可視光

 人類の歴史が5000を超えたころ、宇宙のかなたから友人が現れた。
 その友人たちは地球からうんと遠いところに住んでいて、細かいことを言えば天文単位を何十も何百も重ねた果てにある水の星に住んでいて、彗星に乗ってここまで遠い旅をしてくるのだそうだ。
 ヒトに近い形姿と高度な文明と知性は、ヒトと友好を結ぶのに少しの支障もなかった。人類は友人たち――正式名称はヒトの声帯構造では発声できないので、「オールト」と呼ばれている――と公的、ないし私的な友好を結んだ。
 それが、だいたい百年くらい前の話だった。



 西暦5086年 オセアニア 条例自治特区トウキョウ



 この部屋の主は相変わらず致命的に片づけができない性分で、入り口のドアはすぐ近くまで押し寄せたゴミ袋(これでもマシになった。以前はむき出しで山になっていた)がつっかえて、人が横になってなんとか通れるほどのスペースしか開かない。
 カーテンは永久に閉められ、床が見える場所が無い。男はデリバリーの袋をすこし掲げながら、沼を進むように歩いた。

「おい。飯届いてたぞ」
「ン」

 部屋の主はPCの前で死んでいた。生きているが、正しく生きているわけではなかった。死んだように眠っていて、泥沼の岸からちょっと伸ばした指先で返事をしたようなものだった。

「そろそろハウスクリーニング入れるぞ。捨てられたくないもの段ボールに入れて避難させろ」
「今そんなことやってる余裕ない。具合悪い」
「じゃあさっさと納品しろ」
「やってみてから言ってよ。果てしないぞ」
「どのくらい?」
「MD5ハッシュを再解読するくらい」
「ゲボだな」
「ゲボなんだよ」

 部屋の主は脂ぎってぼさぼさの頭を突っ伏したまま、デリバリーの袋を受け取ろうとする。男はその手をさっと絡めとって、惚れ惚れするような手さばきで部屋の主を担ぎ上げた。

「ぎゃあ運搬、人道的配慮が無い。連行だこんなの」
「そうだ。風呂場まで連行する」
「刑期はぁ?」
「ドライヤーと飯が終わったら解放しよう」

 部屋の主は特に抵抗もせずひん剥かれ、頭から浴槽に投げ込まれても文句は言わなかった。文句を言える立場にないのを理解しているからである。男はスーツの袖をまくって、部屋の主を叩き込んだ浴槽にボディソープのボトルを逆さまにした。部屋の主は半分死んだまま体を揺らして湯と洗剤を攪拌する。

「パパ。今日は泡風呂していいの」
「今日だけだぞ」
「わあい」

 クソダルい三文芝居だったが、いつものことであった。

「進捗は?」
「ダメ。理研から解析結果が来ないとどうにもできない。この時代に俺の仕事に割り振られたスパコンが富岳なの狂ってるよ」
「炭素同位体の周波数からざっくり予測立てておけないか」
「それをやってるけど、結局理研から結果が来ないと路線が絞れない。理研待ちしかない」
「ホメオボックスのほうの研究どうなってる? オールトの耳殻構成が違うとまた聴こえ方も違うんだろう」
「そこは結果が出た。奇跡的に人間と大差ない聴覚と付随する音感、感性らしい。だからメロディは対人間と同じでいい。友好条約採択されてから百年経ってやることじゃないよ」
「なるほど。オールトと人間の遺伝情報でホメオボックスの概念が持ち出せること自体ツッコミどころだが、ならば、あとは本当に響き方か」
「そおなるわね」

 湯船から湯と泡を掬っては頭の先から流す。トウキョウの空には頻繁に光化学スモッグが発生するので、昼日中でも日の光はひどく朧気である。頼りない光が入り込む浴室は荘厳な教会のようで、実際やっていることは洗濯なのだが、この中で見れば洗礼のようであった。
 ギトギトの頭に何度も石鹸と湯をかけて、男はくり返し部屋の主の頭を洗う。労うような手つきだった。

