消滅が起こったあの日から、私は眠ることができなくなっていた。
 消滅直後の周辺都市の混乱が夢に出てきて、私を苦しめるのだ。泣き声と悲鳴と喚き声と怒鳴り声が、私を眠りから叩き起こすのだ。

「名前、少し休んだ方がいいわ」

 従姉のユミコ姉さんが、ソファーに座って本を読んでいた私に毛布をかけてくれる。幼い頃に両親を亡くし、施設で暮らしていた私を引き取ってくれたのがユミコ姉さんだった。
 姉さんの赤い髪からシャンプーのやさしい香りが漂ってきて、私は目を閉じて微笑んでいた。

「ありがとう、姉さん」
「気にしないで。じゃあ、私は仕事に行くから、気を付けてね」
「うん、いってらっしゃい」

 軽く手を振って、姉さんが部屋から出ていく。玄関の扉が閉まり、鍵がかかる音を聞いた私は、本を閉じて膝の上に載せた。
 姉さんはとある研究所で働いている。研究所の人たちからは“リサーチャー”と呼ばれているらしく、消滅の謎を突きとめるために皆でそれぞれ協力し合っているらしい。
 ……消滅の謎が解けたら、もう一度彼に会えるのだろうか。
 私は首にかけていたロケットを胸元から取り出す。蓋をそっと開けると、中に緻密な機械の入っているロケットから、ささやくようなメロディが流れ始めた。
 美しくも哀愁を感じさせる旋律が小さな部屋の中に響き渡る。愛しい人の帰りを待つ女性の想いが込められた音のつぶが、一つ一つ悲しげに弾んでいた。
 苦しいような切ないような音に包まれながら、私は目を閉じる。旋律に合わせるようにして、涙が零れ落ちていく。
 眠ることのできない私が唯一安息を得ることができるのは、このオルゴールの音楽を聴いている時だけだった。眠ることはできないけれど、体の疲れは癒えていくのだ。

「ツバサ、どこにいるの」

 体から疲れが抜けていくのに比例して、胸の苦さが増していく。
 濡れる瞼の裏に、あの夜のことがオーロラみたいに広がっていった。

 *

「ツバサ、どこに行くの」

 それは、しんしんと澄み切った夜だった。大人たちも眠り、かすかに虫の音だけが聞こえてきている静かな夜。
 親のいない子供たちが住む施設の入口に、ツバサが立っていた。彼の銀色の髪が夜風に揺れて輝いている。

「名前……何でもないよ。ほら、部屋に戻っておやすみ」

 淡く微笑んだツバサは、子供をあやす親のようにささやいた。
 その目が悲しそうに細められていて、私は立ったまま何も言わないでいた。
 ツバサがこれから何をするのか知っていたから、この場から離れることができなかった。

「名前、お願いだから。ヨシアキのそばにいてあげてほしい」
「……私じゃなくて、ツバサが一緒にいればいいよ」
「ダメだ」
「どうして」

 ツバサは何も言わずに、小さくため息をついただけだった。
 私と大して大きさの違わない手のひらが、私の頭をやさしく撫でる。その指先が僅かに震えていて、私はツバサのシャツをぎゅっと握りしめた。

「ツバサがいなくなったら、誰が私を守ってくれるの。私があーちゃんに筆箱を隠された時も、なっちゃんたちに無視された時も、助けてくれたのはツバサだったのに」
「……そうだったね」
「いかないで」
「……ごめん」
「謝らないでよ」

 ツバサがぎこちない動きで私を抱きしめる。女の子を抱きしめたことのないのがバレバレな動きだ。そういう私も、お父さん以外の男の人に抱きしめられたことなんてないけど。

「ここにいると、ヨシアキにも名前にも迷惑がかかる。だから、行かなきゃいけない」
「どうして? 何があったの?」
「……ごめん」

 そうやって、また謝る。謝罪の言葉なんていらないから、ツバサの本当の気持ちが知りたいのに。胸の底に隠しているものを見せてほしいのに。
 どこかに行ってしまう彼を引きとめられないことが、あんまりにも悲しくてつらくて。
 左目と右目から次々に涙が零れ落ちていく。声を出すわけにもいかなくて、ツバサの肩に顔をうずめながら涙だけを流し続けた。

「名前、泣かないで」

 ツバサが困った声で私の背中を撫で始める。
 どれくらいそうしていたかわからない。涙も枯れ、泣き過ぎによる疲労で目眩と頭痛がし出した時、ツバサがそっと私から離れた。
 ああ、本当に彼は行ってしまうのだ。私が泣こうと怒ろうと、ツバサの決意はもう変えられない。
 でも、それでも私は。

