趙との小競り合いに駆り出された名前は、小隊を率いて馬を走らせる。既に戦っていた他隊と合流して敵軍を退けると、共に戦った楽華隊と一緒に咸陽まで帰還した。
「名前が立てた策のおかげで、すぐに帰って来れたね」
「あんなの、蒙恬だってすぐに思い浮かんだでしょう」
「んー? さぁ、俺はまた別の策かもしれないよ」
ニ、と笑うその顔は昌平君の軍師学校でよく見るもので、名前も戦で荒ぶっていた心が少しずつ落ち着いてくるのを感じた。髪紐をほどいて手で髪を梳きつつ、馬を降りてグンと伸びをする。その隣で蒙恬も同じように馬から降りていた。
「今日は先生のところには行かないの?」
「んー、特に呼ばれてもないし行かない。それより早く身体休めたい……」
「ハハッ、今日なんかいつもより張り切ってなかった?」
「あれ、分かった? 騰と仕合していた時に戦に呼ばれたから、途中で終わったことにむしゃくしゃしてたの」
「あの騰将軍と………」
先ほどより引きつった笑みを浮かべた蒙恬に首を傾げながら、ふと彼の左腕が目に入った。服は破れていて、そこから見える肌色から血が流れている。思わずぎょっとして「そっ、蒙恬、血! 血出てる!」と咄嗟に動揺しながら指摘すると、彼は「あれ、ほんとだ」と呑気な声でそこを見た。
「あんまり痛くなかったから気づかなかったや。また後で手当てしてもらうからいーよ」
「後でって……今から報告とかいろいろあるんだから、その前にせめて血くらい止めなさい。先に正殿の医務室に行くよ」
否定の言葉すら言わせる隙もなく、名前は蒙恬の怪我をしていない方の手首を掴むと、ゆるゆる動かしていた足を少し急ぎ気味にさせた。彼女が動くたびに揺れる髪と、戦場で何度も見た背中を眺めながら蒙恬はくすぐったい気持ちになり、ほんのり顔を赤くさせながら引っ張られるがままについて行った。
どうやら医務官はどこかへ出かけてしまっているようで、そこは無人だった。遠慮せずにズカズカと入り込むと、適当に手当てをするための道具を取り出しながら蒙恬に座るように声をかける。道具を揃え終えると、袖をまくって患部を露わにさせた。
敵の刃がかすったのか、表面の肌がえぐれて中の肉が少し見えてしまっている。相当痛いはずだろうに、手当てをされている間も眉一つ動かすことなくジッとしていて、名前は最後に包帯を巻いたあと優しく指先で白い布の上から彼の肌に触れた。
逞しくて、がっしりとしている。無数にある傷跡が今までの戦の壮絶さを物語っていて、途端に今ここで彼が生きていることが奇跡のように思えた。
けれどそれは彼に限った話ではない。騰や右舷達、そして自分を含めて今この瞬間に息をしていられることは、当たり前のようで当たり前ではないのだ。
そんな思考に囚われていたせいで、彼がどんな顔をしているかなんて気づいていなかった名前は、ふっと降りてきた影にやっと顔を上げる。すると思っていたよりもだいぶ近い距離に蒙恬の顔があり、突然のことに大声を上げそうになった。
けれどそれよりも早く、蒙恬の大きな手が自分の口を塞いだ。
「シィ……。大声出したらだぁめ」
なんて声だ、と名前は回らない頭で思った。
普段の蒙恬とは違う、まるで蜂蜜を煮詰めたような、そんな声。唇に直接触れる手のひらの温もりが生々しさを物語っていた。
「ふふ、さすがの名前でもこうやって迫られるのには慣れてないの?」
「っ………!」
「かーお、真っ赤だよ」
くすくすと忍ぶように笑う音が耳に触れてくすぐったい。思わずぎゅっと目を閉じて口を塞いでいる手を解こうと自分の指をかければ、案外あっさりとそれは離れた。そのせいで硬く閉じていた瞼をパッと開けると、同時に両方の手首を掴まれて、座っていた長椅子に押し倒された。
「もっ……もうて、っ!」
「シィ…。あは、いい眺め」
彼の髪が顔の真横に落ち、視界が閉ざされる。名前の瞳に自分の姿しか映っていないことに、蒙恬の中には感じたことのない悦びが駆け巡った。
「名前」
赤に染まる頬も、ふっくら色づく唇も、なんと美味しそうなことだろうか。無意識にごくりと喉が鳴り、蒙恬は妖しく笑って更に名前へ顔を近づけた。
──ゴッッッッッ!!!!
「〜〜〜〜っっ!! いってぇ〜〜!! 何すんのさ名前!!」
「それはこっちの科白だわ馬鹿野郎! 何より近い! もっと離れろ!」
「今超イイところだったじゃんか!」
「何が!? てかまだ近いっつーの!」
しゅうしゅうと互いの額から煙が見えるほどには痛かったのだろう。頭突きをした名前も、頭突きをされた蒙恬も額を抑えながら大声を上げる。
「ああもうっ、蒙恬のせいで報告が遅れた……! 責任取ってお前が報告しに行けよ! わたしはもう帰る!」
怒ったようにその声色に怒気を込めて出て行った名前。頭突きの衝撃で椅子から落ちて床に尻餅をついた大勢のままだった蒙恬は、最後までその後ろ姿を眺めながらぽつりと呟いた。
「……顔真っ赤にさせちゃってさぁ」
──かぁわいい。
ぺろりと唇を舐めた彼は、次はどうやって迫ってやろうかなと悪い顔で頭を働かせながら報告のために医務室を出た。