「ただいまっ」

一限から保健室に行っていた美歌が教室へ戻ってきた。
朝練にも出ず顔色も悪いので、女特有の重い日なのだと悟ったつかさが保健室に行くよう促したのだ。
美歌に渡した薬が効いたのか、だいぶ調子を取り戻しているようで足取りが軽い。

「つかさ聞いて!宍戸さんなの!」
「ひえっ!?」

美歌がつかさの机に勢いよく手をついて、身を乗り出す。
急に顔を近づけられたつかさは、唇が当たりそうになり、柄にも無く声を上げた。
一瞬、昨日の忍足との事が頭に浮かんで、顔に熱がこもる。
そんな表情を見られないように、思いっきり美歌の顎を押し上げてやった。
つかさによって上を向かされた彼女は、視線を天井へと移すことになり、蛍光灯の光を顔面に受ける。
だが美歌の口元は緩んでいて、締りのない面持ちが変わることはない。

「宍戸がどうしたって?」
「聞いて!宍戸さんと進展があったの!あのねあのね!」

そのまま話を続ける美歌。上を向いた状態で手をバタつかせ、興奮が収まらないようだ。
さすがに暴れられては困るな…と、つかさは自分の顔色を確認して手をどけた。

「保健室でね!ばったり会ったの!」
「…で?」
「宍戸さんの膝触っちゃったー!キャーッ!」
「……で?」
「え。待ってよく考えて!わたし、宍戸さんの膝小僧手当てしたんだよ!?リピートアフタミー?」
「美歌が宍戸の膝手当てした。」
「そうそう!グレイト!!」

美歌は宍戸さん笑ってくれたんだよ、と頬を押さえたり体をくねらせたりしている。
喜んでいるのには違いないが、なんだか変態臭くて、つかさはわかったから座りな、と促す。
目の前の椅子へ着席した後も宍戸さんがね、と話し続けて嬉々とする美歌。
その様子を見て、つかさは安堵の微笑を漏らした。

「薬の効果だけじゃないみたい。宍戸に会ったせいもあるんじゃない?」
「えっ、なにが?」
「朝に比べて随分と元気になったな〜と思ったけど…なんか、宍戸のおかげって感じね。」

つかさがそう言うと、急におとなしくなった美歌が少し顔を赤らめて恥ずかしそうに頷く。
彼の前でもそんな顔をしていればいいのに…とつかさは喉の奥から押し出されるような声で笑った。

「つかさは何かあった?」
「あ、昨日客席の階段から落ちたよ。」
「ええええっ!?」
「大丈夫。すぐ保健室行ったし、忍足がちゃんと手当てしてくれたから。」
「ほほう…?忍足に手当てしてもらったんだ。そのまま、いい雰囲気に、なっちゃったり…して?」

何気なく出されたその質問につかさは一瞬息を呑んだ。心の内側に小さな波が立つ。
しまった、忍足の名前なんか出すんじゃなかった…と後悔して唇を噛んだ。
怪我をして、彼に抱きかかえられたこと。未遂とはいえ、キスをされそうになったこと。
何故もっと抵抗しなかったのか、と胸の中にもやもやとしたものが鬱積する。
そんなことを言えば…美歌のことだ、忍足と付き合えばいいじゃないかと推してくるだろう。
長年の付き合いからそこまで検討がついて、何もない…と返すべく口を開く。

「!…いや」

そこまで発して、ふと今朝のことを思い返す。これは美歌に言ってもいいか、と口元に手を当てた。
実はさ、とつかさがゆっくり語り始めると、美歌は両手で頬杖をついて彼女の話に聞き入った。


今日の朝練でのこと。つかさはいつも通りに気温の測定やコートの状態確認など、マネージャーの業務に勤しんでいた。
ふとベンチの端に足が触れて、まだ少し痛む痣に昨日のことを思い出す。

「おはよーさん」

澄んだ空気に包まれた朝のコートで、聞き覚えのある声を背に受けてつかさは一瞬たじろぐ。
まともに顔を合わせるのは、まだ若干の抵抗があった。
…というより、一体どんな顔をすればいいかわからなかったのだ。

「お、おはよう…」

つかさはいつもより小さな声で、目線を落としつつ振り向く。
だが、返事を待っているはずだった彼の姿は既になくなっていて、代わりに温い風が彼女の前髪を揺らす。
…唖然となり大袈裟に瞬きを繰り返して、不思議なものを見たように首を傾げた。
その後、彼が部室の方で準備を始めているのを視界の隅で捕らえて、更に首をひねらせた。
いつもなら耳にタコができるほど甘い言葉を囁いて行くのに…と。
…イヤイヤ、鬱陶しいのが無くなって清々する、と反射的に頭を振って心の中で否定する。
試合も近づいてきているし、部活に本腰を入れ始めたのだろう。彼女は吐息を零す。

練習はいつも通り行われた。忍足が来ないことで、つかさは普段以上に仕事をこなしていく。
だが、彼がまた何か企んでいるのかと妙な不安と緊張感も感じていた。


今朝からそんな気味の悪い心持であったことを伝えると、美歌は口を尖らせて、ん?と目線を上げた。

「忍足が口説いてこなくなった?」
「あたしとしては有難いんだけど。」
「でもなんか変な感じだね、忍足がつかさのとこ来ないなんて…」

腕を組み、引きつった笑みを頬に貼り付けるつかさ。
対して美歌は少し考えた後、ああ…と納得したように頭を上下に揺らしながら頷いた。
その様子を見てつかさは眉間にシワを寄せる。
何か知っているのではないかと美歌を揺さぶるが、彼女はおかしな顔をして口笛を吹くように唇を突き出した。
…が、尖らせた口から出るのは勢い良く空気の抜ける音だけなので、汗を浮かべて拍子抜けする。

「いやー…あ!あれじゃない!?新しい技覚えるのに忙しいとか!」

なにせ千の技を持つ男じゃん?と目を泳がしながら美歌は軽く笑って誤魔化す。
一度こうなっては美歌も折れない。忘れた頃にカマをかけてやろう、とつかさは悪い顔をした。

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放課後、モヤモヤしつつもつかさは部活に出ていた。
相変わらず素っ気無い忍足をなるべく気にしないようにしていると、ダブルスの練習をしていた忍足と向日の二人が汗を拭きつつ寄ってくる。

「疲れた〜!なぁ藍川、オレのドリンクは?」
「はいはい。忍足はドリンクいる?」
「ああ、おおきに。」

ボトルを取る忍足の熱い手が指先に触れて、つかさは少し動揺する。
彼女の様子は気にもしないで、彼はドリンクボトルを持ったままその場を立ち去った。
それに驚いて、向日がグルッと振り返り口をポカンと開ける。

「なんかアイツおかしくね?いつもなら藍川をスゲー勢いで口説いてんのに」
「今朝からずっとあんな感じだよ。結局、弄んでただけなんじゃない?」
「そんなことねーよ!」

向日が声を張り上げて反論する。
握っていたドリンクボトルが揺れて、中でチャプンと音がした。
大きな声で言われたもんだから、つかさもつい黙ってしまう。

「いや、侑士の肩持つワケじゃねーけどよ…アイツ、昨日お前が帰った後もずっと心配そうにお前の話ばっかしてたぜ?」

そう言って、彼を追って走る向日を尻目に、つかさはそんなこと知るもんか、と眉を上げて仕事に戻るのであった。