喰種と人の共存は有り得ないのだと、世界は訴え続けてきた。いや、訴えるまでもなくそれは常識であり必然であり絶対であると、間違っても共存など思い描いてはいけないのだと、決して交わる間柄ではないのだと、生まれてすぐ染み込むこと。沁みるだけ馴染まなくてはいけないことだった。
 だから人は、喰種を退治するため団結した。喰種を社会から追い出すための組織を作った。人を人から守る警察のように、人を喰種から守る喰種捜査官を作り出した。私たちは生まれながらに庇護されていた。その仕組みに。その組織に。
 あそこの誰が喰種だった、と言われても、全く見分けがつかないほど、喰種と人間はよく似ている。見た目で区別することは困難を極める。だから捜査官たちは捜査に捜査を重ね、経験に経験を重ね、喰種を見抜き、仕留めていかなくてはならない。人と同じ形でありながら人を食らい、人より格段に上の身体能力を有する喰種。彼らの存在は、ピラミッドの頂点に胡坐をかいているつもりである人間たちへの戒めなのかもしれない。何だか、息苦しい話だ。

「名前さん、顔色悪いですよ」

 ふと私の顔を覗いて来た後輩の髪をじっと眺める。ほとんど真っ白な髪。申し訳程度に旋毛のあたりから本来のものであろう毛色の黒がじわじわと浮かんでいる、胡麻プリンのような頭。
 プリン頭の毛先を軽くつまんで、私はにやりと口元を歪めた。

「ハイセの髪色よりはマシだね」
「それは言わない約束ですよ……」

 ハイセは困ったように微笑んで、私に髪を弄られていた。
 彼は半喰種である。人間と喰種のまじりものである。対立し、共存を真っ向から否定してきた種族の掛け合わせである。私の人生の常識を覆す存在であった。
 人間と喰種の交配はゼロではないのだと言う。しかし、あくまで噂であった。どうせ噂だと真に受けずに過ごしていたら、その噂が実在するカタチと魂を伴って、あろうことか喰種捜査官として現れた。この半喰種の捜査官、佐々木琲世はとても温厚な青年だ。私たち人間となんら変わりない。でも私は彼の食事現場を見たことが無いし、通常ならば即入院の怪我を即日治すような治癒能力を聞いては、ああ、やはりそうなのだろうと思うしかなかった。実際に先日の戦闘では、非常事態ということで彼が自身の体から赫子を生やし、敵喰種を殲滅したのを記憶している。――万が一彼が自身を見失うことがあれば、暴走することがあれば、我々は佐々木琲世を敵喰種として処理するように伝達されている。
 息苦しさを覚える。
 そんな日が来ないと願うばかりだ。彼の人柄を私は好いていたし、彼の他者への態度もまた友好的であった。少し気弱で優しすぎるきらいがあるが、それもハイセの魅力だと思う。正面にいて未だ私にされるがままに髪の毛をくしゃくしゃにされるハイセ。改めて言おう。私は彼を好いている。もし、彼が彼でなくなり皆で手を下さなくてはならなくなったとき、私は果たして出来るのだろうかと、疑問に思うほどには。読書が趣味で、手料理が得意で、気遣いも仕事も出来る後輩。何よりその顔立ちが好ましい。少年っぽさの残る表情を眺めているとたまらなく愛おしくなった。母性と呼べるほど崇高なものではないが、これは慈しむべきものだと私の感性は騒ぎ立てた。

「君の髪色が嫌いなわけじゃないよ。寧ろそこも含めて好きなほう」
「有難うございます」

 ああ。このはにかみ顔。私の頬を緩ませる。思いのままに彼の髪の毛から手を滑らせ、柔らかくてすべすべの頬を優しく揉んだ。やめてくださいよ、みたいなことをハイセは言ったが、もにょもにょとくぐもって聞こえにくかったので自信はない。私は改めて彼への好意を実感した。年下の男の子に、年上という立場を利用して触れる。これもハイセが優しくなければセクハラだなんだと言われてしまうのだろうか。
 頬に触れながら、私は記憶を辿る。この間、この頬は切れて真っ赤に染まっていたのに。跡形なく綺麗に治っている。彼の体を流れる喰種の血がそうさせる。喰種は人に比べて頑丈で傷の治りも早い。私はその点に関しては強く羨んだ。先日、初めてハイセの赫子を見た日に敵の攻撃で痛めた肋骨の件を思い出しながら。

「名前さん、アバラやってまだ治ってないんでしょう。無理していいんですか?」
「無理って、会議室で後輩捕まえて弄り倒すことのどこが無理なの?」
「いえ、仕事に出てくる時点で無理だと思って。治るまで休まなくて良いのかなって。気絶するぐらい大変だったんですから」
「気絶なんてみんなするものよ。大丈夫。それに肋骨は治るまでガマンするしかないんだもの」

