暗殺者たちの休日1

翌朝、リビングの扉を開けたシルビアは視界に飛び込んできた光景と鼻をつくアルコールの臭いに思わず眉を顰めた。

ソファの上で仰け反るイルーゾォと、その隣で酒瓶を抱えたまま深く項垂れるホルマジオ。向かい側のソファの背もたれにはメローネが洗濯物のように引っ掛かっており、まるでダイイングメッセージを書き残すような体勢で床に転がるギアッチョには事件性すら感じる。ちなみにソルベとジェラートは昨晩のどんちゃん騒ぎからは早々に離脱して二人で飲んでいたようなので、今頃はまだ部屋で寝ているだろう。
気絶したように眠るペッシを跨いでキッチンに辿り着いたシルビアはシンクに敷き詰められた大量の空き瓶と酒缶を見て肩を竦めた。冷蔵庫の隣に置かれたラックの中から数枚袋を引っ張り出すと、瓶と缶をそれぞれ分けながら捨てていく。シンクの上を片付け終えるとテーブルの上や床にも無造作に転がっている瓶を拾い、袋に入れながらリビングを後にした。

ベランダに続く窓が僅かに開いていることに気付いてそっと遮光カーテンを開ければ、室外機の上に腰掛けて煙草を吸うプロシュートが見えた。いつもより着崩したシャツと乱れた髪を見て、彼も昨晩は随分飲んだのだろうかと考える。

「シルビア」

朝日を受けて輝くブロンドに目を細めていればプロシュートが部屋の中で立ち竦むシルビアに気付き、外に出るよう手招いた。足を踏み出すことに一瞬躊躇しながらも窓に手を掛けて恐る恐るベランダに出れば、その様子を見ていたプロシュートは肩を竦めて笑う。

「そんなに怯えなくても何もしねぇよ」
「だ、だよね…?」

それでもどこかぎこちない様子のシルビアはプロシュートの反対側に空いたスペースを見つけると手に持っていた袋を置いた。ごろん、と袋の中の瓶同士がぶつかり合って鈍い音を立てる。それらを足で引っ掛けないよう出来る限り端の日陰によけると振り返った。

「プロシュート、昨日は寝てないの?」
「いや、さっきまでリビングで寝てた。お前も本部に行くにしては随分早いな」
「うん、ちょっとその後に予定があって」
「…リゾットか」

リゾットもシルビアと同様、昨夜は早々に離脱して部屋に戻っていた。本部に行くにしてはやけに着飾った姿を見て勘のいい彼はすぐに気付いたらしい。別に隠すことも無いと思って頷けば、プロシュートは気に食わないと言わんばかりに眉間にしわを寄せながら灰皿に煙草を押し付けた。

「シルビア」

腕を引かれてプロシュートの正面に立てば、その両脇に長い足が伸ばされた。足の間に挟まれたシルビアが俯くと顔を上げて優しく言い聞かせるように告げる。

「こういうことはあまり言いたかねぇが、ちゃんと帰ってこいよ」
「それはもちろんそのつもりだけど、」
「間違っても食われるんじゃねぇぞ」
「食われるって…まさかリゾットに?」
「他に誰がいるんだよ」
「さすがにそれはないから大丈夫だよ」
「はっ、どうだか。お前がそう思ってるだけで実際は分からねぇだろ」
「それメローネにも言われた」
「お前はリゾットに迫られたら受け入れちまいそうだからな。昔からあいつにはやけに懐いてただろ」
「それも言われた」

彼は「リゾットとプロシュートの二人」と認識していたようだが。
まだ酔いが残っているのか、どことなくいつもと様子が違うプロシュートに苦笑いを浮かべる。しかし自分を真っ直ぐに見上げてくるコバルトブルーの瞳に気付くときゅっと口を噤んだ。伸ばされた手が肩から零れた栗色の髪に触れ、そっと耳に掛け直す。そのまま輪郭を伝いながら下降すると親指でそっと左頬を撫でた。男性らしい手の感覚に思わず息を飲むのと、手が離れていくのはほとんど同時だった。
ほっとしたのもつかの間、その代わりとでも言うように細い腰元に手が回り、体を引き寄せるようにして抱きしめられる。足の爪先が室外機に当たり前傾姿勢になったシルビアは咄嗟にプロシュートの肩に手を置いた。細身だがしっかりと筋肉がついた肩の感触が伝わってきて何とも言えない気持ちになる。