「これ、あげるよ」

 ツバサがポケットからハート型のロケットを取り出した。
 表面は薔薇を模した装飾が施されている。ツバサがロケットを開くと、軽やかなメロディが流れ始めた。ロケット型のオルゴールだったのだ。
 ツバサはロケットを私の手に持たせると、目を細めて微笑んだ。その笑みには、もう寂しさも悲しさも込められていなかった。

「これは……約束として受け取ってほしい。いつか、また会おう」
「いつかじゃなくて、今がいい」
「……守ってあげられなくて、ごめん」

 そう言って、ツバサは私に背を向けて街明かりの方に歩いて行った。
 その背中がどんどん小さくなっていくが、とうとうツバサは1度も振り向いてくれなかった。手のひらの旋律は軽やかなはずなのに、私の心を黒く塗りつぶしていく。

 私を守らなくてもいいから、謝らなくてもいいから、どうか、どうか行かないで。

 *

「いかないで」

 自分の呟きに驚いて、意識が過去から今へと戻る。気付くと、涙も音楽も止まっていた。
 時計を見ると、日付が変わる直前だった。ゼンマイを巻いた後、ロケットを閉じポケットにしまう。
 本と毛布を体からどけると、私はベランダに出て生温い夜風を胸一杯に吸い込んだ。遠くの方に、廃墟となった都市が見える。

――ツバサはあの日、都市と共に消滅に巻き込まれていた。

 消滅がなぜ起こったのか、その理由は誰にもわからない。
 一瞬にして一つの大都市がそこにいた人々と共に消滅し、残されたのは廃墟だけだった。今では消滅した都市はロストと呼ばれ、都市の中央に何があるかは未だ不明のままだ。
 世間は消滅を大規模な自然災害だと思っているようだが、ユミコ姉さんと研究所の人たちを見ていると、それは絶対に違うと感じていた。

 消滅が起こってからしばらくして、私はツバサが消滅に巻き込まれたんじゃないかと思い、ユミコ姉さんに彼の行方がどうなったか調べてほしいと頼んだ。
 しばらく経ってから告げられた残酷な事実も、ユミコ姉さんの悲しそうな表情も、未だ受け止められずにいる。

 ふらり、と薄手のコートも着ずに家を出る。
 夜間外出をするなんて姉さんは喜ばないだろうが、今晩は外にいたかった。
 真っ白な自転車に乗り、ゆっくりと廃墟の方へとこぎ出す。ロストに行って何をすればいいのかわからないけれど、とにかく前へ進みたかった。

 1時間も休まずに走り続けると、さすがに喉が渇き、足に疲れも溜まってきた。
 それでもこぎ続けると、やがて舗装されていた道が荒くなり、地割れが目立つようになる。
 今にも崩れ落ちそうなビルが近付いてきた時、私は自転車を比較的原形をとどめている建物の横に止め、今度は自分の足で歩きだす。これ以上、自転車で進むことはできないと判断したからだ。
 隆起した道をもたつく足で乗り越え、ひび割れた道路に気を付けながら、都市に吸い込まれるようにして歩き続ける。
 しかし、お洒落なオフィスビルだったと思われる廃墟の前で、コンクリートの破片につまづき、転んで手のひらを擦りむいてしまった。
 血は出ていないが、汗と土が擦りむけた傷口に入ってちりちりとした痛みを与えてくる。一筋の汗が額を流れ落ちた。
 これ以上先へ進んだら、家に帰る体力がなくなってしまうとわかり、私はとぼとぼと自転車を置いたビルまで戻る。お気に入りの自転車が何も変わらずに立っているのを見て、少しだけ安心した。
 ハンカチで手のひらを軽く拭いて、自転車のキックスタンドを上げる。
 後ろを振り返って、ロストを一生の別れを告げるように見つめた。

「……ツバサ」

 私が困っている時、苦しんでいる時、いつでもツバサは私を助けてくれた。私の涙が止まるまで隣にいてくれた。
 でも、もうツバサはいない。一度も私と再会できずに消えてしまったのだ、永遠に。

「嘘つき、ツバサの嘘つき」

 乾いた唇から、同じくらい乾いた呟きが零れ落ちた。
 いつかまた会おうなんて言ったくせに、どうして消えてしまったの。
 ヨシアキも消滅に巻き込まれてしまった。住んでいた孤児院も消滅に巻き込まれたと聞いている。
 過去の私を知る者は、もういない。

