「理解したいとは思う、本当に」
カフェの片隅。金髪のスーツ姿の男と、真っ白なワンピースの女の間には、重苦しさが垂れ籠めている。その女の方、名前は、端からは浮気した男女の行き着いた先のようにも見えるかもしれない、なんて考えていた。
「何度も言ってるじゃない」
それらしい声色とは裏腹に、名前は至って無表情で、吉影にはとてもそれが彼女の本心から出たものだとは思えない。
名前は美しいが、手は美しくなかった。指輪を嵌めた、特別長くも短くもない平凡な人差し指。特別白くも黒くもない肌の色にそれなりに似合っている。何の感情も湧かない、世にごまんと存在する女の手。
だからこそ吉影とも話していられる。美しい手だったらきっと、すぐに殺していた。美しい手の女は殺さずにはいられない、それが完璧に見える吉影の唯一の業だからだ。
今のところ二人はただの幼馴染で、特別なことと言えば名前が吉影の『性癖』を知っていることだけだ。
「聞いてる?ねぇ」
「……ン?」
吉影が何か別のことに想いを馳せていることに気づいた名前は、頬を膨らませた。その仕草は余りにも子供っぽく、吉影は思わず吹き出した。
名前が生きているのは、吉影がこの静かな時間にある種の安らぎを感じているからだった。喫茶店で名前の一方的な話を聞きながら考えことをする、ただそれだけの無益な時間。耳を通り抜ける名前の凛とした優しい声が、吉影に手首とは別の癒しをくれる。
だがその無邪気な情が、名前を酷く苦しめていることもまた確かなのだった。
「で、何の話だったかな?」
「これだから……」
悪びれもしない吉影に名前が大袈裟な溜め息をつく。ほとんど中身の無くなった吉影のティーカップと、ほとんど中身の減っていない名前のそれが、二人の違いを如実に表していた。
「幸福論について、話してた」
大きな瞳で睨まれ、吉影はこうなっては聞き流すことはできないと悟る。名前はこうして時々説教臭い話をしては、吉影をウンザリさせているのだ。聞き捨てているのがバレると、名前はまた最初から話し始め、吉影に意見を求めるのだった。
「激しい喜びも深い絶望もない、植物の心の様な平穏な生活……だったっけ」
「……それが何だと?」
吉影が自分の信念に言及されることを嫌うのは、当然名前も知っている。ただ今日は、それを知った上で吉影に問うてみたいことがあった。
「例えばの話」
名前は一度顔を上げ、吉影が聞いていることを確認してから話を始めた。
「吉影に愛する人ができたとして」
「……は?」
「例えばの話だよ」
訝しげに眉をひそめる吉影を無視し、名前は『仮定』の話を続ける。
「彼女は勿論手が綺麗で、吉影が殺すのを躊躇うくらい大切な人だったとする。その人に『結婚してほしい』って言われたとして、それでも『激しい喜びはいらない』って言えるの?」
愛する人と結婚すること。吉影には想像もできないが、世間一般からすれば、それは『激しい喜び』に分類されるものなのだろう。
いつもならこんな下らない質問、戯れ言として無視してしまうことだってできた。だが今日は、吉影を見つめる名前の瞳がそうさせなかった。
「……私が『激しい喜び』を必要としないのは、それには『深い絶望』が付き物だからだ」
「へぇ……?」
吉影は無理に想像する。自分が誰かを愛するようになって、彼女にプロポーズされる場面を。それを受けた自分が彼女と結婚したあとのことを。
「実際に名前が言うような展開になったとしても、それは例外ではないだろう?結婚したあと彼女が死んだら、それは『深い絶望』に繋がるんじゃあないのか?」
「……確かに、そうかも」
名前は吉影の答えに納得してしまっていた。真に誰かを愛することのなど決してない彼だからこそのその答えは、妙に説得力があり、ただ名前の求めていた答えではなかった。
名前はやっと、そもそもこんな質問は無意味だったのだと気づく。吉影が愛する『彼女』なんて虚構の存在だからだ。彼が彼でがあり続ける限り、誰かを愛することなんてできないのだ。
それでも名前は吉影の虹彩に映る自分を見ていると、今のやり取りは何もかも夢で、もう一度同じことを訊けば違う答えが返ってくるはずだなんて、馬鹿なことを考えてしまうのだ。いるはずのない『彼女』と自分を、密かに重ねてしまうのだった。
「これは何の質問なんだ?」
「…………うーん、何だろうね?」
「……全く」
肩をすくめる吉影をまじまじと眺める。20代の頃に比べたら確かに重ねた年月を感じるけれど、彼は昔からずっと美しく、今でも危うい魅力を孕んでいた。
「……名前?」
吉影が自分の名を呼んだところで、名前はどうしようもなく哀しくなってしまった。名前の愛する人は、名前の手では絶対に振り向いてくれることはない。一方で、彼は彼のサガのせいで絶対に普通の幸福を手に入れられないのだ。
だが、二人とも不幸せならそれはそれで幸せなのではないか……そう思ってしまう自分が、名前は何より哀しかった。
「……幸せに、なりたかったな」
名前はおもむろに人差し指の指輪を外すと、吉影の小指に嵌めた。薬指の代わりに。


誰かの幸福論について



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