■ ■ ■
──まるで、夢のような時間だった。
目が覚めたら海の中で、息ができなくてもがいたけれど周りは真っ暗。息を止め続けるのにも限界でごぼりと口の中の息を吐き出してしまう。
ああ、もう死んでしまうのか。そんなことを思いながら最後に手を伸ばすと、長細い影がゆらりと水中に揺らめく。左右非対称の双眸が驚きに染まったのを最後に、私は意識を失った。
「なまえ〜、追いかけっこしよ」
「いーや。フロイド手加減なしだもん。すぐ捕まっちゃうから面白くない」
「ちぇ、つまんねーの」
「それよりさ、もっと海の世界を教えてよ! こんなに綺麗な世界、たくさん見ないともったいない!」
目をキラキラ輝かせてフロイドを誘うと、彼はへの字だった口をすぐににんまりとさせて「いいよぉ」と頷いてくれた。
泡沫の夢
結果的に私は助かった。
目の前で上機嫌に身体を揺らしているウツボのおかげで、海の中でも呼吸ができる魔法薬を持ってきてくれたのだ。間一髪で私の命を救ったフロイドは初めて見た人間に興味津々で、右も左もわからない私に海中を案内してくれている。彼の片割れであるジェイドや友人のアズールとも遊ぶようになり、私はすっかりここでの生活を楽しんでいた。
手を引っ張られてあれは何でこれはこうだと教えてくれるフロイド。そんな彼のことを好きになるのに時間はかからなかった。いつも目で追ってしまうし、我がままなところも丸ごと好きになって、最終的には「仕方ないなぁ」で許してしまう。
だから、フロイドも私と同じ気持ちだと知ったとき何度も聞き返した私は悪くない。それこそ彼に「もー、しつけぇ」と言われるくらいには何度も聞いた気がする。
誰かに好意を向けられることがこれほど嬉しいなんて思わなかった。誰かと一緒にいて安心できるなんて知らなかった。見知らぬ海の世界なのに、フロイドといるだけで不安なんて消し飛んでしまう。
──このままずっとここで、フロイドやジェイド、アズールと一緒にいたい。そんな思いは、所詮うたかたの夢でしかなかったのだけれど。
朝起きて、不意に思った。
ああ、今日が最後だと──。
「はい、どうぞー」
「うわぁ……! すごい、これ全部フロイドが作ったの!?」
「アズールん家でね。それより早く食えよ〜」
「うん。……んっまぁい! 超おいしい〜!」
思わず頬を押さえてしまうと、フロイドはゆるゆると笑ってこっちはねー、と料理の説明をしてくれた。それにふんふんと相槌を打ちながらちらりと彼を見ると、ぱちりと合う左右非対称の瞳。初めて見た時とは違って甘くとろけて細められるそれがたまらなく愛おしくて、胸がぎゅうと締めつけられる。
あれ、おかしいなぁ。今はフロイドに絞められていないはずなのに。
すると先ほどまで甘やかな色を含んでいた瞳がぎょっと見開かれ、あわあわと「どっどうし、へ!?」と慌てた声を上げる。うん?と首を傾げれば、気泡のようなものがぷかりぷかりと海の中を漂う。
「あれ………?」
涙だ。まあるい涙が次々に溢れて、上へ上へとのぼっていく。
「おかしいな、泣くつもりなんて、なかったのに……」
自覚してしまえば、もうダメだった。ひくりと喉が引きつってまともに喋れない。フロイドは何があったんだと聞いてくるけど、出てくる声は言葉にもならない嗚咽ばかり。そのうち彼が優しく背中をとん、とん、と叩いてくれたおかげで少しずつ落ち着くことができた。
「……落ち着いたぁ?」
「ひっく……うん、ごめんね、ありがと…」
「で、急にどーしたの? 誰かに何かされた? オレが絞めてくるから教えて?」
「ううん、………ううん、ちがうの」
ちがうの。ちがうのよ。
わたしね、もうここにはいられないの。
きっと今日が最後。もうすぐわたしは帰らなきゃいけない。
世界が、わたしを連れ戻しにきた。
つたなく、けれど確かに感じているそれを伝えるとフロイドは目に見えて激昂した。瞳に光はなく、まるで今にも誰かを殺してしまいそうな雰囲気だ。
「何だよそれ……。世界? 帰る? 意味わかんねー…! 世界だろうがなんだろうが、オレからなまえを奪うヤツはみんな関係なく絞め殺してやるよ」
そんな雰囲気とは真逆に、フロイドの声色は熱を帯びて私を包み込む。冷たい水の中なのに、彼の腕の中だけはまるで日向のような暖かさを感じた。
「私もやだよ、戻りたくない、ずっとここに、フロイドといたい。ジェイドとアズールともはなれたくないよ……!」
けれど、世界は無情だ。常に各々のバランスを取りたがって、本人の意思なんて関係ないとばかりに“正常”へ戻したがる。
足先の感覚がなくなってきた。フロイドの腕から少し離れて見下ろせば、足の指先からこぽこぽと泡になってきている。そのことにフロイドも気づいたのか「チッ! 〜〜〜…っアズール! アズール!!」と友人の名前を呼び続けた。
普段あまり聞かないフロイドの焦った声に蛸壺から飛び出してきたアズールは、「何!?」と言いながら私達を見る。はじめは抱き合っている私達に顔を赤くしていたが、次に泡となって消えかけている足先を見て瞳を極限まで開いた。
「なまえ!? なん、え、急になぜ!?」
