食は結局深津が払った。

「何から何まですみません」

 車が着くまでの間、店を出る支度をしながら峰岸が言う。
 ほんとだよ。深津は思った。
 「仕事」の話になって、所属を改めて聞いて、やっと繋がった。河田よりひと足先に峰岸と仕事で再開していた深津は、自分の滑稽さに唾を吐いてやりたくなる。

「まんまと踊らされたピョン。これはお前が持ってけピョン」
「どこ住んでるか知らないですよ」
「ンン……大曲市ぃ……」
「今もうないじゃないですか」
「酔っ払いにマジレスするなピョン」

 お冷のグラスはすっかり汗をかいていて、倒された座敷からは遠い厨房でも洗い物の気配がする。いろいろなことが潮時だった。

「……峰岸。服薬は?」

 間抜けた語尾のない問いかけだった。深津はコートにいる時と同じ顔で、あの頃よりも経験値を積み重ねた顔で峰岸に問う。
 峰岸は一瞬呆気に取られた。が、呆気に取られた顔のまま言う。

「ア、もういいですか」

 峰岸は弾かれるようにコートのポケットに手を突っ込んで、少々大ぶりなケースを取り出す。食べ終わった皿も片付けられて広々とした卓に広げて、片っ端からパキパキ包装を破って、一部はそのまま噛んだ。

「すいません、ふた口ください」

 左手にありったけの錠剤を集めた峰岸は、右手で河田の前に残っていた緑ハイを掠め取って、約束通りふた口でありったけの薬を飲み下した。
 胃を抑えて俯く峰岸を見て、深津はつとめて無表情を保つ。こいつ、想像の五倍呑みやがった。手馴れ方からおそらくいつもこの量か、いつもこの呑み方をしている。
 深津は鉄面皮を保ちきれず、また保つべきだとも思わなかった。唇の端をやわく噛む。たぶんこれが一番峰岸が喜ぶ顔だと思った。

「聞いてたより悪い」
「思ってるほど悪くないですよ」
「2割ダメにしてるのにか?」
「見ます?」
「見たところで医療はわからん。惚れた人間にやれ」
「なんでもわかりそうなのに」
「なんでもはわからない」

 峰岸は笑った。
 深津にはなんでもは分からない。ただ、峰岸が復讐をしたいのだろなとは思う。河田のグラスを峰岸から遠ざけながら、視線は外さなかった。
 外せなかった。
 だって怖い。考えを読みきれない。

「復讐しようと思ってるとか、考えてますか?」
「違うのか?」

 ハッハ! と峰岸は破裂したみたいに笑う。あの頃の峰岸はあまり笑わなかった。今見る顔はあまりにもただあの頃から歳をとった峰岸なのに、全部知らない顔だ。

「河田さん寝ちゃってますけど、ずっとお伝えしたかったことがあるんで今言いますね」

 峰岸は腹を抑えて蹲ったまま息を吸う。

「今でもあなたたちのことを尊敬しています。思っています」

 あの頃、顔を見て何度も聞いた「大丈夫です」より。
 今顔見えないままに聞く言葉が、ずっと血が通って聞こえる。
 今でも、と峰岸は言った。いつからなんて聞くまでもない。見えなかっただけで、見ようとしていなかっただけで、見る暇もなかっただけで、峰岸は最初に声をかけたあの晩餐からずっとこうなのだ。
 薮をつついて蛇が出た。深津はやっと、自分が何を拐かそうとしていたのか実感を伴って理解する。

「信用するぞ」
「俺が悪かったんですか? 俺だけが? そうお思いならそうでもいいですよ。あれから俺があなたたちに訊きたかったのは「元気にしていますか?」だけで、ただ「元気にしてる」って言ってもらえたら。あとはなんでも良かったんです」
「……何を尽くしても無為だ。お前が言われたいこと言うよ」
「元気にしてそうなので、もういいです。そういうことは懸想している人に言うべきですよ」

 懸想。
 思いならかけてきた。
 ただ、バスケットボールほどではなかった。
 それは河田もそうだろう。あの頃の俺たちは、バスケットボールのために生きていた。
 今も。
 そのための教えを受ける場所で出会い、別れ、育ってきてしまったから。

「車、来たみたいですね」

 峰岸はさらりと伝票を盗んで行った。




 恵体を持つ人間は、その自覚を持つべきである。
 前後不覚な河田をなんとかタクシーに乗せるべく両脇から担ぐようにしても、日本人離れした体格の肉だるまは悲しくなっちまうほど重い。

