序章

 乾いた音が部屋に響き渡たり何度も繰り返されるこの行為はなれなかった。結婚するまで知らなかった夫の本性。自分の意思を押し付けるだけ押し付け私の思いの尊重は一度もできなかった。嫌々した数度の情事で身ごもった時はおろそうかと思ったのが半分は自分と血が繋がってると思うとそうはできなかった。きっと彼はこれからも暴力を振るうだろう。ならいっそのこと一人で育てようと決心した。
 その後地元である大阪を離れ、美容師の専門学校時代の知り合いがいる東京に移り生活することにした。学生時代からコンクールで名が知れ渡っていたおかげもあり再就職もでき、店長が気さくな性格で物分りも良い人だったため融通も効き、就職して1年もしない間に産休に入っても、子どもを優先しなくてはいけなくなっても全て受け入れてもらえた。
 子どもは無事に生まれ、女の子だった。その子には両親から名前がプレゼントされた。その名は愛莉。愛にあふれ、人を想い愛し愛され、皆を癒せる存在で居て欲しいという願いが込められていた。




あれから5年──
 東京で勉強会が開かれ専門学校時代の友人も数名参加していたことから、久々に集まろうという話になった。愛莉は夏休みで大阪の実家に行ってて特に用事も無かったので召集された。
 お店には先輩後輩、同級生が10名もいない程度で顔見知りばかりだった。そんな顔見知りの中には美容師を辞めた者もいた。

「神田は相変わらずコンクールで目にするけど、生で会うのは何年振りだっけ?」
「卒業以来かな?」
「まじか〜。まあそんだけ経てば見た目も綺麗になるよな」
「えっ?」

 お酒を交わしながら昔話に花を咲かせていたら突然先輩にそう言われた。

「学生時代もきれかったけど更に美しくなったな〜って。俺、狙ってたけど付き合ってるやついただろ?」

 懐かしい記憶が蘇った瞬間だった。2年の夏頃から1年ほど付き合っていた後輩がいた。そういえば彼も美容師を辞めたって誰かが言ってたな。辞めて今何をしているかは知らないけど。

「なになに、恋バナ?」
「そう!神田の学生時代の元彼の話と、その時俺が狙ってたって話」
「あ〜。きょん子の元彼なら今日来るよ。今東京にで仕事してるらしいし。でも仕事が忙しいから遅れるって聞いてるけどもうすぐじゃない?」

 頭に浮かぶ数年前の彼の顔。容姿端麗で細見の外見から漂う人の好さ。それは裏切ることなく優しい人だった。もし彼と今も関係が続いて結婚してたら……と考えたら、きっといい家庭ができていたのではないかと思える。彼の話から派生した恋バナは次々に花を咲かせ枯れることを知らないかのように広まり続けた。
 熱を増す話に適当に頷いていると一人の男性が現れた。その人は紛れもなく元彼で、昔と変わらない印象だった。

「遅くなってすみません。」
「拡樹は来ないと思ってたから別に気にしないって。忙しいだろお前?」

 何やかんや言われながら来るや否や彼は男性が多くいる席に引き込まれていった。目で追ってしまうのはさっきまで彼の話をしていたからだろう。

「俺もあっちに行ってくるわ。」
「なにその目は?」
「神田も一緒に行くか?」
「行かないよ。」

 あっそと言い残して彼も向うの輪に交じっていった。私はというと彼から解放される時を待ってましたとかばかりに女性の輪に引き込まれていった。彼女たちの話は恋人の不満話ばかりで少しだけ元旦那のことを思い出してしまった。彼女たちに席を少し外すと言い席を立った。と言ってもとくにすることもなく実家に電話を掛けた。

「あっ、お母さん?」
『どうしたの?』
「愛莉どうしてるか気になってね。」
『愛莉ならお父さんと遊んでるわよ。代わる?』
「ううん。あまり遅くまで起こしとかないでよ。」
『わかってるわよ。京子もあまり遅くならないようにね。飲み過ぎてもいけないからね。』
「はーい。おやすみ」

 母が電話を切ったことを確認して自分も切り、またとくにすることもなく席に戻ることにした。相変わらず賑やかに騒いでは飲んでの繰り返しだった。変わったことと言えば自分の隣に元彼が座ってることくらいでとくに何かを話すわけでもなくただ皆の話を聞いてるくらいだった。だったから、急に彼から声を掛けられて肩がびくりと上がった。

