テニチョコ
「うぉおぉぉおおぉ!」
2月14日。氷帝学園を全力で駆け巡る女が一人。
彼女には、とにかく時間がなかった。
なんとしてでも今日中にやり終えねばならないことがあるのだ。
HR後、素早く教室から飛び出すと、ターゲットを絞り全力疾走。目指すは生徒会室。
「まずは跡部!貴様からだァ!」
大きなドアを勢いよく開けると奥のプレジデントチェアが音を立てた。
そこに座る男は彼女の言葉で眉間に皺を寄せる。
「この俺を指差して貴様呼ばわりとは…いい度胸じゃねぇか、アーン?」
「あれ?樺地は?」
「樺地なら資料室にいるはずだ。俺が命じて卒業式の資料を取りに行かせている」
「資料室ね、おっけ。んじゃとりあえず跡部に」
名前は自分の手提げ袋からチョコの入った水色の箱を取り出すと机の上に置く。
「フン、まさかお前が俺様にバレンタインを贈るとはな」
「だっ…誰が貴様にチョコなんぞ贈るかァ!テニチョコに決まってるでしょーが!」
赤くなった彼女の発言の直後、跡部は険しい表情で立ち上がった。
名前も、彼の放つ冷たい空気に当てられ後方へ引き下がる。
しかし、壁際に追い詰められ逃げ道をなくす。
接近してくる跡部に、思わず目を瞑る。耳元でドンと壁を叩く音がした。
「テメェ、俺様を二度も『貴様』と呼ぶとは…。どうしてやろうか?」
「ヒィイ!すんませんっしたァアア!!跡部様ァァアア!!」
このままではカモにされる…。名前は泣き叫ぶように許しを乞う。
「わかったならそれでいい」
鼻で笑う跡部に、このお坊ちゃんが…と思っていると、遠くから大勢の黄色い声と足音が聞こえてきた。
「やっべ、もうファンのヤツらが来ちゃったか」
名前はスルリと跡部の腕から逃れると足早に去っていく。
「跡部、ハッピーバレンタイン!お返しは三倍でよろしく〜!」
彼女にはやるべきことがまだまだ残っているのだ。
毎年、その年の女テニレギュラーから男テニレギュラーへチョコを渡すのが恒例となっていた。
それにより今年もチョコが用意されたのだが、予期せぬ事態に陥ってしまう。
部長が卒業式の準備に追われ、チョコの受け渡しが不可能になったのだ。
他のレギュラー陣も、インフルエンザだの本命がいるだの…なんだかんだで受け渡しができないという。
そんな皆の代わりに、名前が代表して氷帝のレギュラー陣全員にチョコを配ることになった。
実を言うと、今日中に大人気の彼ら全員へチョコを渡すのは困難である。
そんな中真っ先に向かったのは、後々人で埋め尽くされるであろう跡部の所。
名前はそれが最善の選択と判断した。そしてその見解は総じて正しいと言えよう。
さて、そうなると次の標的は…。
「忍足…」
裏庭へ続く階段に揺れ動く影。
素早くてよく見えなかったが、眼鏡がきらりと光るのを名前は見逃さなかった。
こっそり後をつけると、冷たい風が通る裏庭へ出る。
その名の通り、忍び足で身を隠している忍足がそこにいた。
一目見て全てを察した名前は、全速力で忍足の元へ走る。
そして、彼の腕をグイッと引くと空き教室に駆け込んだ。
「ちょお、なんっ…あれ?名前ちゃんやん。どないしたん、慌てて…」
「アンタを探してたの!」
忍足のことだから見つからないように教室から移動するだろう、と名前は思っていた。
動きやすいように、女子に囲まれても良い場所で待ち構えるのだ。
なんて戦略家な男。ゲームメイクに長ける氷帝の天才は伊達じゃない。伊達なのは眼鏡くらいだ。
だが名前はそれを逆手に取って、忍足を捕獲することに成功した。
「俺になんか用かいな?」
「そうそう、妖怪な!ヨーでるヨーでる…ってそうじゃなくてぇ!!」
「素晴らしいノリツッコミやな。俺はボケたつもりないねんけど…」
早々に紫の箱を取り出しプレゼントすると、忍足は全てを理解して納得したように頷く。
