毎週金曜日だけ、私の心臓は逸ったように鼓動を増やす。そのひとに会う前は、真面目な私も髪を整えるし、爪も磨くし、派手過ぎない程度に、ほんの少し化粧をする。

「先生」

進路室の扉を開けると、彼はもう既に机を対にして準備を済ませていた。「おお苗字さん、お疲れさん」と笑う彼に従って、私は向かいの定位置に腰を下ろす。

週に一度、私の通う塾では進路指導という名の面談が行われる。先生ひとり、生徒ひとりで為されるそれは、主に志望校合格のための試験対策について話をする場であったが、時には悩み相談、時にはマンツーマンでの簡易講習というように、時と場合によって柔軟にその形を変えていた。

「テストお疲れさん。聞いたで、またトップやったんやってなぁ。おめでとう」

個票をぱらぱら捲りながら、今吉先生はそんな風に労ってくれた。私はそれに恐縮して肩を竦め、掌を遠慮がちに左右に振る。

「そんなに謙遜せんと。胸張ってええとこやで」

ワシも鼻が高いわァ、と前回の実力テストの結果グラフを眺めながら眉を下げる。紙面の上の色の付いた五角形は各辺がほぼ同じ長さで、綺麗な図形を形作っていた。

「この調子で頑張ってな」

数学の欄の百、という数字をとん、とひとつ指して、彼はゆるりとそう笑った。

「んで、今日はなにする?」
「えっと……」

私は傍らの鞄から付箋だらけの赤本を取り出し、数学の項目を開いた。「ええ、またそれすんの……」と先生が些かげんなりした声を上げる。

「赤本なんて高校生になったら死ぬほど見られるで」
「今、やりたいんです」

前回教わったその続きのページを開ける。
中学生の教科書には決して登場しない記号とアルファベットが並ぶ数式をなぞって、彼を見上げた。

「お願いします」

私の言葉に、先生は溜息を吐きながら苦笑して、がたりと椅子を鳴らして背筋を伸ばす。

物心ついた頃から学校という場所が苦手だった。同じ服を着せられ、同じものを見せられ、同じ仕草を強いられる、あの箱の中が苦手だった。
調和という名の、序列を守らなければいけない。頭を揃えなければ。突出してはいけないから。波風は収めて、息を殺して、細く、細く。
特定の友達が居ない私のことを、両親はいたく心配した。中学二年の秋、「ちょっと違う環境を経験するのも良いんじゃない」と告げられ、この学習塾に通うことを勧められた。
なにも分かってないなあ、と両親を恨みながら、それでも提案を拒絶して彼らと諍うのが嫌で、ここの門を叩いた。業界大手を名乗るこの塾は、俗に名門と呼ばれる私立高校を受験する生徒で溢れていて、余計酸素が薄い気がした。

今吉先生がこの塾の講師として入って来たのは、私が中学三年に上がった春だ。

「今吉言います。どうぞよろしゅう」

癖のある低音が、すう、と耳に入った。関西弁だ、と耳慣れない抑揚にクラスの生徒達が色めき立つのを他所に、私はしなりと柳のように立つ長身を見つめた。
塾の先生にしては胡散臭さが勝りそうな黒いスーツは、若い面立ちの先生に妙にしっくりきていた。でもどこか貫禄があるというか、腹の内が深そうというか、不思議な雰囲気を覚えた。歳の割に、ひどく老成している気がする。
彼が簡単な自己紹介をした後、待ってましたとばかりに手を挙げた者があった。

「先生ってカノジョいるの?」

それを皮切りに、どうなの、気になる、と途端に教室の中がざわめき始める。私はそんな空気に少しうんざりして、はあ、と静かに溜息を吐いた。教室という空間内の恒例である。見た目が少し若く、自分達にどこか近しいものを感じる講師には、こういう明け透けな問いが飛ぶ。それに変に照れたり、妙にこき下ろしたりしてしまうと、その瞬間から生徒の格好の餌食だ。この人はからかってもいい人、と、変な馴れ馴れしさが生まれてしまう。そういう講師を、私は何人も見てきた。困ったように笑う彼らを私はいつも、お疲れ様、なんて眺めてしまう。その度に、色恋沙汰というものは本当に面倒なものだと思ってしまってしょうがない。こればっかりはどんな年代においても、矢が立つ興味の的だから。
生徒の質問に、今吉先生はきょとん、と一瞬口を窄めた。
指を顎に掛け、ふむ、と首を傾ける。……さて、この人はどんな風に応えるんだろう、と密かに窺ったところで、くす、と先生が小さく吹き出して笑った。

「……さあ、どうやろねえ」

どっち付かずな答えに、教室は当然どよめいた。
ずるい、気になる、どっちなの、と騒ぎ立つ生徒達をぐるりと見回して、先生はさっさと帰り支度を整えて手元の教材を揃えた。

「質問ないなら今日は終わり。ほなまた、来週な」

気持ち良いほどあっさりと部屋を後にする先生の後ろ姿を、私は呆気に取られた思いで見送った。
巧いな、と思った。そしてすごく、大人だな、と思った。
翻るスーツの裾を、いつまでも追いかけたい、と思った。

クラス担当として就いた講師は当然、進路指導も担当する。密かに高揚しながら赴いた最初のその時間、今吉先生は私の成績表を見て片眉を吊り上げた。

「苗字さん、教えることなさそうやわァ」

しげしげと高い位置で留まっているグラフの推移を眺めながら、彼は楽しそうに笑った。膝の上で拳を握りながら私は、この時ばかりは勉強を怠ることなく頑張ってきた自分を褒めたい気分だった。
進路指導の時間は、生徒の希望により、その目的を逸脱しない範囲で弾力的に変わる。最初は学校や塾の課題を見て貰っていたが、先生の「苗字さん、もしかして物足りないんやない?」という茶化したような問い掛けが図星だった私は、その次の時間から違う教材を持っていくことにしたのだ。

