卒業して丸一ヶ月が経った。制服を纏うことがなくなったこの一ヶ月の間に、私たちには色んな出来事があった。宗介くんは後輩からのサプライズでリレーのメンバーで温泉旅行に行っていた。随分と満喫してきたようで、私や私の家族にまでお土産を買ってきてくれた。その後に松岡くんを見送るために岩鳶SCで七瀬くんたちや鮫柄の水泳部の子たちと企画をして、立派な門出のお手伝いができたんじゃないかと思う。それからすぐに松岡くんはオーストラリアに旅立った。最後の見送りは江ちゃんとお母さんだけでしたらしい。分かってはいるけど寂しい、と涙ぐんでいた江ちゃんを見て、私はその気持ちが痛いほどに共感できた。
その翌週には七瀬くんと橘くんも大学に向けて上京してしまった。葉月くんは笑顔で見送っていたけれど、竜ヶ崎くんはやっぱり泣いていた。江ちゃんもつられて泣いていて、私と宗介くんはそんな様子をただただ見守っていた。

『寂しくなっちゃうね』
『そうだな』

宗介くんは付き合い始めた秋頃より、表情が柔らかくなったと思う。現にその時だって、私の言葉に穏やかに笑ってくれていた。

そうやって卒業してからの一ヶ月はあっという間に過ぎていった。

「仕事はどうだ?」

そして迎えた四月一日。私は高校を卒業して就職へと進路を進めていた。在学中に既に内定を貰い、三月の下旬から仕事慣らしということで何度か職場に出向いて施設案内や基本的なルール、専門知識の資料をたくさんもらってきた。正式入社は四月一日からだが、今年は一日が日曜日ということもあり、曜日は関係のない職場であるが、翌日の二日の月曜日からが正式入社となる。

「覚えることがたくさんで大変そうだよ」
「そうか。人間関係は大丈夫そうか?」
「うん!みんな親切で優しい人たちばっかりだし、利用者さんたちにもすぐに覚えてもらえて、働き甲斐はありそうなんだ」
「だったら良かった」

まるで親との会話みたいで思わず笑ってしまう。二人で笑い合って落ち着くと、やがて宗介くんは私をじっと見つめては抱き寄せる。それは私がちょうど宗介くんのことを聞こうとしていた時だった。まるで話を逸らすかのようなタイミングに、私は質問をするべきか躊躇する。
すると私を胸元に包んだまま、宗介くんは何かを思い出したかのようにぼやいて、抱きしめたままに腕を伸ばす。お陰でより宗介くんの胸板に押し付けられることになったが、すぐに解放された。

「これ」
「え?」
「お前今日誕生日だろ?」
「覚えてたの?」
「当たり前だろ」

俺をなんだと思ってんだよ、と笑い飛ばす宗介くん。だって誕生日のことなんて一つも話題に上がってこなかったし、元々からこういうことには無頓着な人だと思っていた。実際、自分の誕生日のことすら「別に祝うものではない」と言っていたくらいだ。
宗介くんのあぐらの上に座らされた状態のまま、もらった小さな袋を開けていく。白いマットな質感と金色のラインが特徴の袋の中には、同じモチーフの箱が入っている。丁寧なラッピングのりぼんをゆっくりゆっくり解いていくと、その中は更に一回り小さな箱だった。オルゴールを彷彿とさせる形に、私はその音色を楽しみに箱を開けた。

「えっ…」

箱を開いても、特有の繊細な音色は鳴らなかった。
それもそのはず、そもそもこれはオルゴールではなかったから。
箱に埋まっていたのは、サイズがそれぞれ違うシルバーのシンプルな指輪だった。

「宗介くん、これ…」

振り返ろうとすると、逆に宗介くんから抱きつかれる。首元に顔を埋めるように近付けた宗介くんに、私は胸が締め付けられるような感覚だった。

「こういうの、柄じゃねぇんだ」

あんま見んな、と私の首元で言う宗介くんに、私は涙を堪えきれなかった。
宗介くんが無言でその指輪の小さい方に手を伸ばし、私の手を取る。宗介くんは左薬指に、その指輪をはめた。

「そ、すけ、く…っ」
「俺が早く仕事に慣れて、稼いだらもっとちゃんとしたやつ、お前にやるから」
「………。」
「だからそれまではこれで我慢してくれ」

自ら発した言葉のくせに、そんな顔をするなんて、どうしてこの人はこんなに不器用なんだろうか。
私はあと一つ、残った指輪を手に取る。私と同じシンプルなつくり。裏に何も掘っていないのが、宗介くんらしいと思った。私のものよりも幾分も大きなそれをしばらく見つめていると、宗介くんから「つけてくんねぇのか?」と催促された。

「ねぇ、宗介くん」
「ん?」

それは松岡くんも似鳥くんも御子柴くんも、そして何より宗介くん自身が望んでいることだった。

「本当に、いいの?」
「…何の話だ?」
「言わなきゃ分からない?」

そうやって話を逸らそうとする宗介くんを何度も見てきた。オーストラリアに行く前、松岡くんから電話が入っていた。『宗介のことを頼む』と言われ、私はその意味を取り違えるようなことはしてはいけないと思ったのだ。
松岡くんの望み、そしてそれは宗介くん自身の夢であり、私自身の思いでもあった。