「自分で立てピョン……」
「しゃれにならないですね……!」
「んが……」

 運転手が開けてくれているドアに叩き込みさえすれば、あとはなんとかなるだろう。あと数歩、数メートルが無限に思える。峰岸はトンチキな痛みを訴える胃を思いながら、しかし慣れたもんだったし、この二人といれば壊れるほどの無茶ができてしまう。
 あの頃みたいだった。

「みねぎし」

 担がれた河田がフと自分で立ったかと思うと、肩に回されていた腕を悪用した。首を抱き込んで、骨ばった鎖骨に額を擦る。

「かッ、河田先輩」
「んむ」
「酔ってます」
「酔っでね」
「酔っ払いはそう言います」

 唸る河田の隣で、深津が静かに河田から離れようと腕を解く。

「おめが生きててくいでえがった。すまねがった、大変だったべ本当に。俺が壊したがら」

 おれ、ひとをころしだと思っで生ぎて来てらったがら。
 理性なんかひとつも帰ってきてないまま、河田は言った。やけに明瞭に。
 深津も目を見開いている。言われた峰岸はといえば、数倍はくだらない。

「じゃあ、壊した責任取ってくれますか」

 峰岸は笑った。今日はずっと笑っているが、それでも、今日一番。あの頃と同じ、やわらかな笑い方をして。

「なんて言える歳じゃなくなってるんですよ、俺たち」

 年甲斐なく甘えていた河田はもちろん、深津にも、そのとき峰岸がどんな顔をしていたかは見えていなかった。
 深津が頭を巡らせてそちらを見ようとして。
 衝撃、三度。
 とてつもなく重いものに押し潰されてすっ転んで、もしくは天地もわからなくなって、下だろう向きに手をついて見れば、どうやら車内だ。深津の上に乗る重いものは河田で、その向こう、夜明かりのなかに峰岸が立っている。二人はドアを開けたまま待っていたタクシーの車内に突き飛ばされたらしい。

「これはお前が持ってけって言ったピョン」
「内臓ゴミ人間にその人担げるわけないじゃないですか」
「ほんとに何がしたいんだ? 本当のことを言ってくれ」

 やっと聞いてくれた。だが、これを言うのは気恥ずかしい。
 そんな顔をして峰岸はーー





 どうしたらいいか、全員わからない。
 どうしたらよかったのかわからない。剥き出しの気持ちをぶつけ合える時分はとうにすぎて、しかしすべてをぶつけなければ気なんか済まなかった。すべてをぶつけて済むような気骨でもないのが、もっと救いがなかった。

 深津は結局タクシーの中で考えている。
 どうすればよかった。どうにもならない。何を言えばよかった。何を言っても無駄だ。
 煮詰まった思考が「誰が死ねばいい?」まで考えても、誰が死んだところで結局事態はひとつも好転しないことも理解していた。
 河田は突き飛ばされた拍子に、本格的に寝入った。肝が太すぎる。
 先ほどまでの今日一日は、河田の視点から見れば、好きに酒を飲んで、長年消えないデカい傷がやっと消えて、ずっと腹の中にあった痛みを吐き出した日だ。だのに、寝こける顔は険しい。今まさに流血する傷でも負っているような表情だった。
 深津にとっての河田は、ツーカー、といった感じだ。考えていることが手に取るようにわかる。考えていることが過不足なく十全に伝わる。
 ならば、深津の中で渦巻く感情が、河田の顔に浮かんでいるんだろう。
 それでこの感情は、お前の考えをどこかで勝手に感じ取っているだけなのだろう。そう思うことにした。
 そうじゃなきゃつらかった。
 こんな目に見えない痛みが、峰岸を生かしている医療で解決できない痛みが、まさか自分の身のうちから湧くなんて。それに苛まれるなんて。こんなにも苦しいなんて、深津は知らなかった。
 眉を顰めて目を閉じる。心臓の近くの骨がことごとく軋むようだった。
 窓から弱く差し込んで瞼を流れる街灯が、せめて別れ際の峰岸を塗り潰してくれればよかった。あの男はきっと今の会社を辞めて、またどこかへ消えるだろう。次行方が追えなくなったら、きっとほんとうに死んでいるだろう。
 ずるい。
 どうしたら良かったのか、どうすればいいか何もわからない。
 瞼の裏で消えない峰岸もそうだといい。
 何度街灯に舐められても消えない峰岸が、もう一度言う。




 あなたたちのきずになりたい