「京子さんが東京にいるなんて知りませんでした」
「そう?私も拡樹が東京にいて違う仕事始めてたなんて知らなかった。何してるの?」

 何故か本能的に彼にだけは東京に逃げて来た理由を知られたくないと思ってしまい、自分の話ならないように何度も話の主導権を握った。彼は優しいけれど鋭い一面もあるからきっと私が何かを隠してることは気付いてるはず。でも無理に話を聞いてこようともせずこっちに乗ってくれた。彼は今俳優になってることに驚いた私はもう嫌な過去のことはすっかり忘れ彼の話に夢中になっていた。
 お開きの時間まで話し続けたというのに、心のどこかでまだ話し足りないと思う自分がいた。もちろん二次会も開かれるようだが私は明日も仕事で彼も朝から仕事で参加することはできない。彼もまた私と同様で帰るようだった。
 二次会に行くメンバーとは店先で別れ、行かないのは私たちだけのようで、必然的に最寄駅まで一緒に歩くかたちになっていた。でもなぜかお店にいた時のようには言葉は交わされなかった。

「あの、京子さん。」
「なに」
「またお食事できませんか?」
「いいよ。私もそう思ってたから」

 そう言ってとりあえず連絡先を交換した。電車に乗り降りる駅が同じで割と住んでる所も近くてマンションの下まで送ってもらってしまった。

「今日はありがとう。気を付けて帰ってね。」
「こちらこそありがとうございました。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」

 家に帰ると愛莉が居ないからかそれとも懐かしい仲間たちに会ったせいなのかいつも以上に寂しくなってしまう。とりあえずシャワーを浴びて寝てしまおうと思って布団にもぐり込んでも心の動悸が耳に響く。彼に会ったからだ。

「拡樹…」

 一人虚しく寝室に響いた。
 愛莉が幼稚園に預けている時間になかなか会うことが難しく結局隠していた過去は彼の耳に入ってしまった。けれど彼は特に何も言わなかった。それはそれで嬉しかったけれだなんだか私が求めていた彼の言葉は無かった。今は向こうからしたら私はただの先輩なんだからと言い聞かせていた。
 彼が特殊な職業に就いているおかげでいつも彼は私たちの住むマンションによく遊びに来ていた。頻繁にくるもんだから愛莉もすっかり懐いて親子みたいだった。そんな愛莉も長い休みに入れば実家に遊びに行くので拡樹は初めて愛莉が居ない我が家にやって来た。

「今日はお鍋なんだけど他になにかいる?」
「大丈夫です。」
「よかった〜。小さいお鍋しかなかったから量少ないからもし足らなかったら言って。何か買ってくるから」
「あの、京子さん。今日はクリスマスですよ?」
「えっ?」
「なのでケーキです。いつも頂いてばかりなので。」
「あぁ、別に気にしなくてよかったのに。でもありがとう。後で食べよっか。」

 拡樹から貰ったケーキは冷蔵庫に入れ、他愛もない話で盛り上がりつつ手抜きな鍋を平らげた。彼もこの家の勝手を知っているので後片付けは手伝ってくれる。その間にケーキと暖かいカフェオレを用意した。前もって愛莉が居ないことを言ってあったのでケーキはクリスマス仕様のショートケーキが二切れでどっちも可愛くて食べるのがもったいない気がする。

「京子さんはどっちがいいですか?」
「どっちにしようかな。う〜ん、じゃあこっちで。」

 自分の方にあったのを取り、もう一つは拡樹の方へと行った。

「京子さん、こっちも食べますか?」

 そう言って拡樹は一口分をフォークに乗せ私の方へと向けていた。私は少し迷って頷いた。それを見た彼は私の口元へそれを差し出し口を少し開けばそこへ入れ、何事もなかったかのようにそのフォークは私のところにあったケーキを一掬いし彼の口へと消えていった。一瞬のようですごく長く感じた出来事に頬が赤くなった。
 彼は誰にでもそういうことをするのだろうかと思うとモヤモヤして、チクリと心が痛くなった。その感情が知られないように自分のケーキを口へと入れた。

「……京子さん、もしかして嫌でしたか?」
「……そういうわけじゃないけど、誰にでもするのかなと思ったら妬い、た。あれ、いや。うん。なんて言うのかな?」

 自分の口からはっきりと妬いたと言ってしまった。そうか、自分はどこの誰かもわからない人に妬いたんだ。今更弁解するのは余計に彼に勘付かれると思ってしなかった。が、それがいけなかったのか、暖かいけど少し震える何かが唇に触れた。そんなの直ぐにわかった。

「好きです。前よりもずっと。」

 彼は真っ赤に顔を染めそう言った。彼は今好きと言った。私もそこまで鈍感なわけではないし前よりも言ったのだからきっと何年も前のことを言っているのだろうってことは予想もついた。けれど唐突すぎて頭の中がぐちゃりとした。でも私もきっと彼が好きだ。

「あ、ありがとう。私も好きです。…またよろしくお願いします。」

 そうやって私たちの物語の続きが動き出したのであった。
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