たとえ、それが今の形を壊すことになったとしてもーーー。

「水泳、本当にこのまま辞めちゃうの?」
「…凛に何か吹き込まれたか?」
「例えそうであっても、そうじゃなくても、私同じこと訊いてるよ」
「名前は結構頑固だよな」
「宗介くん、もう話、逸らすのやめて」

向き直って宗介くんの綺麗な瞳をじっと見る。その瞳に私の顔が映り込む。今にも泣き出しそうな顔が情けなかった。
【本文(予備1)】

「東京に行って、がむしゃらに水泳に打ち込んで、結果的に故障して出戻りして、俺は散々自由にしてきた」
「そうだけど…」
「もうこれ以上、俺の我儘で迷惑をかけるわけにはいかねぇだろ」

それが本心であることも間違いはないのだ。東京への進学、そして故障ののち最後の一年間こちらに転校するための費用や手間など、何も言わずに快諾してくれた両親に対しての思いもあるのだ。更に治るか分からない肩の故障を治していくところから始めるのは、きっと同年代の松岡くんや七瀬くんとは既にスタートラインが違うということだ。分かってはいる。それでも宗介くんの水泳への思いが、まだ燻っていることも分かっている。

松岡くんが言った言葉から頭にこだまする。

きっと誰もが宗介くんの復帰を待っている。
当の本人だってその気があるのに、踏み出せないのだ、その一歩が。
不安と恐怖が渦巻く先の見えない未来に、それでも踏み出すためには誰かが彼の背中を押してあげなければいけない。
松岡くんがいない、七瀬くんもいない。そうなった今、その背中を思い切り押してやることができるのは、きっと、

「迷惑はかけるものだよ、宗介くん」
「……っけど、俺にはもう…」
「宗介くん、嘘吐くの下手なんだから。連絡、来てるんでしょ?」
「……何で、知ってんだ」
「ごめんね。前に宗介くんが居ない時に、ちょうど通知が来て、見るつもりなかったんだけど、目に入っちゃって…」
「そうか…」

宗介くんは観念したかのように笑った。もう隠し事には意味がないことを悟ってくれたらしい。
東京にいた頃、故障後もよくしてくれていたコーチから、その故障を踏まえたトレーニングと指導を見てくれる大学があると言われていたらしい。

「戻ってこいって言われてたんだ」
「うん」
「けど、治らなかったらって…治ったとしても、また同じこと繰り返すんじゃねぇかって…」
「『勝手に自分の可能性潰してんじゃねぇ』って宗介くんが言ったんでしょ?」

まだスタートラインにすら立っていない悩める人。宗介くんは私の言葉に、目を大きく見開いて潤ませていた。先に涙を流したのは、私の方だった。

「別れよう、宗介くん」

宗介くんはきっと不器用だから水泳と恋愛を両立することなんてできない。それに私が嫌なのだ。宗介くんの側にいたいという気持ちは誰にも負けないくらいにあるけれど、それが時に宗介くんの邪魔になってしまうことがあるかもしれない。宗介くんに気を遣わせてしまうかもしれない。そうすることで水泳に集中できなくなるかもしれない。そんなのまっぴらだ。だからこれが正解なんだ。

「お前だったらそう言うと思った」

だから踏ん切りが付かなかった部分もあるのかもしれない。本音を言えば、どこまでも宗介くんのことを追いかけて一番近くで支えたい。でもそんなこと現実問題的に無理なのだ。

「宗介くんが活躍するの、楽しみにしてる。ずっと応援してるから」

だから待ってるね、という一番伝えたい想いは口に出せなかった。その代わり宗介くんから今までにないくらいの熱い口付けがなされた。お互いの涙が唇に触れて、もはや唾液なのか涙なのか分からなかった。ああ、これで終わりなのか、と思うと、私は名残惜しくて宗介くんから離れられなかった。すると視界がぐるんと変わって、私の上に宗介くんが覆いかぶさっている。私はそのまま宗介くんに身を委ねた。

宗介くんが居なくなった後、私は捨て切れないラッピングの小箱を元に戻そうとする。解くことは簡単なのに、それをまた元に戻すことは難しい。
しかし、時間はかかってしまうが、それは元に戻すことができる。きっと、私たちもいつか。

そんな未来、もはや期待してはいけないのだ。




「名前ちゃんは、こんなに可愛いのに何で彼氏もおらんのかの〜?」

ある日、利用者の方と近くの公園まで散歩に出ていた時だった。そう言われて思わず笑ってしまう。

「初恋は実らないって言うけど、実はあれ嘘って知ってました?」
「なんじゃ、名前ちゃんそんなピュアな恋をしとるんか?」
「どうですかね。初恋は実りますけど、でもその実は成長しないんです。ずっと小さな実のまま終わっていくんです」
「急に悲しいこと言うのぉ」
「まあ結果的に初恋はうまくいかないってことですね」

夏の暑さが少しずつ和らぎ、そよぐ風が心地よかった。もうすぐしたら葉が赤色に色づいていく。私たちが出会った綺麗な季節が、またやって来る。
利用者さんが乗る車椅子をゆったりゆったり押して、公園内の植物を観ながらしばらく散歩を続けた。何度か立ち止まってはなんてことない会話を繰り返して、また進む。
それはあれからいくつもの季節が巡ったある晴れた日のこと。
私の年齢はとうに二十歳を超えてしまった。

私たちはあれから一切連絡を取っていない。


酸素に溺れて窒息死



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