 ハイセはまるで自分の痛みのように辛そうな顔をするので、私は自然と明るい表情になるよう努めた。肋骨の痛みより、彼の痛みを抱えた表情を見るほうがよほど辛い。いい加減手を放して、私はあっけらかんとしてみせる。

「三日も休んできたんだから平気」

 休める時に休もうと意気込んだがハイセが恋しくて我慢できなくなった、が本音だ。勿論彼には伝えられるはずもない。彼を困らせてしまうだろうから。……というのは、ついさっきまで用意していた建前。
 散々ハイセを慈しみたい恋しいなどと思いながら、今しがた触れた綺麗な頬を見てぞっとしたし、彼の腰からぞわりと現れた赤黒くうねる赫子の様が未だ瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
 ああ、私は彼を恐れているのだ!
 それでもハイセという青年はやはり愛らしく、好ましい。人間として、私たちの仲間として過ごす彼に嘘偽りはなく、眩いほどに初々しくて胸がときめいた。そのたび、赫子を唸らせ敵を屠った喰種としての彼をより際立たせた。慈しめば慈しむほど、あのおぞましい光景が蘇った。愛おしさを痛感すればするほど、あの化け物の所業が蘇った。腕でもなく、足でもない。喰種のみの器官。あの夜に、吹き飛ばされた私を包み込んだ、ハイセの赫子。私が気を失ったのは、肋骨の痛みのせいでも、ハイセの頬の傷のせいでもなく、赫子に触れられたという恐ろしさだった。きっと。普段ならば此方の命を奪うそれが、私の命を守ったことに気が動転した。
 息苦しさは鮮明になる。
 私はこの上なく失礼な人間ということだ。命を救われておきながら、ハイセを恐ろしいと思ったのだから。たとえ彼が半分人間ではなくても、彼自身悩んでいるその部分を、あからさまに怖がるなんて。もっと慈しんで、愛して、想って寄り添っていくべきなのに。慈しみが足りない。もっと、もっとだ。私はもっと彼を慈しんであげられるはずだ。いつ人間に見放されるかわからないと怯える彼のために、私が唯一できることといったら、それぐらいしかない。

「お腹空いたね」
「まだ10時ですよ? 朝ご飯食べてないんですか?」
「うん、食べてない」

 ハイセは食べたの? と聞きそうになって慌てて口をつぐむ。いけない。彼にそんな質問をしてはいけない。可愛いハイセを困らせてはいけない。だって、半喰種の彼の食事は。想像しただけで私の胸は痛んだ。そう、こうやって胸を痛めて彼に寄り添って行動しなくては。
 私の返答に、ハイセは珍しく眉を吊り上げて大きめな声を出した。

「駄目ですよ、ちゃんと食べないと! 何か食べに行きましょう」
「ええ? いいよぉ、動くの面倒だし」
「じゃあ僕が何か買ってきます、リクエストはありますか」

 止めても聞かなそうだ。優しいハイセの気持ちを考えると、ここは素直に頼ったほうが良さそうだ。

「そうだなあ。とにかく野菜で!」
「お肉食べないと力つきませんよ」
「これでも女子なの察しなさい」
「もう。わかりました。大人しく待っててくださいね?」

 ハイセが会議室を出ていく。初めて喰種を殺した時以来、肉を食えなくなった私のためにわざわざ買い出しへ向かっていく。慈しむあまりに、そんな些細な事すら私の気管を絞めつけるようだ。気が付くと両手が首に伸びていて、この手は果たしてこの首をどうしたいのか、私自身にも判らなかった。空気を求めて喘ぐ故か、それとももっと苦しい方がいいのか。息苦しさは増していく。ハイセを慈しんでいる間は苦しみも何も気にせずに済むので、私は彼が戻ってくるまで、いとおしい彼の姿をいくつも思い返しながらひとりで笑っていた。有馬さんに褒められている彼。アキラに怒られて落ち込む彼。何か、恋をしているような顔でコーヒーを飲んでいた彼。彼は、見ていて、想っていて、とても、美しい。苦しい。無理やりに距離を詰め、繋ぎ止めようとする私ではさせられない沢山の表情を、苦しくても見つめている。いつも。苦しくて狂おしくて羨ましい。恐れてしまった私にはもうどうしようもない境界の果て。ゆっくり大きく息を吐く。
 ああ、彼はどうしてこんなにも尊いのか。この歪みを幸せだと勘違いしたまま、私はぎこちない笑みを浮かべる。


慈しみが首を絞める



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