「もっとかわいい問題集持ってくるかと思ってたんやけどなあ。チャート式、とか、シグマベスト、とか」

私が高校数学を教わりたいと言い出すのは予想していたのか、と思いながら、それでも彼の想定を超えた申出ができた自分が、少しだけ誇らしい。

「……ま、ええけどね。興味あること勉強すんのが一番やから」

苗字さんセンスええしね、とぽんと放たれたその台詞に、私はどう返答していいのか分からず俯いて口元をまごつかせる。
私のそんな様子に気付いているのかいないのか、彼は問題集を覗き込んで設問をじっと眺めた。あー今日のは厄介やねえ、と背中を倒す仕草を上目に見る。……見て、緩みそうになる頬を必死に堪えて押さえつけた。
今吉先生のそういう何気ない一言は、いつも私の両肩をそっと、ほんの少しだけ温める。



その日は珍しく私の方が早かった。
進路指導室に入ると机はもう対面にセッティングされていたものの、中に先生の姿はなかった。いつもは先に席に着いていて、直近の小テストを採点していたり、高校学校案内なんかをチェックしていたりしたのに。
私がまだ来ないと思って講師室で待っていたりするのだろうか、なんて考えて、私は部屋を出て彼を探しに行くことにした。
しかし、講師室にも、他の教室にも彼は居ない。目ぼしいところはすべて回ったものの、先生の姿を確認することは出来なかった。
諦めて大人しく指導室で待つか、と戻ろうとしたその時、微かに話し声を聞いた。ひと気の少ない、空き教室の角からだ。

「ねえ聞いた? あの子、まただって」
「あー、赤本?」

びくっ、と背筋が強張って足を止める。
詰まったように声が蟠り、身体が凍った。物音を立てないようにそっと角から会話を窺う。
声の主には見覚えがあった。並んで顔を合わせているのは、同じ特進クラスの女子ふたり。
赤本、と言った。この距離だ。聞き違えたりなんてしない。そんなキーワードがここらで当てはまるのなんて、もしかしなくとも。

「進路の時間、いっつも赤本の解説してもらってるんでしょ? 頭良い子は良いよねえ、余裕でさ」
「赤本って、大学受験の過去問なんでしょ? 確かにすごいけどさ、今やること? てか、高校受験の勉強しないなら、この塾来る意味無くない」
「言えてる」

きゃはははっ、と高い笑い声が、ひどく姦しく聞こえた。血の気が引く。足が竦む。ぶるぶると震えてくる身体の末端から、急速に温度が失くなっていく気がした。

「ていうかあの子、なんで塾来てんの?」
「さあ」

今吉先生に気があるからじゃない?



はっ、はっ、と息が途切れる。苦しくて、胸がむかむかして、制服の上着を脱ぎ捨ててしまいたかった。
振り返らずに逃げて来た。ばたばたと足音を隠さないまま衝動的に走ってきたが、彼女達は私に気が付いただろうか。それとも、未だあの場で、無防備かつ明け透けな批評を続けていたりするのだろうか。
ああ、苦しい。心臓がいたい。吸って吐いてを繰り返している筈なのに、肺が広がらない気分だ。酸素が足りない。難しい。呼吸ひとつ、私はここで満足に出来ない。
どん、と前方から衝撃を受けて、私はぺたんと尻餅をついた。目の前に一瞬広がった黒で、私はそれが誰かを察してしまう。

「わ、すまんなあ、大丈夫か?」

柔らかい口調。癖のある低音。
……ああ、どうして、こんな時に会ってしまうんだろう。タイミングの良過ぎるこのひとが、今は少しだけ嫌いだ。

「指導室に荷物だけあって居らんから、探しとったんやで。さ、行こうや」

座り込んだ私に掌を差し出す先生が、白熱灯を背負って身体を屈めた。
大きな手。骨張った腕。年齢の隔絶を示す、黒いスーツの袖口。
あの子達の言う通り、私は今日も表紙が赤いあの問題集を鞄に入れてきた。付箋だらけの、マーカーだらけの、実生活にそぐわないそれ。かあっ、と目の奥が燃えるように熱くなる。
そんなものを持って来ていることが、なんだか世界で最も恥ずかしいことのような気がした。

「苗字さん? どうしたん?」
「……せんせ……」

ひくり、喉が鳴る。
勝手にぼろぼろ落ちる涙は、頬を滑って重力に従った。
ああ、駄目だ。だからこういう場所は嫌なんだ。同じ箱に押し込められた同年代は、誰も彼もが人の噂ばかり。無邪気な興味と容赦を知らない物言いは、いつだって鋭い尖りとなって私を襲う。自分らしく居られない。苦しい。寂しい。息が出来ない。ここはさながら、深い海の中のようだ。
苗字さん大丈夫か、とほんの少し焦ったような今吉先生の声が届いた。広い掌が背中を撫でる。宥めようとしてくれたであろうそれは、今は却って逆効果だ。殺そうとした泣き声が、抑え切れずに噛み締めた歯の間を通る。

愛とか、恋とか、そういうのじゃなかった。そういうのなんかじゃないと、声を大にして叫びたかった。
ただ、このひとの側にいると、少し気持ちが楽になった気がしたから。このひとの隣にいると、押し込めていた自分自身を、少しだけ晒け出せる気がしたから。
上手く呼吸をしたかった。私は彼の元で、普通に息がしたかっただけなのだ。


海の底で泣いて



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