※転生ネタ

今度ばかりは躊躇していると、元夫は言った。
それは言い換えれば、今までは微塵も躊躇わなかったということであり、その一点だけでも彼の人間性が知れようというものだが、その事実はあまりにも家康らしいので、私は案外気に入っていたりする。
母子二人で暮らすには広すぎるようにも、小洒落すぎているようにも思えるこの住居は、部屋どころかマンションまるごと家康の持ち物だ。別居を決めた際に、彼が所有する物件の中から、気に入ったものを譲り受けた。北欧風に調えられた家具も家康が用意したものだ。慰謝料が発生するような別れ方はしていなかったはずだが、息子の養育費と称して、家康は毎月私の口座に他人が聞いたら卒倒するような金額を振り込むので、私たちの生活費は百パーセント家康によって賄われている。
気前が良く、責任感が強く、他人に手厚い。
家康の気風は、いつだって変わらない。本質的なものなのだろう。三成がいつの時代も冷酷で妄信的で哀しいことと同じだ。そして私はそれらに寄生して生きている。いつも。
「この色は嫌いだ」
着替えの為に用意した、深い青のパーカーをつまんで、いっぱしに顔を顰めた息子が言う。彼はまだ五歳児だが痩せていて、誰に似たのか言動も行動もあまり子供らしくない。
「せっかく家康が買ってくれたのに…」
私は溜め息を吐きながら、チェストの引き出しを開けた。

前世の記憶がある…というと、いかにもオカルトチックだが、私はそれを当たり前のことと認識して今日まで生きてきた。幼い頃には実感が伴わず、遠い映画のようだったそれは、私が成長するにしたがってよく馴染んだ。私という人格が、この時代でも再構築されたということだろう。
いつも私は覚えている。同じようなことを何度も繰り返しているはずなのに、一つ前のことしか思い出せないのは、単純に容量の問題だろう。彼等がどの程度記憶しているかについては、要領を得ないので、言質をとることすら疎かにしてしまいがちだが、忘れていないのだということは、その態度からすぐに知れた。
彼が殺す。彼は殺される。私はそれを見届ける。
神代から。現代まで。これはある種の呪いなのだ。代えられない運命なのだ。

金持ち然とした屋敷ばかりが立ち並ぶ一等地。その中でもひと際目を引く豪邸に、祖母の手製の漬物を届けに来ていることを思うと、なんだか滑稽で笑えてしまう。インターフォンを押す前に、家康が出てきて門を開けてくれた。ここはこの精悍な幼馴染の生家である。
「あれ、部活は?」
「来週からテストだからな、今週は休みなんだ」
「ふーん、早いね」
公立の中学校に通う私と違い、家康は中高一貫の所謂金持ち学校の生徒だ。**母親同士が親しいので、家族ぐるみで交流がある。平凡な私の母と、本来なら住む世界の違う生粋の上流階級である徳川夫人は、近所で評判の良い産婦人科の待合室で出逢い、意気投合した。だから私と家康は生まれてくる前からの幼馴染なのだと、誇らしげに彼女らは言う。その言葉にこちらがどれだけ薄気味悪いものを感じているかなど、お構いなしである。
「平和だな…」
含みのある言い方をしながら、家康は私を招き入れる。
「こんな世がずっと続けばいい」
私はそれには応えずに、彼の手に託けられた紙袋を渡す。

勝つのは家康だ。それだけは間違いなかった。
西軍と呼ばれ、太閤の遺したこの大阪城を拠点にし、その後継として振る舞ってはいるものの、最早その正当性を維持するほどの兵力も手腕も情熱も、何一つ残ってはいなかった。賢い者や臆病な者、今後とも身を立てる気がある者は競って東軍に与した。この城に残っているのは余程の忠義の者や血気盛んな者、そうでなければとうに生きるのを諦めた死にたがりたちだった。
その最たるものが復讐の鬼と化した三成で、彼が仇敵を探しているのか死に場所を探しているのか、傍目からは判別が出来なくなっていた。
負けるのは三成だ。私はもう考えることすらしなかった。
家康が殺す。三成が殺される。これは未来永劫変わることの無い真理なのだ。その均衡が保たれている限り、私たちの輪廻は循環することが出来るのだ。
「私を裏切ることは赦さない」
三成が吼える。太閤が没したあの日から、これがこの男の常態である。憐れんでやるには少しだけ、私は三成に近しかった。そうでなければさっさと家康の元に馳せ、高みの見物と決め込んだだろう。まだ未練があった。三成にというよりは、豊臣という砂上の楼閣に。

家康が三成を見つけたのは、大学受験の会場だった。その日の晩、彼は珍しく興奮して私に電話をかけてきた。
「間違いなく三成だった!隣町の、ほら、あの変わった制服の…そう、そこだ!あのネクタイの柄が妙な縞々の!そこの制服を着ていた!」
その頃には私たちは謂わば公認の仲で、有名なお坊ちゃま学校に通うカレシという存在は、大いに私の自尊心を満たしてくれていた。
「三成が見付かったのがそんなに嬉しい?」
私の言い方にははっきりと険があった。しかしこのご時世、誰が好き好んで恋人を殺人犯にしたいと思うだろうか。関ヶ原の戦いの頃とは事情が違う。
「懐かしい顔に逢えたんだ、嬉しいさ」
家康は心底嬉しそうに言った。本当にただ昔の友人と偶然再会しただけであるかのように。