「ユウト・カミキダにも限界はある、か」
「シンゲン・ヒラタには限界ないのにね」
「わりと限界だぞ。部屋を片付けろ」

 カミキダは湯船にぶちこまれてからずっと、右手のタコをさする癖が出ている。気づかないふりをして、ヒラタはカミキダの頭に冷水をぶっかけた。カミキダの悲鳴は、随分と長く尾を引いて響いた。



*****



「そもそも地球はともかくオールトの雲出身にピアノ協奏曲を書けっていうのが無理難題なんよ。呑まんとやってられない」

 カミキダは手厚く髪を乾かされながらプリンのカップに注がれた飲物をチマチマやった。きれいな器がこれ以外になかったためである。他は全部茶渋まみれか飲みかけのまま放置してカビが大発生していた。漂白しないことには使えそうにない。この家に漂白剤などあるわけがないが。

「それは少なくとも納品してから言ってもらいたいな」
「少なくないときはどうなの?」
「来世だ。下戸だろう」
「せちがれー」

 カミキダが呑んでいるのはモクテルだった。カミキダは絶世の下戸である。アルコール消毒すら酔う体質のくせに部屋は汚い。本人は「免疫をつけるため」と言っているがそれもそれでどうか。天才はやはり頭がおかしい。ヒラタは無風ドライヤーのバッテリーを確かめながら思った。

「アースノイドとオールトが連弾するピアノ協奏曲は、ハレー式典の目玉だろう。生まれる前からそうだ」
「式典んときどの放送支局も中継やるから好きなアニメの放送がなくなるのが嫌だった。まさかこの年になって携わるなんて」
「オールトの雲から地球までの超長距離星間航行をやってのける連中だ。ここで恩を売っておけば、航法のタネでも明かしてくれるかもしれんぞ」
「あーね、アイツら絶対時間航行使ってるよね。三次元の生き物じゃん、三次元の理屈で生きろよ」
「音楽のために次元を超えた天才がよくも言う」
「愛の前に不可能はないけど、俺が好きだったのは音楽であって楽曲ではないんだよ」
「おいバッテリー半死半生じゃないか。ワイヤードにするぞ」
「嫌だうるさいじゃん」
「なら普段から使うものは充電しておけ」
「へいへいへい。耳殻スピーカつけてていい?」
「好きにしろ」

 カミキダは耳の後ろをチョイといじって、耳小骨の上ほどに内蔵したAV機器(骨伝導イヤホンのようなもの)を起動した。本来複数の通話や音楽を聴きながら他者と会話ができるように開発されたものだったが、カミキダのそれは使用者の魔改造により内耳がギリ破壊されない程度までの大音量を実現している。カミキダは無風だろうがドライヤーの音が嫌いだそうで、頭を乾かしてやろうとするたび文字通り骨が震えるほどの大音量で音楽に逃げる。骨が震えているので触覚が鈍くなっており、終わっても気づかないことが多い。幸か不幸かAV機器はオンライン媒体なので、頭を乾かしてやるほどの至近距離にいながら「ドライヤー終わったぞ」と電話をかける必要があった。
 つまり、ヒラタが電話をかけるまで、カミキダは絶対に外界と干渉しないのだ。

「……なあ、天才」

 シンゲン・ヒラタは、所謂SPであった。警官である。公安である。国家間どころか星間規模の式典、さらにその目玉たるイベントに携わる重要人物、稀代の作曲家ユウト・カミキダの警護を任ぜられている。
 オールトの雲の向こうから来る宇宙の友人たちは、まさしく地球の生き写しのような星の、水の中に生きている。形姿は人間と果てしなく近いが、倫理観や言語はまったく違った。人間とオールトの両方に演奏出来て、かつ感動させる楽曲を書けと言われて、普通は断る。現に今までの式典ではオールト側が作曲したもの(かなり手加減されている)が用意されていた。
 百年の節目に、ようやく人類側から選ばれた作曲者。何があっても失われるわけにはいかなかった。

