広々とした邸は、私にとっての牢獄だった。
生まれ付いたときより体が弱く、切ない咳がこんこんと溢れ出る。窓の外から春は紅の花を眺め、冬は雪化粧に染まる山々を眺めた。時折訪れる鳥が愛らしく囀り、私の杞憂を沈めてくれた。
与えられた部屋だけが私の呼吸を許す場所。ぼんやりと濁る眼で外を眺め、生白い手で空を切る。日を浴びていない体は、健康的な肌の色をしていない。血管の浮き出た手首をやんわりと撫でて、私は空に憧れた。

私の父は織物を捌く商人で、幾つかの金満の家に出入りをしていた。おかげで商売は繁盛し、父が建てた邸は立派なものだった。父の愛娘として寵愛を受けるはずが、母の胎から生まれ落ちた私は出来損ないだった。
生まれつき視力が弱く、体も強くない。血の気が足りていないようで、眩暈に襲われることが屡々あった。そんな私を見て父は愛想を切らし、ここ数年顔を合わせていない。私の部屋に訪れる者は母と、世話をする下女くらいだった。
退屈で、切ない日々だった。誰にも必要とされない私の人生。意味などあるものか、と身を投げやりたい気持ちでいたとき。その男は、現れた。

「――なんだ、随分つまんなそうな顔をしているな」

窓辺に寄りかかりぼう、と空を眺めていれば、不意に見知らぬ声が響く。
男の声。父の声ではない。誰だろう、と声のする方へと首を向ければ、庭先に背丈の高い男がいて、私は驚きで目を見張る。

「…だれですか?」

ここは父の邸だ。誰かが不用意に入れる場所ではない。茫然とした様子で問えば、男は片口角を持ち上げたまま私の元へとやってくる。生まれてこの方父以外の男と深く接したことがないため、男を興味深そうに眺める。

「いやなに。立派な邸に暮らしているわりには、幸薄そうな顔をした女がいるから」

気になっただけだ、と歯を見せて男は厭らしく笑った。無骨な羽織を纏い、髪を一纏めにした男は凛々しい顔立ちをしている。鋭い目つきと愉悦に滲んだ口元が特徴的な、如何にもの悪人面だった。
目に見えて分かる不審者に、本来であれば人を呼ぶべきだ。理解はしていたが、人を呼べば男が去ってしまう。なんとなく惜しく思い、私は曖昧に微笑み、質問を繰り出す。

「父のお知り合いですか?」
「いや」
「そう…」

ならば都合が良い。私は邸内しか知らない無知な女。家とは無縁の男に強い興味を抱き、私は彼を手招いた。

「こっちに来て。暇ならお話ししましょう」

やんわりと微笑めば、男は片眉を吊り上げて「お話し?」怪訝な声音で呟く。ええ、と相槌を返して、窓辺に腰を落ち着かせる。白々とした雪が降り積もった日のこと。外からやってきた男との遭遇は、私に新鮮な感傷を与えた。
鳥籠のような牢獄は、唯一生きることを許された私だけの場所。部屋に差し込む日の光で朝を知り、薄暗くなれば夜の月を眺めた。窓から見える外の世界を眺めるばかりの日々に、漆黒が入り込む。
髪が黒く、何より人を圧する高慢さが滲み出る男は、漆黒という言葉がよく似合う。敷き詰められた雪の中、彼だけが異彩を放っていた。一目見て私は男のことを気に入った。外を知る媒体として、得たいと思った。

「あなた、とても背が高いんですね。羨ましい」
「人を呼ばねぇのか」
「呼んだらあなたとお話しできない」

不満そうに言えば、男は「へえ」小さく頷いた。私の言葉で納得したのかは兎も角、彼は窓辺に腰を下ろす。隣に並ぶと男の大きさを改めて認識をする。鼻筋が整っており、艶めいた目元は人目を惹く。
外にはこういう人もいるのか。感慨深い気持ちになり、男の横顔をぼうと眺めると、彼は喉をくつりと鳴らした。

「それは癖か?」
「え?」
「人の顔をじっと見る、その目」

指摘されて気付く。たしかにそれは癖かもしれない。自身の目元を手で覆い、そっと苦笑をする。

「あまりよく見えない、もので」
「悪いのか」
「悪いのは目だけじゃありません」

こんこん、と切ない咳を零す。喉には嫌な違和感が残っていた。胸に石が詰め込まれているような気怠い感覚に、私は眉根を寄せた。生まれつきの出来損ない。私に吐き捨てられた父の言葉を今でもよく覚えている。
時折、咳に交じり血が溢れ出る。手に零れた赤い液体を握りしめて、父に隠していたことがあった。すぐにばれて大目玉を喰らったのだが、それほどまでに自身の不甲斐ない体を忌々しく思っていたのだ。

