「…しかたないよ」
「なんでぇっ……! わたしはただ、もうてんといっしょにいたいだけなのに!」
「……うん」
「ひっく、〜〜…っ…つよく、なりたい…! だれにもまけないくらい、つよくっ……」
「…ぼくも、つよくなりたい。きみを、名前をまもれるくらい、つよく」
互いに強く抱きしめ合い、涙を流す。それが蒙恬と会った最後の日だった。
あれから数年。私は待ち望んでいた秦国の地を踏んだ。変わったところも見受けられたが、要所要所は変わっていない。あの曲がり角も、城下を一望出来る場所も、全てがあの頃と同じだ。
「名前、何をぼうっとしている」
「カイネ……いいじゃない別に。知ってるでしょう、
趙国宰相・李牧の一行と共にやってきたのは、一人の少女だった。カイネに名前と呼ばれた彼女は、階段の上から城下を見下ろした。けれど懐かしむ暇もなく今度は李牧に名を呼ばれ、名前は返事をしながら彼の後ろを着いて行った。
「――秦趙同盟かぁ」
ごくりと目の前にある酒を飲みながら、李牧と飛信隊の信が対面している様子を遠目から見守る。カイネも大変そうだと他人事のように思いながらどんどん酒を飲む。
「こら、飲み過ぎですよ」
「んぶっ! ……李牧様…」
「少し風に当たってきなさい。これが終わったら帰るのですから」
「はーい…」
ひんやりと冷たい水を受け取り、立ち上がる。ふらつくことはなかったが少しクラクラする、とちらりと李牧を見れば、仕方がなさそうに頭を撫でられた。そのまま彼に背を押され、会場を後にする。
秦国の正殿なんてもう何年も来ていないのに、身体は勝手に覚えている。会場から少し離れたところで腰を落ち着けると、少しぬるくなった水に口付けた。
――今、この国で一人になりたくなかった。ここは思い出が多すぎる。あの頃とは違って、今はもう素直に自分の思いを口にすることは許されない立場にあるから。
それでも…誰もいないこの瞬間なら、許されるだろうか。
名を呼ぶことを、許してくれるだろうか。
「蒙恬………」
「はぁい、呼んだ?」
「ッ――!」
まさか返事がくるとは思わず、びくりと肩を揺らして思い切り振り返る。するとそこには何度も再会を夢見た男――蒙恬がひらひらと手を振って笑っていた。
「や、久しぶり――名前」
「……なん、で」
「ん?」
「なんで、ここに…」
「何でって、蒙武将軍に聞いたから。慌ててこっちに来ちゃったよ」
その科白に彼をよく見れば、確かにこめかみから汗が流れている。そうまでして会いに来てくれたことや、あの蒙武がわざわざ自分の息子に自分のことを伝えてくれたことに驚いた。
「俺ね、今楽華隊っていう三百人の将をやってるんだ」
「……うん」
知ってる。
「じぃも一緒の隊でね。まだまだ小さな隊だけど、これから大きくなる……いや、大きくしてみせる」
「っ……うん」
知ってる。
「だから名前、帰ってきて。もう遠くになんて――趙なんかにいるなよ」
「…っ………」
「うんって、言ってよ!」
後ろからぎゅうっと抱きしめられ、身動きが取れない。蒙恬の声は少し震えていて、彼も相当の覚悟を持って今の言葉を言ったのだと如実に感じ取れた。
彼の気持ちに応えたい。『うん』ってたった一言を伝えたい。
けれど、もう遅い。だって私は――。
「私の弟子から離れて頂けますか?」
「!」
二人きりの再会を終わらせたのは、今まさに中華全土の注目を浴びている李牧だった。名前は李牧に見られたことに焦りを覚え、隙をついて蒙恬の腕から抜け出して李牧の傍へ駆け寄る。その間蒙恬は、李牧の吐いた言葉に驚きを隠せずにいた。
「弟子……? 弟子って、」
「名前は私の弟子ですよ。――つまり、未来の趙の宰相ということです」
「!?」
「りっ李牧様!」
「贔屓目無くですよ、名前。貴女の軍師としての才能は他を軽く超えている」
