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クルーウェルに紹介された女の子も、どうやら監督生と同じ別の世界から来たようだった。やはりというべきか、魔力のないなまえは既に先例のある監督生に倣ってオンボロ寮の所属になった。
そんななまえ・みょうじに興味を持たない人間なんていなかった。特に監督生はべったりで元の世界のことを楽しそうに話す姿が連日目撃された。
「今ごろあの映画の続編は上映されてるかな?」
「私がいた時はまだでした」
「え〜〜っ! 私が帰る頃には上映しててほしい……!」
がっくりと肩を落としながら本日の昼食、菓子パンを口に放り込む。中庭の木陰にいるおかげで風が気持ちいい。いつも騒がしい相棒のグリムはエースのパンを横取りしたせいで現在彼と共に鬼ごっこ中だ。ちなみにデュースは魔法史で寝ていたせいでトレイン先生にこってり絞られている。
くすくすと笑うなまえの横顔を、監督生はジッと見つめる。その視線に気がついた彼女は、「何ですか?」と首を傾げて問いかけた。
「んー………やっぱりどっかで見たことありそうなんだけどなぁ、なまえちゃん」
「ふふ、またそれですか?」
「だってー! モヤモヤするんだもん! ねえねえ私とどっかで会ったことない!?」
「昔のナンパ男みたいですね、それ」
「会ったら忘れませんよ」と笑うなまえの科白は、暗に“会ったことがない”と同義だった。だよねぇと未だモヤモヤする胸中をお茶で流し込み、そろそろグリムを迎えに行かなければと立ち上がった。
「グリムくんを迎えに行くんですか?」
「まぁね。あんなのでも私の相棒だし」
「それじゃあお手伝い、」
「いーよいーよ! まだ途中じゃん、ゆっくり食べてて!」
木陰から日向へと足を踏み出した監督生は、そのまま手を振って走り去ってしまった。それだと次会うのは午後の授業だと見切りをつけたなまえは、残った菓子パンを全部口の中に入れて咀嚼する。
そよそよと柔らかな風が頬をくすぐり、憎らしいほどの青空が学校を覆う。生徒同士の喧騒がどこか遠くから耳に届いた。
「………見たことある、か」
つい先程まで展開されていた話を思い返す。話題が出てすぐに笑い飛ばすことができたが、それもいつまで保つか。
「そういえば、この世界にも人魚がいるんだっけ」
監督生からたくさんの話を聞いたなまえは、久しぶりに一人になった空間で思い出した。様々な寮がある中、海の世界を模した寮があることを。そこに所属する生徒の多くが人魚であり、寮長はタコの人魚、副寮長はウツボの人魚なんだとか。
──タコに、ウツボ。
その二つの種類はなまえにとって忘れられないものだった。
幼い頃に起きた、夢のようで儚い幻みたいな現実。目が覚めたら海の中だなんて、今思えばなんてロマンチックな夢だ。けれど、夢ではなかった。あれは確かに現実だった。幼いウツボに助けられ、帰る術がわからずに海の中で過ごした日々。彼の片割れや友人も、監督生から聞いた種族と同じウツボとタコの人魚だった。
「……フロイド達のいる世界じゃなくて良かった」
(フロイド達がいる世界が良かった)
本音を隠し、嘘を口にする。
誰にでも丁寧に接し、柔らかな笑顔を見せる女の子。けれど今、彼女の瞳には仄暗い影が落ちていた。
儚い幻
ゆらゆら揺れる尻尾を眺めながら、漂う花々の匂いに包まれる。無防備に寝ている男の頭に生えた獣の耳はへにゃりと垂れていて、よく眠っている証拠のようにも見えた。
ぺらり、ぺらり。ページをめくる音が微かに聞こえるが、男は目を覚まさない。むしろスー、スー、という寝息の方が大きいかもしれない。
「やーっぱりここッスか」
「ブッチ先輩」
「好き好んでレオナさんの所に来るなんて、アンタか監督生君くらいのもんスよ」
「静かな場所って言ったらここしか思い浮かばなくて……。キングスカラー先輩からの許可も得ていますので」
「物好きッスねぇ」
さて、ラギー・ブッチが来たとなればおそらく午後の授業が始まる時間なのだろう。読んでいた本をぱたむと閉じ、改めて寝ている男──レオナ・キングスカラーに向き直る。瞼は未だに固く閉じられていて、まだ起きてはいないようだ。