「もしかして、まだ酔ってる?」
「そうかもな」

腰掛けたまま腹部に顔を埋めるプロシュートから香ってきたアルコールの匂いに溜息をつけば小さく笑う気配がした。どうやら酒はまだ抜けていないらしい。
離れようと身じろぎした瞬間、腰に回る手の力が僅かに強まった。

「なあ」
「ん?」
「俺がこのまま離したくないって言ったらどうする?」
「…、やっぱりまだ酔ってるね」

女に縋るなんてプロシュートらしくもない。
そう冗談めかして笑ったシルビアだったが、肩に置いていた手をプロシュートが掴んだことに気付くと押し黙った。不意に昨日の記憶が頭を掠め咄嗟に身を捻るが、やはり腕と腰に回った手の力は緩められない。

「お前の前じゃ余裕なんてねぇんだよ」
「プロシュート、」
「これは何度も言ってるが、俺はいつだって本気だ。冗談でお前を口説いてるわけじゃあねぇ」
「それは…」
「…なあシルビア、俺は「シルビア」

威圧感のある低い声に呼ばれたシルビアが弾かれるように振り向けば、開けっ放しにしていた窓からリゾットが顔を覗かせていた。それを見てどこかホッとしたような表情を浮かべると、手の力を緩めたプロシュートからするりと抜け出し窓に向かう。

「もう準備できたか?」
「うん、いつでも行けるよ」
「ならそろそろ行くか」

リゾットはベランダには出ずに手を伸ばすとシルビアの手を取って部屋の中に入れた。黙って二人のやりとりを見ていたプロシュートにちらりと視線を向けると呆れたように溜息をつく。

「お前は飲みすぎだ。帰ってくるまでにちゃんと抜いておけ」
「…ああ、そうだな」

自嘲気味に笑ったプロシュートが再び煙草を口にくわえるのを見ると、リゾットはカーテンを閉めてシルビアと共に玄関に向かった。


***


「邪魔したか?」

アジトを出て少ししたところで車を運転していたリゾットが前を向いたまま助手席に座るシルビアに尋ねると、窓の外を見つめていた顔が驚いたように振り返った。主語がない彼の質問がつい先ほどの出来事を指しているのだと気付くと、膝の上に置いていたハンドバックの持ち手を握る。

「ううん、そんなことは…むしろ助かった、かな」
「そうか」

信号の色が赤に変わり車がゆっくりと止まる。カーステレオから流れるI Was Born To Love Youを聴きながら再び窓の外に目を向けると、大通りに面したパン屋の店主がシャッターを開ける様子が見えた。その前をジョギングした男が通ると、店の常連なのかその場で足踏みをしながら店主と何やら会話している。二人がお互い手を振って別れたところで、再び車が動き出した。流れる街の景色を見ながらシルビアが口を開いた。

「ねえリゾット」
「何だ?」
「本部に行く前に少し寄りたいところがあるんだけど、いい?」

それから数分後、車を走らせて二人がやってきたのはネアポリス郊外にある霊園だった。
来る途中に購入した花束を手に持ったシルビアは”Baudo Moschino”と刻まれた墓石の前で立ち止まった。隣との間隔が狭く配置された他の墓石とは対照的に、両脇の墓とは不自然なほど距離が離れている。

「全然来れなかったから、近いうちに来ようと思ってたの」
「俺もここに来るのは久しぶりだ」
「去年は何かと忙しかったもんね」

笑いながらしゃがんだシルビアは色鮮やかな花を添えながら呟いた。

「でも、忙しい方が気が紛れていいのかも。時間があると余計なことばっかり考えちゃう」
「プロシュートのことか?」
「うーん…どっちかって言うと、もっと昔のことかな。私がチームに来てすぐの頃とか、それよりももっと前のこととか…それこそ、モスキーノさんのこととか」