「どうりで生白い」

男の言葉に苦笑をして、自身の体を撫でる。私はこの体が嫌いでしょうがない。じろじろと不躾に眺められては困ってしまう。男の視線から逃れるようにして縮こまれば、彼はさらに言葉を重ねた。

「退屈だろうな」
「ええ、まあ」
「此処から出たいか?」
「…、」

その問い掛けに言葉が詰まる。この感情をどう言い表せば良いのか、私には分からなかった。
外に対して憧れはある。だが同時に恐怖もあった。外の空気は毒だと母に教えられ、暮らすための部屋を与えられた。私は此処しか知らない。遠くで眺め見るだけが私には相応なのかもしれない。
生気の抜けた眼で再度外を見る。雪が降り積もり、冷めた空気が満ちていた。ほう、と吐息を吐けば白くなり、天に上ると共に消えていく。時折、野兎や野犬が庭に来ては、雪と戯れていた。観察するような眼は次第に羨みの色へと変貌したことを、今でも覚えている。

「でたい」

空虚な響きが含まれた私の呟きは、はたして男に届いただろうか。
男は何も答えず、じっと私の顔を見つめていた。ひしひしと伝わる男の視線から逃れるようにして、私は無理やり笑みを作る。

「それより、外の話を聞かせてください」
「…外の話」
「はい」

憧れに染まった眼を彼に向けると、男は自身の顎をゆっくりと撫で上げ、皮肉めいた様子で目を細めた。何か奇妙なことでも聞いただろうか。不思議に思い小首を傾げると、男は浅く吐息を零して、意味深に瞼蓋を落とした。
数秒程間を空けて、男は冷淡な目色を私に向けた。恐ろしい気迫を感じて、私の口端がきゅっと結ばれる。まるで本当に聞きたいのか、と無言で問い掛けているようだった。暫し視線が絡み合い、やがて男は唇を開く。

「…また次に会ったときにでも話してやるよ」
「次?また来てくれるんですか?」
「ああ」

男の言葉に私の顔は華やいでいく。たった一回きりの逢瀬ではない。好奇心に突き動かされて、私は男の服袖を掴む。ようやく会えた外の人。とても恐ろしい顔をしているけれど、不思議と彼に惹かれてしまう。
この感情が単なる興味なのか、それとも憧れなのか。私の目には、男が偉大に見えた。もしまた此処に来てくれるのであれば再び話を聞きたい。浮かれた気持ちで約束を交わし、私は微笑みを零す。

羨望がますます強まったその日、私は初めて幸福を感じた。
男との遭遇は私にとって希望だったのだ。







夜。
邸内が騒がしいと気付いた私は、寝台から這い出て大きな欠伸を零す。眠気のせいか体はとても気怠くて、暫し呆けてしまった。遠くで人の声が聞こえて、それが怒号や悲鳴だと気付いたとき、ようやく眠気が抜けていく。
なんだ、一体何が起きているんだ。目を瞬かせて、私はその場に蹲る。耳を澄ませばただならぬ気配を感じた。騒音といっても過言ではないほどの暴力的な音の数々。私の心臓は瞬く間に凍り付き、四肢に痺れが走る。
嫌な予感がする。とても恐ろしい事態が起きている、気がする。皮膚下にぞわぞわとした戦慄が駆け巡り、私は恐る恐ると言った風に部屋の戸を開けた。父から部屋を出るなと命じられているので、この戸に触れたことは一度もない。
指先に力を込めてそうっと戸を開けると、薄暗いはずの回廊に、ぱちぱちという火の粉が舞っていた。私はすぐさま戸を閉めて、胸を両手で押さえる。動悸息切れが増していき、私の頭には混乱が満ちていった。

なにこれ。
邸に火が放たれて、いる。

その事実を理解したとき、蒼白な表情で唇を震わせた。悲鳴を押し殺すように奥歯を噛みしめて、涙により潤む視界で宙を見る。悪夢のような出来事を受け止め切れない。睫毛を戦慄かせて、私は暫しその場に蹲った。

「おゆるしを!おゆるしを!」
「どうか命だけは!」

悲痛な叫びまでもが聞こえてくる。耳を塞いで、私は嗚咽交じりの声を出す。こわい、なんだこれ、こわい、生まれて初めての事態に、どう足掻けばいいのか分からない。困惑のあまり呼吸が乱れる。胸が苦しくなって涙を零せば、火が戸の前にまで迫っているのか、肌を焼くような熱を感じた。
此処にいては焼かれ死ぬだけだ。ふらつく足元で窓辺に向かい、そこから庭先へと逃げ出そうとした。だがいざ窓を前にしたとき、私の足が竦む。ずっと出るなと命じられてきた私の部屋。簡単に飛び越えられるほどの高さだというのに、足は中々持ち上がらなかった。