ぬかるみに足を掬われて、転んだ。
合戦の最中である。小娘が一人、片隅で転がっていても、誰も気にしないだろう。
日の本を東西に分けて睨み合っていた我々は、その凡そ中間地点であるこの地でついにぶつかった。予測し得た事態である。双方それなりの備えがあり、策があったはずだが、土地柄もあってか、結局は乱戦に縺れ込んだ。そんな中で、常に先陣を斬ってきた三成が大人しくしていられるはずもない。本陣から疾風のように駆け出し、そのまま姿を晦ませた。この大戦の行く末など、どうでもいいと言わんばかりに。実際、三成は己と家康の命の遣り取り以外、微塵の興味も無かったであろう。今までずっと、そうであったように。私も似たような心地であったから、三成を追って陣を出た。情けないことに、すぐに見失ってしまったけれど。
「お前がここにいるということは、あの山の頂に三成はいないということで相違無いか?」
三成を探す私を、家康が見つける。これは必定のような気がした。差し伸べられた手を取って、立ち上がる。大きくて温かい手。三成を何度でも殺す手。三成は必死で家康を求めて血河を渡っているだろう。誰かを殺しながら死に向かって直走る、人間というよりは現象のようになってしまった哀しいあれ。
「三成を探しに行こう」
そうでなければあまりにも、報われないと思った。私の手を握ったままの家康の気持ちなど、考えたこともなかった。

高校を卒業すると同時に運転免許を取り、入学祝いとして買って貰った新車で通学する家康は、車持ちの素敵なカレシとして、専門学校に通う私の新しい友人たちにも認知されつつあった。休日の過ごし方にドライブという新しい選択肢が加わったことは私を浮かれさせるのに十分すぎる効果があり、家康が受験会場で見かけたという三成のことなど、私はすっかり意識の外に追い出していた。
「手伝って欲しいことがあるんだ」
家康がそうきり出した時、三成絡みだとすぐにピンときたのは、結局のところ私たちはお互いの人生を、その為の舞台装置程度にしか、捉えていなかったのかもしれない。
「…家康、あなた、なんてことを、」
「仕方ない、こんな風にしかなれないんだ、儂と三成は」
家康は落ち着き払っていた。まるで後部座席で青いビニールを被せられている三成が、眠っているだけが、そうでなければただの荷物であるかのように。 

私と家康は三成を山の中に埋めた。私有地だから見つかる心配はない、という家康の言葉にどのくらいの信憑性があるのかわからなかったけれど、結論から言うと、あの山が警察に捜査されるようなことはなかった。三成の失踪は家出として扱われた。すべては家康の思い通りになったと言っていい。
死体を後ろに乗せて仲良くドライブなんて、悪い冗談みたいだったけど、不思議と心は凪いでいた。三成の死体を改めて見ようという気分にもなれなかった。ただ、あるべきものがあるべき場所に戻ったような、安心感があった。家康が運転席でハンドルを握りながら何を思っているのかは、ついぞわからず仕舞いだった。三成がその死の瞬間まで何を考えていたのか、知り得ないこととそれは似ていた。

周囲が大方予想していた通りに、私と家康は籍を入れた。とはいえ、お互いもう三十路に手が届こうかという頃だったから、私の母なんかは遅かったくらいだと散々文句を言った。
別居を決めたのは結婚してから四年目の春のことで、息子はもう二歳になっていた。その日も私たちは共犯者としての色褪せ始めた秘密を抱えたまま、幸福な夫婦でいた。そして収入が良く穏やかな夫の仮面をつけたまま、家康は私と息子を置いて先に家を出た。鳥が巣立つように、自然に。その内に私にも引っ越して欲しそうにするので、応じてやった。引っ越しの手伝いまで買って出た家康は、まるで自分もそこに住むかのように荷物を解いて、家具を組み立てた。息子は決して彼の作業に協力的ではなかったけれど、否定的でもなかった。父と子というのは、案外どこもこんな風なのかもしれない。
「家康が来る前に、着替えちゃって」
私は我が子を鼓舞するつもりで言ったのだが、どうやら逆効果だったようだ。眉間にこれでもかと皺を寄せて、黙り込んでしまう。
自ら望んで他所の人になったというのに、家康はよくうちに遊びに来る。それは私たち母子に逢いたいからというよりは、父親としての役割を放棄してしまうことを怖れているように私の目には映る。多分、息子も似たような感想を抱いているのだろう。何度生まれ変わっても家康の主義思想は理解できたためしが無いが、息子の感情にはごく稀にだが共感が可能である。血の繋がりというよりは、人間性の問題だろう。こんな女を妻に持つ、家康の不幸を少しだけ笑った。
「何を笑っている?」
誰に似たのか、息子は病的なほど色素が薄い。私にも家康にも似ていない、極端な吊り目が私を怪訝そうに覗き込んでいる。


君の心臓は置き去りにします



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