いつも誰かが私のことを見ている。舞台の上のみならず、こうして一人で天井を見つめている時も、誰かに監視されている気分になる。そしてそれは真実だ。手汗や皮脂でボロボロになった台本を腹の上に抱えて私は目を閉じる。
 人気があることを否定するつもりはない。始めた時期が遅かったのもあって今回が初めてのメインヒロインだが、私は支配人のお気に入りだし、それだけの努力をしてきたと思っている。こういう組織で大事なのは年齢ではなく実力だ。自分より若くても実力さえ備えていれば私は素直に称賛するだろう。微塵も悔しさがないとは言わないが、実力主義は徹底しなければ意味がない。私は劇団内でトップクラスに諦めが早く、役に執着しないことで有名だった。とはいえそれもこの小さな街の中の話で、もっと大きな舞台に立つことを考えるとまだまだ不十分だ。いくら演劇の街と呼ばれているこの天鵞絨町でも、世界を相手取るなんて到底不可能だ。それにGOD座は支配人のやり方が陰湿すぎる。このままではいずれ新進気鋭の若手劇団員のいる劇団に負かされてしまうだろう。たとえば、あの男の毛嫌いするMANKAIカンパニーに。
 何か月か前、オフの日に彼らの公演を観にいった。あの子役時代から有名な俳優が所属しているとあれば、興味を持つのも当然だろう。我が劇団の人間もちらほら見かけたが、大抵が良くて端役しか与えられない若手たちだった(その他はもちろん視察が目的の、レニに心酔する奴らだ)。眩しく映ったことだろう。事実私も彼らに対しての認識を改めなければならないと思った。それから全盛期の頃の映像を見て、はっきりとGOD座が負けることを悟った。私にはあそこが合っているから、抜けることはないだろうけれど。
 眠気が訪れることなく思考だけが巡っていく。どうしてこんなに考え込んでしまうのだろう。いや、原因は分かりきっている。私はついに目を開け、のっそりと起き上がった。

 あの男のやり方が汚いのは今に始まったことではない。ソファーに腰かけ、何も映らないテレビを見つめる。明日でようやくこの役から抜け出せるのだ。求められた完璧なプリンセスを私は演じきってみせる。相手役の男はなんだか少し前から調子が悪そうだが、演技に支障がないから構わない。支配人があんなことをわざわざ千秋楽の前日に告げてきたのは何故だ? 知らず漏れたため息をどうすることもできず、足を組もうとしてやめる。プリンセスか。忌むべき女性像だろうが役は役、仕事は仕事だ。今の私には与えられたものを最大限に出力することしかできないし、しなくていい。
 七尾太一をスパイとして送りこむ。
 嘲笑うのが癖になっている哀れな男の声色を思い出す。人を試すような真似をするのはいい加減やめろと言いたくなる。一つの劇団の支配人にまでなったことで多少は変わったと思ったのに、悪化の一途を辿っている気がしてならない。そんなことをしなくても私は太一を選んだりしない。お前の演技に惚れてから何年経ったのか、ようやく私自身も演劇の道を歩み始めることができたのに。

「太一……」

 確かな矛盾を誰かに責められ続ける若い女の肌に、指先が食い込む。

 もちろんセリフを飛ばすとか動きを間違えるとか、そんなミスもなく、たくさんの観客の前で私は仕事を終えた。舞台袖は慌ただしく、私もメイクの子に顔を向ける。

「名前」

 額に汗を滲ませた王子が素の表情に戻ることもできずに手を挙げた。私はもうとっくに魔法が解けていたけれど、微笑みを返した。

「お疲れ、丞さん」
「ああ。最後まで完璧だった」
「ありがとう。丞さんもね」

 拍手が遠くで私を囃し立てている。心臓が嫌な音を立てながら、私の脳みそを犯していく。軽くハイタッチした後、二人でステージを見て、私はその違和感から目を背けた。

 打ち上げに主役がいないのはまずいと分かっていたが、丞が一次会で抜けると言うので私もついでに抜けることにした。まだ早い時間なので私たちを知っている人間がいることを考慮し、鞄からマスクを取り出す。