逃げなければ。逃げなければ。頭の中で巡る言葉はひたすら私に命じている。
それでも窓から出れば父から叱られる。外に出れば咳が酷くなる。様々な思考が駆け巡っていき、私の指先が怯えにより震えた。
放たれた火のせいか、私の体温が徐々に上昇していく。戸の向こうに昼間のような明るさを感じた。ばちばち、と木々の跳ねる音が聞こえて、危険が差し迫っていることを知る。
どうしよう。火がすぐそこにあるのに、逃げられない。父から与えられた鳥籠は、私の全てだったのだ。

「なんだ、逃げないのか?」

不意に、あの男の声が聞こえた。顔を上げると、窓の外に男がいた。
安堵に胸を撫で下ろしかけたのだが、男の手にある剣が目に入り、私の唇が強張る。
剣には人を殺した残骸として、黒々とした液体が付着していた。地面に滴る滴はあまりに生々しくて、私は信じられない物を見るかのような眼で男を見た。飄々とした笑みを浮かべ剣を悪戯に振る男は、窓の外で私を待っていた。

「逃げねぇと焼かれるぞ」

それとも焼き死ぬことを望むか?と男は口元を歪んだ。愉悦が滲む厭らしい笑みにどう返答すればいいのか、悩んだ挙句私は情けない声音で問う。

「…どうして、あなたが此処に…?」

そう問えば、男は剣を振って、血の滴を地面へと振り払った。薄ら寒い笑みで一歩、また一歩と踏み出した彼は、私に向かって手を差し出す。まるで此方に来い、と言わんばかりの大きな手。その姿を茫然と眺めると、男はずるりと舌なめずりをしてから「愚問だな」嘲笑をする。

「お前以外、死んだ」

え、

「父親も、母親も、俺が殺した」

なにを言っているんだ。この男は。
理解が至らず、私は細やかな声で呟く。どうして、と。すると男は髪を後ろに撫で上げて、下世話に笑んだ。

「野盗がすることなんて限られているだろ。金目の物は全て頂く」

そこでようやく理解をする。昼間この男が訪れたのは偶然ではなく、下見だったのだと。
あのとき私が人を呼んでいれば、こんな事態は免れたかもしれない。私が男を邸へと招き、下らぬお喋りをしたせいで、男に余計な情報を与えた。恐ろしい事実に胸を震わせて、瞳に涙が滲む。後悔なのか、遺恨なのか、激情がせり上がってきた。
本当に死んだのだろうか。父も、母も、皆。ばちばちと木の弾ける音と共に火の気配が強まっていく。戸の向こうから火の粉が舞い込んできて、私の皮膚を微かに焼いた。
自然と荒くなる吐息と共に、私の首筋から汗が伝い落ちる。とても熱いはずなのに、不思議と高揚感があった。心臓が脈打ち、血液が巡っていく感覚。今までこの部屋で生きてきて味わったことのない感覚に、私はぶるりと身震いをした。

男が憎たらしい、とは違う、別の感情が私を支配した。名前の知らない感情が胸に沸き上がり、私は困惑した様子で男を見つめる。どうして私はすぐ殺さないのか。父も母も殺して金目の物を全て奪ったというのに、どうして私はまだ生きているのだろう。
男の感情を読み解こうとして、視線を交す。愉快そうに笑んでいる彼の顔だが、目だけは私をじっと見つめていた。彼の口よりも饒舌な眼に見つめられて硬直していると、男は窓辺にまでやってきて、低い声音で言う。

「言っただろう。金目の物は全て頂く」
「…私を、売るんですか?」
「ククッ。お前みたいな欠品、売れるわけないだろ」

ならば何故、と問おうとしたとき。
男の手が伸びる。窓から私を掴み、強く引っ張る。威圧的な行動に息が詰まり、悲鳴を上げる間もなく部屋から引きずりだされた。男は私を胸元に閉じ込めると、蠱惑的な吐息を零す。

「アァ。アァ。お前のその顔が見たかった」

ぞぞぞ、と指先で頬を嬲り、私を冷たく見下ろす。

「生白くて、無垢で、知恵足らずのお前が絶望をしった顔」

最高にそそるな、
と悪辣めいた吐息と共に言葉を吹きかけられて、私は唐突に理解する。
私の人生で幸福なんてない。すべて崩れ行く空のような不幸で埋め尽くされているのだと気付き、ぼろりと涙を零した。それは悲しみだけの涙ではない。初めて外の世界に降り立ったことによる感涙だったのか、と自身を納得させて、私は男の服袖を掴む。

恐らくこれからも籠の鳥は続く。
私を初めて外に連れ出した男は、この世の悪辣を詰め込んだ悪魔のような男。
部屋が変わるだけで、次はこの男の胸元で飼われるのだろうと予感して、私は男の皮膚に爪を立てた。

「……ひどい、戯れですね……」

ああこんな最低な不幸、いっそのこと幸福など感じる前に殺してくれたらよかったのに。男の体温がとても暖かで安心してしまうだなんて、幸福を知ったからこその不幸に、私は唇を震わせた。


人生は杞憂でできている



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