「ありがとうございました、先輩」
女に似合う、穏やかな声音だった。顔を上げて立ち上がり、最後にラギーにも会釈をしてから彼女は植物園から立ち去った。支給されたスマホの画面を点けてみると、監督生から『どこ〜〜っ!? もう授業始まっちゃうよ!』とメッセージが入っている。
誰かとこういうやり取りをしたことが無かったなまえにとって、それはなんだかむず痒くて、そわそわして、そして──とても幸せなことのように思えた。
「すぐ行きます、っと……。次の授業は音楽か、急がないと」
駆け足気味で音楽室に向かう少女の後ろ姿を、ラギーは光のない目で見送った。やがて完全に見えなくなったことで漸く息を吐くと、くつくつと喉奥で笑う声が鼓膜を打つ。声の主を見れば、男は唇を弓形にさせて切れ長の翡翠色を細めている。
「……寝たフリなんて趣味悪いッスよ、レオナさん」
「さっきまでは本当に寝ていた。しかし、お前のそんなツラが拝めるなんてな……。あの草食動物に何か感じたか?」
「別に、ただ苦労したことなさそうだなぁって思っただけッス。異世界に飛ばされてもなんだかんだ助けてくれる手が差し伸べられて、それを甘受する。……ほんと、見てるだけで反吐が出る」
冷たく言い放つラギーは、此処へ入学する前はスラムで生きてきた。明日も生きられるか分からない日々が日常だった彼にとって、なまえ・みょうじはお綺麗な小娘に見えて仕方がなかった。
監督生にも似たようなことを思った時もあったが、彼女が入学してから今までで“オーバーブロット”と呼ばれる事件を幾度も解決してくれたし、何より自分も命を救われた。泥に塗れながらも諦めずに戦ってくれた監督生のことは、少なからず気に入っている。
だが、なまえ・みょうじは違う。いくらこの世界に来てしまったのが監督生よりも後だからと言っても、彼女が今学生という立場でNRCに通えているのは偏に監督生のおかげと言っても過言ではないだろう。監督生が確立させた立場を疑いもせずに受け入れ、苦労も辛労も努力もすることなく今の日常を受け入れていることがラギーは気に食わなかった。
「だから、アイツが他の草食動物に絡まれていても見捨てたのか?」
「そッスよ。だってオレがなんの見返りも無しに助けと思います?」
異世界から来た魔力のない女。そのフレーズだけでも生徒の刺激を良い意味でも悪い意味でも煽った。もちろん監督生に対しても最初は『何故魔力のない人間が誇り高きNRCに通っているんだ』と反発を受けて陰湿な虐めがあったのだが、今ではハーツラビュルの一年コンビとグリム、そして長くも短くもない時間の中で関係を築いていった各寮長や友人達が目を光らせているため、そういった行為は無くなった。
だが、そこへまた新しい人物がやって来たら? 条件は監督生と全く同じ、けれど彼女を守る者は誰もいない。つまりなまえは虐めの格好の的だったのだ。
その現場をたまたま目撃したラギーだったが、彼は無情にも助けに行くことなく切り捨てた。だって自分に得がないから。事前にマドルでも積まれていれば話は別かもしれなかったがそんなことも一切無かったので、ラギーは厄介ごとには関わるまいと見てみぬフリをしたのである。
「どうせ、元の世界でも愛されて甘やかされて育ったイイコちゃんっぽいし、この世界でくらい苦労をしたらいいんスよ」
吐き捨てられたセリフに、レオナも確かにと鼻を鳴らして頷く。基本女には優しくするというのがお国柄の彼だが、根本で思うことは一緒らしい。
*
空が茜色に染まる。──黄昏時だ。
図書室からの帰り道、なまえは校舎の廊下からぼんやりと外を眺めた。
きっと、すぐにオレンジ色は闇色に溶け、夜がやって来る。星々が瞬く闇夜はもうそこまで迫ってきているはずだ。その瞬間がなまえは好きだった。
だって、夜の帳が降りた世界はまるで深海のように見えるから。光の射さない闇一色の深い海。その場所を彼女はいつも夢に見ていた。
「……絶対にあきらめない。諦めてなんてやるものか」
──私は必ず、彼らのもとへ帰るのだから。
空を睨むように拳を握った直後、背後からぶわっと熱いものが迫ってきて咄嗟に身を反らして避けた。しかし熱が壁にぶつかったことで生じた爆風までは避けきれず、ゴロゴロと長い廊下に転がるように身を打った。