「何があったか知らないが、次のオーディションまでに解決しておけ」
「あなたこそ」
「俺は何もない」
「そういうことにしておきましょうか」
「じゃ、お疲れ」
「ええ、また明日」

 駅前で別れ、その後ろ姿から腕時計に視線を移す。帰って飲み直してもいいなと七と十二を指す針から顔を上げた。
 動揺くらいできればよかったのに。私は結局選ぶことができないだけなのだ。あの素直な子がスパイなんてできるわけがないと思った。要領も悪く、年齢や知識の差もあるだろうが、ほぼ同時期に入団した私と今ではこんなに立場が違う。演技に関しては少ししか先輩ではないのによく慕ってくれて、だから私は、年甲斐もなく心を預けてしまいそうになったのだ。そうやってうじうじしていることに嫌気が差し、姿勢を正し。
 しかししばらく歩いた後視界に入った赤髪のせいで、私は立ち止まってしまった。これが運命というやつなのか。思考回路が数時間前まで浸っていた能天気なファンタジーから抜け出せていないことに、思わず口元を歪ませる。トレンチコートのポケットから両手を出し、意味もなくパンプスの先で地面を叩いて、それからようやく歩き出す。

「太一」
「……え、名前サン?!」
「久しぶり」

 目を見開いた太一は仰け反るようにして私から距離をとった。何か月ぶりだろう。きちんと二人で話をするのは、もしかしたら半年以上ぶりかもしれない。セリフを考えていたわけでもないのに、彼の顔を見たらすらすらと話の筋が思い浮かぶ。

「ご飯食べた? まだならおごるよ」
「え……でも、打ち上げは?」
「抜けた。ずっと太一と話したくてさ」

 何の流れかは忘れたが、以前大人の余裕だと言われたなと他人事のように思う。ただ単に狡いだけだ。何度か瞬きをしながら太一は俯いた。不自然に直前の笑みだけが残っている。

「何が食べたい?」

 無意識だろうが、彼は捨てられた子犬のような目で私を見た。
 ファストフード店で私はホットコーヒーを、太一はハンバーガーのセットを頼んだ。こんなところ、来るのは久しぶりだ。それこそこの子と前に来た時以来だろう。席につくと彼がいそいそとスマホを取り出したので、高校生を連れてきてはまずかったかなと考える。

「親御さん?」
「あ、は、はいッス! ごめんなさいッス」
「こちらこそ、急にごめん」
「全然大丈夫ッス!」

 見知った楽しげな笑顔に肩の力が抜ける。ご、は、ん、打ち込んでいるのであろう文章を小さく呟く太一を横目に、足を組む。想像よりも声のトーンが明るくてほっとした。

「できたッスー」
「いいって?」
「はいッス!」
「よかった」
「それにしても名前サンはすごいッスね」
「え?」
「千秋楽! さっすがGOD座のプリンセスッスよ」
「あ、観てくれたの」
「そりゃ観るッスよ! ていうか俺っち、名前サンが出てるのは毎公演観てるんスよ?」
「そうなんだ。私も太一のは見てる」
「照れるッスー!」

 薄くインスタントな味に顔をしかめる。嬉しそうに笑う彼はまるで以前と変わりがない。このまま私が話題を出さなければとさえ思ってしまう。そもそも、何故私は声をかけたのだろう。意味がないと分かっているのに。

「もう雲の上の存在ッスもんね」

 はっと顔を上げると彼はちょうど逃げるようにハンバーガーの包みを開けていた。どうしてスパイなんか引き受けたんだ。そんなことしなくたって、お前がやらなくたって、あそこはなるようになるし、レニがどうにかする。一気に彼を責めるための言葉が溢れてくる。私が太一の同級生だったら、友達だったら、恋人だったら、どくんと心臓が跳ねるのが分かった。一口、二口、ハンバーガーが彼の口へと消えていく。何を言えばいいか分からず、いや、笑って誤魔化すなんて真似はできなかった、私は紙コップに目をやる。店内の明るすぎる照明が映りこんでいる。