紫のヒヤシンスを撫でる横顔に影が落ちる。それを見下ろしていたリゾットが目を細めるとシルビアは墓石に刻まれた名前を撫でた。

バウド・モスキーノという男は、かつて暗殺チームのリーダーを務めていた男であり、12歳のシルビアを拾ってギャングとして育てた張本人でもあった。

彼は誰よりもギャングらしい男だったとシルビアは思う。組織の敵には容赦なくトリガーを引く冷酷さを持つ一方で、何よりも仲間を大切にしていた。寡黙で表情が読み取り辛かったが、情に厚く仲間想いで豪胆な性格は誰からも好かれ、尊敬されていた。共に過ごした時間はほんの僅かであったがシルビアも心の底から彼を尊敬し、まるで実の父親のように慕っていた。しかし現在の暗殺チームで彼について知っているのはリゾットとプロシュート、シルビアの三人だけであり、他のメンバーに至っては面識すらない。とはいえ彼がかつてチームを率いていたこと自体は知っているはずなので、話題を避ける三人に何かを悟りあえて何も尋ねずにいるのだろう。

もし生きていれば今年で六十を迎えるはずだったモスキーノは、シルビアを庇って射殺された。
あれから十年近く経った今でも、シルビアの脳裏には目の前で倒れていくモスキーノの姿が鮮明に焼き付いている。

「…今更何を考えたところで、過去は変わらないのにね」

慕っていた人間をある日突然亡くした喪失感と罪悪感は十三歳の少女には耐え難いものだった。気を抜けば涙が溢れ、不安に襲われて眠れない夜を過ごした。どうして自分が助かったのだと責めるときもあった。
しかし側にいてくれた彼らのおかげか時間が解決してくれたのか、あるいはその両方か。ここ数年は事件直後のように精神が不安定になることは滅多になくなった。それでもまだ心の傷は完全に癒えず、頭のどこかであの日の惨劇を招いたことに対し自責の念を感じているのも事実であった。

「―――”これでいいんだ”。あの人は確かにそう言っていたはずだ」

そう言ったリゾットは、僅かに目を見張るシルビアの隣にしゃがんだ。

「生きていれば遅かれ早かれ必ず死はやってくる。特に俺たちはこんな仕事だ。人の恨みを多く買った分、その時を迎えるのも人より早いかもしれない。だがモスキーノさんは後悔していなかった。それは自分の中で揺るぎない正義があったからだ」
「正義…」
「ああ。仲間を…シルビアを守るという正義だ」

ギャングでありながら彼はいつも自分が信じる正義を貫いていた。だからこそあの日も、仲間であるシルビアを見捨てるという選択肢はなかったのだろう。
しかし当時のシルビアはそれが理解できなかった。頭では理解していても、自分のせいで彼が殺されたという結果にばかり目を向け”これで良かった”という彼の言葉を受け入れられなかった。
もちろん今でも結果は変わらない。あの日起きてしまったことは変えられないし、彼が生き返ることもない。それでもシルビアはようやく彼の言葉を理解できたような気がした。
いつまでも自分を責め続けるというのはすなわち、彼の正義を否定することになる。

「だからシルビア、もう十分だ」
「……」
「お前は十分苦しんだだろう。無理にとは言わない。少しずつでいいから、自分を許してやれ」

リゾットは過去に囚われたまま抜け出せないでいるシルビアに気付いていた。その上で、育った環境ゆえに人に甘えることができない彼女を見守ることで支えてくれていたのだ。その事実を改めて実感したシルビアは胸に何か熱い物が込み上げてくるのを感じた。鼻の奥がつんとしたのを誤魔化すように立ち上がる。

「こんな仕事してるくせに、リゾットは優しすぎるんだよ」
「何も誰彼問わず優しくしているわけじゃない。シルビアだからだ」
「もう、そういうところだってば」

くすくすと笑うシルビアにリゾットは安心したように頬を緩めた。

「…きっとまだ時間はかかるだろうけど、努力はしてみる」
「ああ。彼もそれを望んでいるはずだ」

リゾットが差し出した手を取ったシルビアは鮮やかに彩られた墓石を見下ろした。空から降り注ぐ光が彼の名前を照らしているのを見て、穏やかな笑みを浮かべる。

「また来るね、モスキーノさん」


二人の暗殺者がいなくなった霊園に一際強い風が吹く。
添えられていた花の中で紫のヒヤシンスだけが風に飛ばされると、ひらひらと舞って草の上に落ちていった。