今年はなんや大変そうやな、と苦笑して大きな手で名前の頭を撫でた。
「男と女がこんな薄暗い密室に二人っきりやなんて、先生に見つかったら相当ヤバいやんなぁ?」
「いやァ、この状況なら先生より忍足のファンの子に見られるのが一番恐ろしいですわァ…」
「俺は名前ちゃんやったら噂されてもええねんけどなァ…」
「私はせめて卒業までは平穏に暮らしたいけどなァ?」
忍足が何か言いたそうに、声を漏らす。だがそのまま言葉を飲み込み、改めて口を開いた。
「っ…名前ちゃんと漫才やるんは楽しいなぁ。でも、なんや急いでるんとちゃうかった?」
「あっ、そうだった!!」
名前は目を見開き、教室のドアを開けると一目散に中庭へ駆けていった。
そろそろ女子の動きも活発になってくるはず。
ここからは優先順位をつけるより走り回ってターゲットを探す方が無難だろう。
そう考え、名前は校舎を見上げた。そしたら見えたのだ。二階の廊下に…。
特徴的な前髪のおかっぱ頭。しかも周りに誰もいない…今はフリーだ。
「がーっくーん!!」
精一杯声を張って手を振る。幸い、窓が開いていたので岳人はすぐこちらに気づいた。
「おお、名前じゃねーか!どした!」
「今年のテニチョコ配ってるんだけど、今渡しに行ってもいーい?」
「マジかー!わかった、俺が降りるから待ってな!」
そう言うと、岳人は窓枠に手をかけ身を乗り出し、勢い良く飛び降りた。
名前は体の血の気が引いていく感覚がした。
口はあんぐりと開けたまま、全てがスローモーションのように思えた。
岳人は相変わらず身軽で、いとも容易く二階から降り立って見せる。
「着地成功〜!」
「止めてよ、もう…」
「名前も今度飛んでみそ!」
「飛びません!がっくんも、危ないからもう止めてね」
「えー!」
「えーっじゃない。がっくんが怪我したら、私…絶対イヤだからね」
「お、おお…」
「約束できるなら、この女テニ全員が愛を込めたテニチョコを授与します」
「わかった、わかったって!約束するから!」
反省した様子の岳人に、手提げ袋から紅色の箱を贈呈する。
「やったぜー!」
「訳あって今年は私が配布係なの」
「お前も大変だな…」
「今レギュラー陣探してるんだよね。とりあえず跡部と忍足には渡したんだけど…誰か見なかった?」
「あー…それなら、日吉が向こうで女子に囲まれてるのを見たぜ」
そう、問題はココからなのだ。女子に囲まれてしまっては手の出しようがない。
というか、時間内に女子を掻い潜ってチョコを渡すのは不可能に等しい。
あの女子の勢いといったら…踏み潰されるオチだ。名前は恐怖で身震いをした。
歴代の部長はいったいどんな手を使って渡していたんだろうか。
一瞬想像してみたが、すぐ考えるのを止める。
女テニの部長なんだから、きっと女子も道をあけるんだろう。そうに違いない。
「わァすごい。さすが氷帝の新部長」
校舎の三階から、コート前の日吉とその取り巻きを据えた目で見やる。
跡部ほどまではいかないだろうが、相当な人数が日吉を目指して押し競饅頭をしていた。
「世代交代か…。嬉しいような寂しいような」
しかし彼ならきっと氷帝男子テニス部を支えてくれるだろう。
「ひーよーしー!」
中心でどうしていいか迷っている日吉が、名前の声に振り向く。
「こっちこっち!上だよ!」
「名前さん…?」
「今年はテニチョコがあるんですよー、新部長」
「テニチョコ?ああ、今年正レギュラーになったからか…」
「申し訳ないけどお互い忙しいと思うのでここから投げるねー」
「はい?」
「一…球…入…魂っ!」
妙なフォームで投げた薄黄色の箱を日吉が受け止める。
彼が腕の中の箱を確認し、窓を見る頃にはもう名前の姿はなかった。
「ねえ名前、宍戸くん見なかった?」
道中、廊下でクラスメイトの女子に声をかけられた。