「お前、もう少し楽な道を生きてもよかったろう」

 弱冠成人を過ぎてわずかにして人類の希望扱いをされるこの男は、マァろくな育ちはしちゃいなかった。時は西暦が五千を過ぎたころ。そもオールトの雲より外に知性体が存在することを感知したのは、殖えすぎたために宇宙への移住を余儀なくされた人類たちであった。
 オールトの技術力によって革新が起きるまで、宇宙移民の生活は文字通り生き地獄であった。移住と言えば聞こえはいいが、ただしくは棄民であった。
 ユウト・カミキダは宇宙移民のなかでは珍しい純日本血統で、それは今なお存在するゲットーでの生まれを意味していた。掃き溜めで生まれたカミキダには気づいた時にはもう親も兄弟もなく、音楽だけを頼りに生きて来た。オールトによる技術革新があっても所詮運営は人間が行っているから、スペースノイドの言う「宇宙は地獄」って大体ほんとにそうだよ、嘘つくメリットねえもん、嘘が嘘ってバレたあとのこと考えたくもないよ、とはカミキダの言である。

「俺と代わればよかったろう。神にも等しい天才なんだろう。神にも等しいなら、できたんじゃないか。お前は、うつくしいから」

 その才能を見初められたカミキダは、生まれて初めての重力に歯を食いしばりながら地球で曲を書いている。自分たちを宇宙へ棄てた国へ、星へ捧げる曲を書いている。
 対してシンゲン・ヒラタは純然たるアースノイド、地球生まれ地球育ち、本籍地も地球なら現住所の地球の人間であった。連邦政府オセアニア自治区の高級官僚の家に産まれ、人は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と教えを受けて西暦を重ねて来たと教え込まれて育った。
 オールトがもたらした「とおい宇宙の友人との出会い」は、ヒラタにとってカミキダを意味している。
 こんな人間がいたのか。人類は何も変わっちゃいないんだ。歴史の教科書ではいかに旧人類が愚かかを学ぶけれど、自分たちとてその末裔であるからして。
 今まで構築してきた価値観の完全崩壊。ヒラタにとってカミキダこそが、オールトの雲からやってきた彗星であった。



 時折ヒラタが世話を焼いてくれる際、聞こえていないふりをすれば喋りだすことにカミキダはとっくに気づいている。「また始まったな」と思いながら、カミキダはただ音楽に没頭するふりをした。
 生真面目な男だと思う。齢も三十を超えた人間で、こんなにもエネルギッシュな人間を宇宙では見たことが無かった。ガイア論は正しい。ヒラタはきっと何度誰に生まれ変わっても人を助け、人に尽くし、正しいと思うだろう人に殉じていくのだろうと思う。

(だから僕も頑張るし、だから僕は誰とも代わらない。これは僕だけの復讐で、享楽で、人生だ)

 お前たちが大昔棄てた人類が、今地上にいる誰にも書けない曲を作る。これっきりではなく、気が済むまで何度でも。これから何十年だってハレー式典の曲を書いてやろう、それが僕だ。
 ただ、そんな面倒を誰かに強制するのは嫌だった。生まれて初めての重力は月の六倍で、ほぼ無重力空間で生きて来たカミキダにしてみれば常に信じられない重圧が襲いかかっている。これから得るだろう栄誉はともかく、この苦痛と、これまでの苦痛を誰かに背負わせるのは嫌だった。そして、二度目も絶対に嫌だった。

(こんなこと何回もやってやるもんか。一回きりでいい。ヒラタさんは何度生まれ変わってもこうだろうけど、僕に付き合ってくれるのはこれが最初で最後だろうし)