「太一」

 おいしくないコーヒーを一口飲んだ後、彼の名を呼ぶ。さっさと食べ終わり、口をもごもご言わせた太一と目が合う。これを言って私はどうするのだろう。追及されたくないことだと分かっているのに、私は彼から目が逸らせない。大人の余裕だって?

「レニから聞いたよ」
「え……」

 そうとは知らなかったらしく、彼が訝しげな表情を見せた。

「え」

 もう一度そう言うと太一は視線を彷徨わせ、紙ナプキンで口を拭う。何をと聞かないあたり、私がそれについてどう思っているかもなんとなく察しがついているのだろう。咄嗟に言葉が出てこなかった時点で、ほとんど彼の負けは決定していた。

「どうして受けたんだ。そんなことしなくたってあそこは」
「俺は」

 言葉を遮られ、思わず口を噤む。責めたいわけじゃない。泣いてほしくない。唇の乾燥がひどい。

「名前サンは、俺とは違うから……」
「……どうしてそんな話になる?」
「役を……メインになれるなら、俺は……やるしかないんスよ」

 指先が冷え切っている。役? メイン? スパイなんてできるはずない、でもそれは、弱味を握られていなければの話だ。

「まさかお前、メインにしてやるとでも言われたのか?」
「お、俺っちだってそんな、信じてないッスよ!」
「それこそ嘘だ」

 語気を荒げてしまい、一度自分を落ち着かせるためにカップに口をつける。名前サンは俺とは違うから。彼の口から漏れ出した本音が、頭の中でループする。私とは違う。俺とは。……ああそうか。何度目かのそれの後、唐突に理解した。入団当初から私が傍にいたから、この子は劣等感を刺激され、レニのあんな子供騙しに釣られてしまったのだ。後悔も反省もしようのない理由だった。それでも、本当にそうなら私から言えた話ではない。

「そんな暗い顔しないでほしいッス」
「太一」
「名前サンはGOD座のプリンセスなんスから!」

 私はこの子をどうすることもできないし、何かを言う資格もなかった。そんなくだらない肩書きはいらない。私はお前の相手として、舞台に立ちたかったのに。これが、こんな枷がお前の欲しいものなのか? 本当に?

「絶対うまくやってみせるッスよ!」
「……無理だけはしないで」
「りょーかいッス!」
「太一」
「なんスか?」
「私はお前の味方だよ」
「……名前サン」
「出ようか」
「あ、はいッス!」

 このまま向き合っていると余計なことまで言ってしまいそうだと思った。それにどの言葉も彼を傷つける気がしてならなかった。立場が違いすぎる。思想も、年齢も、性別までもが私たちの間に立ちふさがっていて、終着点が見えない。
 繁華街を抜けて別れ道まで歩く間、不自然に浮き足立った彼の言葉以外発せられなかった。明るく振る舞ってやるのがせめてもの救いだと分かってはいたが、それさえできなかったのは私の臆病さ故だろう。

「明日の稽古、待ってるから」

 街灯の下、縋るような気持ちで彼を見る。一瞬迷うように目を逸らした太一だったが、すぐに笑顔を見せてくれた。

「もちろんッス!」
「うん。じゃあおやすみ」
「おやすみなさいッスー」

 お前の望んだ罰はこれか。お前だけを見ていろって? 乾いた笑いが漏れた。夢を見ることのできる時期は疾うに過ぎたのだと思い知らされる。私に恋愛沙汰は向いていなかったよ、と、誰かに報告する。これからも私は責められ続けるだろうと思った。よく知っているようで、いつも姿の見えない、心の中の誰かに。


終わりへと向かう電車を探して



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