「見てない。私も探してるとこなんだけど…」
「名前もなの!?色んな人に聞いて回ってるんだけど、誰も彼の姿見てないのよ」
「ええええ…」
誰も見ていない…とはつまり、がむしゃらに探し回っても見つからないという結論が導き出される。
逆に目撃者がないというところに彼の居場所のヒントがありそうだが、宍戸のことは一旦置いておこう。
名前はため息をつきながらも、所在の見当がついている人物から探してみることにした。
屋上への階段を上ると、大きなドアが目に入る。普段は開放してあるのだが、今日は鍵が掛けてあった。
「んーと…」
名前はドアノブを掴み上へと持ち上げる。カチッという音が聞こえると、今度は横へずらす。
するとドアの真ん中部分が開き、眩しい光が入ってくる。
そうしてできた穴を、易々と通りドアを抜ける。
屋上へのドアが実は小さな引き戸になっていることは一部の人間しか知らない。
「やっぱりココか…」
誰もいない屋上でスヤスヤと眠る慈朗。まさしく眠りの王子様。
今日は風もなくて暖かい。どこかで寝てる、というのは考えずとも勘付けることだった。
慈朗のファンも、それをわかってチョコを机や下駄箱に入れるのだろう。
しゃがみ込み、慈朗が起きないように、そっとオレンジの箱を置く。
箱から手を離すと彼の手が腰に回り抱きついてくる。
「ちょ、ちょっ…ジロー?」
バランスを崩し、そのまま倒れこむように彼の隣へ寝転ぶ。
「…ジロー?私は抱き枕じゃないんだけどー?」
静かに寝息を立てる慈朗。その寝顔はとても幸せそうで、思わず見惚れてしまう。
彼の暖かい体温を感じ、名前は暫し目を閉じた。
「ハッ…!いかん、ジローにつられてウトウトしてしまった…」
名前は慈朗の腕を潜り抜けると、ゆっくりと立ち上がり大きく伸びをした。
そうすると、学園の高い塀の向こうに青い物が上下しているのがちらっと見えた。
「―ん?アレって……」
「宍戸ー!しーしーどー!…ちょ、宍戸さーん!?」
アイツめイヤホン付けて走ってるな…名前は呼ぶのを諦め、宍戸を追い駆けることにした。
…そう、名前が屋上から見えたあの青い物は、まさしく宍戸の帽子だった。
なるほど、だから誰も目撃者がいないワケだ。だが慈朗といい宍戸といい、なんなんだ。フリーダムか。
今日という日は、男なら浮き足立つバレンタインデーだというのに。もう部活もないのに練習熱心なことで…。
そう思いながらも、名前は塀の外を走る宍戸の背中をひたすら追う。しかし、いくら走っても追いつけない。
名前も女テニで鍛えられているとはいえ、宍戸には敵わなかった。
「ハァ、ハァ…。くそう…こうなったら……逆走だァア!!」
踵を返して再び突っ走る。延々と続く壁を横目に気が滅入るが、それでも走るしかなかった。
「あーもー!なんでこの学校はこんなデカいの!」
さすが私立氷帝学園中等部。マンモス校と評判になるだけのことはある。
やっと前方から目当ての人物が近づいてきて、名前に安堵の表情が浮かぶ。
「宍戸!あ〜…やっと会えた!」
「っは…名前じゃねーか。何してんだこんなとこで」
宍戸は目の前の名前をに気づくとイヤホンを外し、肩を上下させながらも尋ねる。
早速手提げから青い箱を取り出すと、「テニチョコのお届けです」と笑顔を向ける名前。
「なんか悪いな、こんなことさせちまってよ。お前だってチョコ渡す相手くらいいんだろ?」
「え?いないけど。っていうかだからこうやってテニチョコ配布係に選ばれてしまったんだけど」
「そ、そうなのか?」
「うん」
「…そっか」
名前の返答を聞き、宍戸は白い歯を見せて微笑んだ。やけに嬉しそうだった。
「えっと、あとは…」
次に、名前は資料室に来ていた。あれから時間が経ってしまったが、彼はまだいるだろうか。