 あの日の消滅は、私の過去も一緒に消してしまったのだ。

 そう思うと胸が苦しくなって、泣きだしたい激情に駆られる。思わずロケットを取り出そうと、ポケットに手を入れて凍りつく。そこにあるはずのロケットがないのだ。ショックで両手を離したことにより自転車が横転する。
 構わず片方のポケットにも手を入れるが、やはりない。家を出た時にはあった。つまり、どこかで落としてしまったのだ。
 真っ先に思い浮かんだのは、あのオフィスビルで転んだ時のことだった。まずは、あそこから探してみないといけない。
 もつれそうになる足を叱責しながら来た道を戻る。道の途中に落ちていないか下を見て歩くが、どこにも見つけられない内に、オフィスビルの前に辿り着いていた。
 転んだ場所とその周りを見てみるが、月明かりだけでは探すのに限界がある。携帯電話も懐中電灯も私は持っていない。

「あれが、ないと……」

 顔から血の気が引き、体が震え始める。
 あれは私とツバサを繋ぎとめておく唯一のしるしなのに。なくなってしまったら、ツバサとの形の思い出がなくなってしまう。

 約束が、本当に消えてしまう。

「お願い、どこにあるの……どこに……」

 すがるように呟きながら、地面に膝をつき、必死に探す。
 泣きたいくらいつらいのに、泣くことができない。涙を流せないせいで、悲しみが胸の奥につっかえて苦しい。
 あのオルゴールがないと、私は泣くことができないのだ。

「う……ぁ……」

 耳鳴りが酷い。ショックでうずくまった私を嘲笑うように夜風が背中を駆け抜けていく。
 ツバサのいない世界がこれほどまで残酷なら、彼と一緒に消えてしまいたかった。――私も一緒に消してほしかった。

「……?」

 ふと、私を嘲笑っていた夜風の隙間から、ささやくような音楽が流れている事に気付く。
 風と共に流れてきたその旋律は、あのオルゴールのものと同じだった。
 両手で抱きしめるように震える体に腕を回す。あまりにも小さい音で、ちょっとでも意識を横に逸らしたら聞こえなくなってしまいそうだ。しかし、オルゴール特有の金属音が寂しいメロディをどこかで確かに奏でている。
 音を聞き逃さないように、そっと立ち上がり、音のする方へと迷いながらも進む。がれきの山を越え、ビルの間をくぐり抜けていく。
 建ち並んだビルの隙間から一本の道が伸びていた。
 他の道と違わずぼろぼろのはずなのに、まるでレッドカーペットのように鮮やかさを路地いっぱいに広げていた。地面に散乱した硝子の破片が、月光を受けて宝石のようにきらきらと光っている。
 真っ直ぐに伸びた道の先に、誰かが背を向けて立っていた。オルゴールの音が消える。
 月明かりのスポットライトを静かに浴びるその人物は、何かを思うように俯いていた。生温かったはずの夜風が涼しげなものに変わり、ワンピースの裾を撫でていく。
 一歩前に進むと、足元のコンクリートの欠片を踏んでしまい、乾いた音が静かな路地に響いた。音に気付いた相手がゆっくりと頭を上げる。

 ――それはまるで、映画のワンシーンのようだった。

 こちらを振り向いたその人の髪は、あの別れの夜と同じように揺れ、銀色に輝いていた。

「あ……」

 その人の青い目が私を捉え、やさしく細められていく。
 ふらりと足を踏み出し、歩きだした赤ん坊のようによろよろと前へ進む。
 つんのめるようにしてその人のそばに辿り着いた私は、真っ直ぐに背を伸ばし、相手の顔をしっかりと見つめる。
 震える手を相手の方へ差し出すと、その人は私の手をそっと握ってくれた。

「ツバ、サ」

 口の中が乾燥していたせいで、おかしな声が出てしまった。
 その人は――ツバサはくすっと微笑み、私の手に何かを握らせた。手を開いてみると、私が落としたあのロケットだった。
 閉じられていたロケットの蓋を開けると、あの哀愁に満ちた旋律が流れだした。

「……名前」

 高価な宝石に触れるように丁寧に抱きしめられ、体から震えが抜けていく。腕に力が入らず、手のひらからロケットが転がり落ちた。
 消滅したはずのツバサが何故ここにいるのかはわからない。もしかしたら、私は夢を現実だと思いこんでしまっているのかもしれない。
 でも、それで構わない。夢だろうと幻だろうと、確かにツバサはここにいる。私の耳元で名前を呼んでくれている。
 もうこれ以上の余計な言葉なんて不要だ。言葉などなくとも、今、私と彼の心は確かに触れ合い、繋がっているのだから。
 彼のぬくもりが私の体を包み込む。視界が潤み、瞼を閉じると雫が頬を濡らしていく。
 足元で奏で続ける旋律と涙が溶けあいながら、月明かりに消えていった。


瞼を濡らす優しい音へ



Back