これから続く日常の一幕

久方振りに戸隠の雷が落ちたことで、名前はしくしくと泣きながらその日一日を三番隊の隊舎と虚退治で過ごした。いつもと変わらずに寝坊してきたこともあって、退勤時間は他の隊士よりも遅い。書類整理はもちろん午前中には処理し終わったが、あとはずっと三番隊の守護地域での虚退治に走り回っていた。帰舎したのも真夜中になった頃だった。

「終わったぁぁっ……! 疲れたぁ…」

走り回ったせいで泥だらけの身体を引きずりながら簡単に報告書を書いて、隊舎から出る。いつもなら月明かりのおかげでまだ明るいが、今夜は新月。ほとんど真っ暗闇の中をそれでも名前は迷いなく進んでいく。
自分の部屋に差し掛かった時、扉の前で座り込む人影を見つけた。その正体がすぐに解った名前は、首を傾げながら近寄る。ぐっと顔を近づければ、立てた膝に顔を埋めてすぅすぅと穏やかに眠る平子の顔が見えた。

「ふふ、何してんだか」

そういえば今日はまともに彼と顔を合わせなかったなと、名前はふと思った。こんな真っ暗な中でも分かるくらいキラキラした髪に目を奪われ、気がついたら彼の目元にかかる前髪に触れていた。

「……真子」

こうして彼の名を呼んで、髪に触れられるなんて。少し前なら考えられなかったことだ。
会いたいと口にすることすらできなかったあの百年間。名前だって呼べなかった。──呼びたくなかった。だって呼んでしまえば会いたい気持ちを抑えることなんてできないと自分で分かっていたから。

「真子」

だからこそ、こうして名前を呼べることが奇跡のようだと思った。

「しん──」
「…呼びすぎや、阿呆」
「!? お、おきてたの!?」
「あんだけ呼ばれたら起きるわ」

そう言いながら部屋の扉を開けた平子は、名前の腕を引っ張って中へ入る。予期せぬ行動に上手く受け身を取れなかった名前は、「うわぁっ!?」と情けない声を上げながら平子の上に倒れ込んだ。

「いったた……急に何すんの!」
「やかましいなぁ。もう夜中やで、静かに喋りぃ」
「びっくりするようなことしたのは真子でしょう!」
「はいはい」

おざなりな返事をしながら、平子は名前をぎゅうぎゅう抱きしめる。あまりこういうことをされたことがない分自分の顔が真っ赤になっているだろうと思うと、なんだか恥ずかしくなってしまう。

「ねえ真子、私さっきまで虚退治してたから汗臭いんだけど……せめてシャワー浴びたい」
「かまへん」
「私がかまうって」
「……隊もちゃうから全然会えてへんかったやろ。俺が何のためにここに戻ってきた思とんねん」
「何って……」
「…………お前のためや」

少し気恥ずかしそうに、けれどまっすぐ自分と目を合わせる平子。面と向かってそんなことを言われるのは初めてで、思わず言葉に詰まってしまった。そんな名前の頭の後ろに手を回して自分の方へ引き寄せると、彼女の耳元に唇を寄せる。

「明日、非番?」
「し、ごと」
「ほんなら、終わったあと飯行くで。予定空けときや」

真っ白な髪をさらりと撫でられる。視界いっぱいに広がる太陽の色に顔を埋めて、強引な彼の言葉にくすくす笑った。

「真子の奢りね」
「お前の方が稼いどるやろ」
「隊長なんだから、部下に奢ってくれてもいーじゃん」
「隊長は金欠ですぅ。……でも、」

──コイビトならしゃーないな。
甘い声で囁かれた科白。名前はじわじわと肌を滑るその甘さを感じながら、そっと口を開いた。

「じゃあ、問題ないね」

夢にまで見た彼との時間を、名前は月明かりすらない部屋で密やかに、甘やかに過ごした。