李牧の科白に、蒙恬は奥歯を噛み締めて強く拳を握った。噂には聞いていたのだ。李牧の傍で付き従う、カイネとは違う少女のことを。それがまさか自分の知る名前だとは思いもしなかった。
「君が蒙恬、ですか?」
「! …なんで俺の名前を……」
「名前がよく話してくれましたから。しかし、ふむ……そうですね」
突然李牧は顎を摩るように手を当て、蒙恬を前に考え込む。この時の李牧に声は通らないと分かっている名前は、彼の後ろから蒙恬をジッと見ていた。
今すぐ手を伸ばしたい。その背に腕を回して、温もりを感じたい。けれど自分と彼の距離はとても、とても遠くなってしまった。――秦と趙。例え先程同盟が結ばれたとはいえ、それは想像より遥かに遠いのだ。
「名前」
「は、はい」
「私は貴女の正直な気持ちが知りたいので、誤魔化さずに答えてください」
「李牧、様……?」
「ここに、残りたいですか?」
「――!」
穏やかに微笑む彼の表情は、いつもと変わらない。涙を流して趙の町を歩く自分を見つけてくれたあの日から今まで、この人はずっと優しさで包み込んでくれた。
だからこそ、今の質問の意味をよく考えなければならない。李牧の弟子になったことで、戦の先を教えてくれるようになった今だから、彼は自分にチャンスをくれたのだ。
――同盟の先にある大戦に心置きなく“趙側”として参加出来るように、心残りを清算しろ。
彼は、そう言っているのだ。
「……はい。残りたいです、ここに」
今しかないと分かっていても、蒙恬を裏切ることになろうとも。
私は、今、蒙恬の傍にいたい。
正しく質問の意味を理解した様子の名前に、李牧は困ったような、哀しそうな表情を浮かべ、大切な弟子の頭を撫でた。
「分かりました。春平君を連れて帰らなければならないので、その代わりの人質を要求されると思います。予定では平都候だけのつもりでしたが、名前も一緒に残るよう伝えます」
「っ…ありがとうございます、李牧様!」
「あくまでも人質として、なので待遇がどうなるかは分かりませんが……。そこら辺は任せて大丈夫ですね?」
李牧が蒙恬に目を向けると、彼は強い眼差しでこくりと頷いた。
「では、暫くの別れですね。……、寂しくなります」
「李牧様……」
「身体には気をつけるんですよ」
「………、はいっ」
思えば、李牧との付き合いも長い。弟子になってからは四六時中彼と共にいたからこそ、こうした長い別れは初めてだった。
次に会う時は大戦の幕が上がるときだ。その時には秦への――蒙恬への未練を絶っていなくてはいけない。その時間は長いようでとても短く思えた。
「李牧様もどうか、お気をつけて」
静かな拱手だった。真下にある名前の頭に指先だけ触れ、李牧はそのまま踵を返して会場へ戻った。
漸く顔を上げた名前を、蒙恬は無理やり手を引っ張って走り出す。どこに行くのかと思ったが、すぐにそれも分かった。
――ここは、幼いあの日に泣きながら誓った場所だ。
「もっ蒙恬……!」
「ごめんっ…ちょっとだけ、こうさせて」
着いて早々に彼の腕に閉じ込められ、身動きが取れなくなる。直接感じる彼の温もりに少し恥ずかしく思いながらも、自分もおずおずと彼の背に腕を回した。
「会いたかった、ずっと、ずっと――…」
「…うん、私も……」
会いたかった。
その言葉は顔を上げた彼の唇に奪われた。
「もっも、もも、もうてっ…!?」
「あははっ、かわい…。もう一回してもいい?」
「な、なに言っ――」
甘い甘いくちづけだった。抱えている不安も恐怖も、全て蕩してくれそうな、そんな甘さだった。
自分の立場を考えれば、これはきっと赦されない行為だろう。相手は敵国の兵士、しかも三百の兵士を預かる隊長。カイネや傅抵に知られたら打ち首ものだ。
――でも、じゃあ、どうやって抗えばいい?
この、甘くて優しいくちづけから。
「……このまま、名前を連れてどこか遠くへ逃げられたらいいのに」
唇を離し、わずか数センチの距離で呟かれたのは――蒙恬の、嘘偽り無い本音だった。