 聞こえていないだろうと思ってブツブツ祈りを唱えている背後の男が、来世もこうして世話を焼いてくれる保証がない。それだけが、カミキダが今生を精一杯やる理由だった。
 空想上のティルナノーグ、地球に降り立ったカミキダを待っていたのは好奇の目で、やはりアースノイドは聞いていた通りスペースノイドを「同じ形、同じ染色体をもつ、意思疎通が可能な別種の生き物」だと思っていて、宇宙も大概地獄だが、逃げ場のない地球の方がよっぽど地獄だと思った。
 掃き溜めに鶴。というか、掃き溜めの鶴。カミキダはヒラタの第一印象をそう記憶している。
 地獄に咲く花だ。地獄然として咲くのではなく、そこだけが楽園のまま咲いている。

(うつくしいものは目に見えないからうつくしいんであって、ヒトは音楽や絵画から受け取ったエッセンスを「美」とくっつけて、うつくしいと、思い込む)

 カミキダは美を世界中の妖怪や神話と近しい「集合的無意識」だと理解している。センスオブワンダー。人間のどこか奥深くに備えられた共通の機能。とてつもない奥深くにあるがために、卓越しすぎた美は時折人間に狂気や畏怖をもたらしてきた。
 知識や言語があればなお愉しめて、かつ何もなくても楽しめるのが至上の芸術であるとカミキダは思う。事実、音楽理論みたいなものをカミキダは地球に来てから学んだ。「ああアレってコレだったのか」なんて経験をたくさんしてきた。地球上の歴史も、そこで初めて学んだ。
 ハレー彗星。七十五年半周期で地球に回帰するその彗星は、その周期の短さと、唯一肉眼で観測できる特性から、人類史上に何度も現れる。長い歴史の中で、その彗星がやっと凶兆ではないと理解されたのは十六世紀以降であった。
 カミキダは今なお頭をかき混ぜる指の健やかさを感じながら、自分のモヤシみたいな指を見た。電磁モニタを叩きすぎてタコができている。

「他人がどう言おうと、言わずとも、俺はお前を誇りに思う。ハレー式典の作曲者だからじゃない。そのタコが証左だ」
「これが? ただの職業病でしょ」
「ああ、ただの職業病だ。だからこそ美しいと思う。その献身を」

 いつぞやヒラタに言われた言葉だった。これが献身だと? 美しいだと? 笑わせる。これは命であって、苦難の日々の記録だ。たとえヒラタが言おうと、美しいとは思えない。
 目に見えるものは全て「うつくしいもの」の片鱗であって、真にうつくしいものは目には見えない。だからこのタコは美しくない。
 うつくしいものがあるとすれば、このタコを「美しい」と言ったヒラタだ。

「ヒラタさぁん」
「ッ、む。なんだ」
「僕さ、うつくしい曲を書くよ」

 カミキダはプリンのカップの縁を舐めながら呟いた。

「これからずっと、うつくしいものしか書かない」
「そうか。いいんじゃないか」
「宇宙でいちばん、うつくしいものを知ってる作曲家になるね」
「その最初の警護を務めたなら、俺も随分鼻が高い」
「えずっとヒラタさんじゃなきゃンなことやんないよ」

 ヒラタはドライヤーを止めて唸った。何を言ってるかわからない、という唸りだった。いまカミキダが振り返れば、きっと疑問符まみれの抱腹絶倒クソおもしろフェイスが見られただろう。でもやらなかった。
 見えていなくても、十分にその顔が「うつくしいもの」なのを、カミキダはもう知っていた。

「僕はもううつくしいものしか書かない。でもうつくしいものを知ってないとそれはできない。だから、僕が作曲者辞めるまで世話焼いてね」
「それは……まぁ、いいが、ならばうつくしいものを書き続けてみせろ。そして少しは部屋も片付けろ」
「けちーッ!」

 カミキダはプリンカップを煽った。モクテルはなけなしの氷もすっかり溶けて薄まったひどい味だったが、なんかそれも良かった。