「おかえり」

加冠の儀当日に起こった毐国――否、呂不韋の反乱によって咸陽はかつてないほどに血で真っ赤に染まっていた。昌平君からの密命によって自身の隊を率いてやって来た名前は、大王・嬴政の后であるこうとその娘のれい、そして宮女のようを守るため、海羅を先に行かせて一人敵に立ち向かった。
しかし、あまりにも血を流しすぎた。ここへたどり着くまでに数えきれない程の敵を倒し、また傷ついてきたのだ。何とか敵を倒すことは出来たが、先程肩で刃を受け止めたせいで血が止まらず、彼女が歩いた後ろには血の痕が残っていた。

何とか歩いていた名前だが、急に足の力が抜けてがくんとその場に倒れてしまう。ヒューヒューと呼吸はか細く、今にも死んでしまいそうに見える。そんな彼女の耳に誰かの足音が聞こえてきた。敵か味方かは分からないが、それを確認する体力も無い。やがて足音がすぐそばで止まると、名前はぼんやりと目を開けた。

「随分と派手にヤられたなァ」
「だ、れ…………騰……?」
「俺をアイツと一緒にすんな。ったく…野放しにしすぎたか?」

どこか、聞いたことのあるような声だった。――いや、自分はこの声を知っている。誰よりも近くで、ずっと聞いていた“声”。けれど彼の正体を確かめるよりも先に、名前の意識は眠るように落ちていった。



目が覚めると、柔らかなベッドの上だった。微睡みからまだ意識がはっきりせず、とろとろとした思考のまま今一度布団をかぶろうと引っ張ると、くつくつと喉奥で笑う声が降ってきた。また騰に笑われたと思った名前は「なにわらってんの…」と舌っ足らずに話しかけ、ぐしぐしと目を擦って布団から顔を上げると、そこには自分を見おろしながら不適に笑う、とんでもない色男がいた。

「起きたか?」
「…………えっ、あ、……かっ桓騎さま!?」

口元を緩め、長い後ろ髪をさらりと揺らすのは、昔名前を拾い、そして王騎へ預けた男・桓騎だった。それだけでも驚きだが、その衝撃によって自分がなぜここに居るのかも分からず焦る名前。

「どうしてわたしはここに、っというかお后様達は、咸陽は!」
「落ち着けよ。ぜーんぶ終わってる」
「ぜん、ぶ、終わって…?」

だとしても、自分がここにいる意味が分からない。混乱の色を乗せる紺藍の瞳を見て、桓騎はたくましい腕で彼女をかき抱いた。直に感じる彼の温もりに一気に身体の体温が上がるのが自分でも分かった。

「か、桓騎さま! 離れてください!」
「あァ? 無理」
「無理って…! それに騰のところに帰らなきゃ、海羅だって別れたままだから心配かけて――」

それ以上、言葉は続けられなかった。男から発せられる強烈な殺気が彼女を襲ったのだ。武器はなく、身体は彼に絡めとられている以上、取れる行動は限られてくる。けれど今は指一本すら動かせられないほどの恐怖を感じていた。

「何処に、帰るって言ったんだ?」
「ぁ、………!」
「なァ、名前。お前は誰の狗だ?」
「っ…〜〜……」
「名前――答えろ」

自分にとって絶対的な男の声が、命令する。それは昔から聞いていたものだった。だからこそ答えを間違えるわけにはいかない。

「か……、かん、き、さま…」
「ん?」
「ッ……かんき、さまの、…いぬ、です」
「そうだよな。だったら名前の帰る場所は此処だろ?」

徐々に思考を奪われていく。どろりとした甘さを含んだ声で、名前を絡めていく科白が吐かれ、少しずつ鎖をかけられる。

「でも、わたしは騰軍の、」

何とか気力を振り絞って口を開いたが、合わさった瞳のせいで声は奪われた。深く、暗い何かを孕んだ瞳に嬲るように見つめられ、だんだんと呼吸が浅くなる。

「もうどこにも行く必要はねェ」
「桓騎さま!」
「名前」

彼が付けてくれた名を、彼が呼ぶ。両手で頬を包まれ、強制的に顔を上げられた。

「あんな傷だらけにさせられて、俺が黙って騰の所へ帰すと思ってんのか?」

基本的に本当の意味で怒ることは少ない桓騎だが、今の彼は相当頭にきているらしい。口は笑みの形を描いているが、目はちっとも笑っていなかった。

「お前を王騎の野郎の所へ預けたのが失敗だった。だからこそもうどこにもやらねェ」
「まってください、」
「俺はもう充分待った」
「桓騎さ――」
「それとも、俺から逃げる気か?」

つぅ…と親指で唇をなぞられる。そのまま指は唇の中へ割って入り、歯に触れた。

「それなら俺にだって考えがあるぜ? まずは…そうだな、逃げる足を切り落とすか? 悪いことを考える頭も少し弄ってやろうか? ドアを開ける手もいらねェなァ」
「は……、っ…ひ…!」
「だが、名前がずぅっと此処にいるって言うなら、俺は何もしねェ」

咥内を好き勝手に暴れる指がゆっくりと引き抜かれ、細い糸がそれを追うように伸び、ぷつりと切れた。その先に映る桓騎の表情を見て、名前は諦めた。
腕を広げて桓騎に抱きつく。その行動で自分の答えを伝えた名前に、男は蜜をどろどろに溶かしたような甘い吐息をこぼし、その背に腕を回した。もうこれで彼女の代わりの女を抱く必要なんてない。だって名前本物がいるのだから。

捕まえたおかえり

その日、“王騎の狗”と言われていた女は表舞台から姿を消した。