天井まである高い棚が所狭しと並ぶ中、キョロキョロと彼を探して回る。
すると、探していたはずの彼が突然通路から姿を現し、名前はその大きな体と衝突した。
「すみません」
「あっ樺地!ごめん大丈夫だった?」
「ウス」
ぶつかった拍子に、彼が抱えていた資料が辺りに散らばってしまったようだ。
急いで拾うのを手伝う。わかってはいたが、樺地の持っていた資料はどれも卒業式に関するものだった。
「…私たち三年が卒業するのは、やっぱり樺地も寂しかったりするの?」
「ウス」
彼の少し沈んだ声に、「そうだね」と名前は苦笑いして返した。
そして全ての資料を拾い終えると鞄からチョコを取り出す。
「はい、女テニからバレンタインのチョコ」
「…ウス」
微動だにしない樺地を見て、名前は一度首を傾げたが、やがて理解する。
「あ、そっか。手が塞がってるんだもんね。じゃあ上着のポケットに入れとくね?」
「ありがとう ございます」
名前が茶色の箱をそっと上着のポケットへ入れると、樺地は深々と頭を下げて資料室を後にした。
「よっし、あともう一頑張り!」
そして名前はテニチョコを無事全員に配るべく、二年C組へ向かう。
「名前、正レギュラー全員にチョコ渡していってるんだって?」
「たっ、滝!?」
振り返るとそこには流れるような髪をした滝萩之介が立っていた。
「そりゃ俺は正レギュラー落ちたもんね。貰えないのも当然か…」
「さすがに滝のは用意してな…あ、そだ!」
手提げ袋から小さな箱を差し出す。緑色のそれは、抹茶チョコのお菓子。
実は名前個人のモノだが、この際滝にならあげても良いか…と笑みをこぼす。
「これで勘弁して?お願い!」
「仕方ないなぁ。許してあげるよ。ただし、お返しは期待しないでね」
「滝…!」
名前は彼のその寛大な心に感謝し、最終ターゲットのところへ急いだ。
大トリは、そう。大トリなのだから鳳だ。まさしくバレンタインの大トリに相応しい彼。
名前は少し心を躍らせていた。もうすぐで全員にチョコを配り、役目を終えることができる。
それに、もう一つ楽しみがあった。最後にチョコを渡す彼が、どんな顔をするだろう…と。
ところがどっこい、先ほどまでお日様のように微笑んでいた名前は二年C組へ到着すると同時に顔を強張らせた。
それもそのはず。鳳の周りにはたくさんの女子が押し寄せてきていたのだ。
今までほぼ全員、スムーズにチョコを渡せていたので、彼女にとっては初めての試練だった。
これはもう、持ち前の気合とテニスで鍛えた自分の腕を信じるしかない。
そう思った彼女は意を決して女子の大群へ突っ込んでいった。
中は予想以上に激しいものだった。誰のかも判らない手足や体が、全方位から襲ってくる。
それにみんなチョコの甘ったるい香りがして、名前は眩暈がした。
「…お、押さないでください…大丈夫ですから、全員受け取りますから」
優しい鳳の声がする。目を回しながらもなんとかそちらを目指す。
女子を掻き分け押し退け、縫うように進む名前。ようやく鳳を肉眼で捕捉した。
あと少し…と、髪を振り乱しながらも彼女は手を伸ばす。
「長太郎ぉおおぉおぉ」
「うわあ!名前先輩!?」
悲痛な声を上げながらも隙間から手を挙げ白い箱を渡すと、鳳が手を差し伸べてくれる。
「あ、あとコレも!」
これまた綺麗にラッピングされた袋を渡すと、彼女はにっと笑い彼に告げる。
「長太郎、ハッピーバースデー。お誕生日おめでと!」
「っはい!ありがとうございます、先輩!」
安心した名前は、女子の波に吸い込まれるようにして去っていく。
「ぎゃあああああ」
「名前先輩…」
飲み込まれていく彼女を心の中で合唱しながら見送り、すぐさまプレゼントを開ける。
その中身は、オフホワイトのリストバンド。そして今夜、跡部邸で行われる鳳の誕生日会の招待券が同封されていた。