「わっかんねぇから呼んだんだろ! 何とかしろよアズール、でねーとなまえが消えちゃう!」
「何とかって……そもそも理由が分からない! どうして泡になって消えかけているんだよ! こんなの、こんなのまるで……御伽噺に出てくる人魚姫みたいじゃないか……」
足先だけだったのが、もうすぐ太ももまで泡になりそうだ。
アズールは自分の持つ知識をフルに使って何とかしようとしてくれているが、おそらく無理だろう。時間が足りなさすぎる。すると気を利かせていなくなっていたジェイドも、この騒ぎを聞きつけたのかいつもの飄々とした笑みを消して驚きに染めた表情を浮かべながらやってきた。
「どうしたんですか?」
「ジェイド! なまえが、なまえが…!」
「足から泡になって……!?」
「世界が連れ戻しに来たって、なあ、なんとかなんねーの?!」
片割れにすがりつくフロイド。ジェイドは呆然としながら片割れの肩に手を置き、私と目を合わせる。それだけで私が何を考えているか察したのだろう。先程のアズールのように目を瞠って奥歯を噛み締めた。
どうにもできない。どれだけ足掻いたって、私はあの世界から逃れられないのだ。
わあわあ騒ぐフロイドを、まだ消えていない指先でつんつんとつつく。気まぐれで気分屋な私の恋人は、顔をくしゃりと歪めてじわりと目の淵に涙を溜めている。
「フロイド」
「やだ、ぜってーヤダ…!」
「うん。……わたしだっていやだよ」
離れたくない。ずっとこの心地よい世界で生きていきたい。けれど無理だ──今は。
「だからね、待ってて」
「はぁ……?」
何を言っているんだとでも言いたげな彼に向かって、あふれる涙をそのままに手を伸ばした。
「必ず、絶対に、フロイドのところに帰るから」
そうだ、諦めてやるもんか。
たとえ“世界”が相手だって、私は諦めない。
「………ほんと?」
不安に揺れるフロイドの声に、私はいつものように目を細めて応える。
彼はもう胸まで泡になってしまった私の身体を掻き抱いて、少しの隙間すら埋めるように腕の力を強める。
「まってるから、オレ、ずっと」
「うん、まってて。──やくそく」
いつの日かフロイドに教えた“約束”の指切り。小指同士を絡めて、おまじないを唱え終わる瞬間、背中に回っていた手が頭の後ろに回ってグイッと引き寄せられる。フロイドの瞳が近づいてきたと思ったら、唇が重なった。最初は触れるだけの口づけはだんだん深くなって、息さえ食べられているような激しいものになっていく。
「なまえ」
大切な宝物みたいに私の名前を呼んでくれるフロイド。なあに、と訊ねると微かに唇を離して彼はこう言った。
「だぁいすき」
──私も、だーいすき。
その言葉を最後に、私は泡となって彼らの前から姿を消した。
まるで、夢のような時間だった。
***
最近やってきた魔法が使えない異世界人の監督生は、エーデュースコンビと相棒のグリムと食堂でご飯を食べていた。相変わらず汚い食べ方をするグリムの口を拭いてやっていると、ガシャン!と何かが落ちた音と騒めきが聞こえてきた。何だろうと食堂の入り口へ目を向ければ、そこには自分が苦手なウツボ兄弟と先日オーバーブロット事件を引き起こしたアズールが何やら揉め事を起こしている。
どうやら虫の居所が悪かったフロイドに誰かがぶつかり、彼の食事が床に落ちてしまったようだ。そのせいでフロイドは完全にキレてぶつかってきた生徒を加減なしに絞めている。
「あのさぁ、オレ今超機嫌悪いの。こんな日にぶつかってきてご飯落としたくせに、謝罪もナシとかふざけてんの?」
「あ、ぅぐ……っ! す、ずみばぜ…!」
「あ? 何言ってっかわかんねー」
「フロイド、そこまでにしなさい」
「そうですよ。そのような姿、あの子が見たらどう思うか……フロイドなら容易に想像できるでしょう」
「……うるせーな、分かってるよ」
強く舌打ちして乱暴に絞めあげていた生徒を離すと、アズールとジェイドを置いてもう一度ご飯を取りに行くフロイド。そんな彼の後ろ姿を見てやれやれと首を振った二人は、自然と開いた道を堂々と歩んで席に座った。
「うーわ、フロイド先輩ガチギレじゃん」
「何であんなに怒ってたんだゾ?」
「分からない。だがジェイド先輩が“あの子”と言った瞬間、フロイド先輩はあの生徒の手を離したよな?」
「……イラついているフロイド先輩の理性を取り戻せるほど親しいってこと、だよね……」
最後の監督生の言葉にさらにウーンと頭を悩ませることになったが、ちんたら食事をしていたらまたリドルに小言を言われてしまう。とりあえず考えるのは後だと、彼らはまださらに残っているご飯を掻き込んだ。
翌日、1年A組に転校生がやってきた。クルーウェル先生の紹介で一歩前に出たその人は、監督生と同じ女子用の制服を見に纏っていた。
男子校と言われるここで、まさかの女子。エース達も、そして監督生も思わず彼女を凝視してしまった。
「初めまして、なまえ・みょうじです。分からないことばかりですが、これからどうぞよろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げる。顔を上げた彼女、なまえは教室を見渡すと柔らかく瞳を細めた。