「な、っに………?」
壁を支えにヨロヨロと頼りない足で立ち上がり、煙が晴れるのを待つ。するとそこには見慣れない生徒が三人並んでいた。全員マジカルペンを手に持ち、その先をなまえに向けている。その構図は明らかに今の攻撃は自分達だと明確にうたっていた。
「何の用、ですかね、」
「分かってるだろ? 今まで散々言われてきたんだからなァ」
「……またその話ですか」
「またって何だよ! 魔力のない女がのうのうと過ごしてんじゃねぇぞ!!」
「ここは将来有能な魔法士になる者だけが入ることの許される名門、ナイトレイブンカレッジ。魔力のない人間なんかお呼びじゃねぇんだよ」
ゴウッ!という音と共に豪風が廊下で吹き荒れる。風という見えない攻撃には対処の仕様がなく、とりあえず顔の前で腕を交差して防御態勢を取った。
制服は破れ、見える肌色からは血が滴る。やがて風が止む頃には、なまえは息も絶え絶えになっていた。無理もない、何せ彼女は男達が言う通り“魔力のないただの人間”なのだから。
「はぁっ……は、っ……こんなことをして、ッ…退学処分、になったら、…は、どうするんですか?」
「おいおい、俺らの心配してくれてんの?」
「お優しいねェ? けど……まずは自分の心配すれば?」
じわじわといたぶる様になまえに近づくと、一人の男がガツンとその柔い頬を殴った。チカチカと視界が瞬く隙に廊下へ押し倒し、細い体に馬乗りになる。そこまでされると、なまえにはこれから何をされるのか予想がついた。
「ふ、ふふ」
「……何がおかしい?」
「いや、ぁ……だって、こんな、目立つ場所、で……青姦って…。好きものだな、と…思って」
「ってめぇ!!」
「AVの見過ぎ、じゃないですか?」
なまえが言い切るや否や今度は反対側の頬を殴られる。そのせいで喉奥からこみ上げて来る血の味が咥内に広がるが、なんとかそれを飲み込んで下から男を睨みつけた──時だった。
「──なまえ、ちゃん?」
全員同時に声のした方を見ると、そこには青ざめた監督生が立っていた。握られた拳は胸元にあり、遠目から見ても体が震えている。なんてタイミングだ、となまえが思ったのと同時に男達は下卑た笑い声で彼女に話しかけた。
「監督生チャンじゃねェかよ。なんだ、混ざりにきてくれたのか?」
「物好きだなぁ! ほら、ンな所にいないでこっち来いよ!」
一人の男がケラケラ笑いながらゆっくりとした足取りで監督生に近づく。しかし彼女は恐怖で体が固まり、動くことができない。どうする、となまえが考えるよりも先に口が言葉を紡いだ。
「監督生さん!」
劈くような声がグワングワンと廊下に響く。ハッと覚醒した監督生と瞳が合わさると、なまえは出来るだけ怖がらせないように柔らかく瞳を細めた。
「わたし、──私、ここでこの人達と遊んでから帰るので、晩ご飯遅くなります」
努めて声が震えないように気をつけながら、いつも通りの会話を心がける。もちろん監督生はこの状況で何を、と思ったようだが、それでも踵を返して反対側へ走って行った。
彼女の姿が完全に見えなくなると、男達はゲラゲラと品のない笑い声を上げてなまえを見下ろす。
「何だよ、その気なら早く言えよ!」
「……その耳障りな声で喋るの、やめてもらえます?」
「…………ア゛?」
この状況で、今この女は何て言った?
男達が額に青筋を浮かべる中、なまえは彼らを嘲るように笑ってみせた。
「犯すなら犯せばいい。けれどその後は私が責任持って貴方達を社会的に抹殺してやる。──明日も光の下で歩けるといいですね」
ガンッ!! 馬乗りになっていた男が衝動的になまえの頭を掴み、そのまま振り下ろした。床に強く頭を打ち付けてしまい、ぐらりと視界が揺れる。
「女が生意気言ってんじゃねェぞ」
「望み通りさっさと犯してやろうぜ」
男がなまえの制服に手をかける。そのままグッと上に持ち上げられ、そっと瞳を閉じた瞬間、男がふっ飛んだ。急に軽くなった体にぽかんと呆けるなまえの耳に、気だるげな声が届いた。
「こんな所で楽しそうだねぇ〜、オレも混ぜてよ」
黄昏時は過ぎ去り、すっかり深海に包まれた校舎でぼんやりと光ったのは──黄色とオリーブ色の双眸だった。