■ ■ ■

黒の教団には、ある嫌われ者の女の子がいる。血のような真っ赤な髪に瞳。端正な容姿のせいもあってか、周りからはとても気味悪がられていた。

「おい、あの女が帰ってきたぞ」
「うわぁ、よくここに戻ってこられるよな――人殺しのくせに」

クスクスと、嘲笑が女――なまえを襲う。しかしなまえは顔色一つ変えることなく、室長室へと向かった。


嫌われ者のおんなのこ




中へ入るとそこは紙、紙、紙の山。どこに何が置いてあるのか分からないだけじゃなく、足場すらなかった。爪先立ちだって出来やしないくらいだ。ハァ、とため息をついたなまえは紙を無造作に拾いながら室長のデスクに向かう。一つの道が出来たところで、ようやくこちらの存在に気づいた室長に軽く頭を下げた。

「ただいま戻りました、コムイさん」
「おっかえり〜! 無事に帰ってきてくれて嬉しいよ。あ、書類も拾ってくれてありがとう、そこ置いといてくれる?」

そこ、と指で示されたのは既にタワーと呼べるくらいに積み重なった書類達。この上に置けというのか、となまえは難しい顔をしたが諦めてその横にソッと置いておいた。どうせすぐに床に落ちるに違いないと確信しながら。

「どうだった? フランス南東部は」
「アクマが多いだけで、何もなかったです。人も、建物も、何も」
「…そっか。手遅れだったみたいだね……」

ふ、と顔に影を落としたコムイに、なまえが何か声をかけようとするが、それよりも先に室長室の扉がガチャリと開いた。
そこに目を向けてみると、自分の赤毛とは比べものにならないくらい綺麗な赤をした髪の男と目が合った。――途端に彼の顔は歪み、嫌悪感丸出しのオーラを放ったが。

「なんでそいつがいるんさ、コムイ!」
「なまえちゃんも今帰ってきたところだからだよ。それから、女の子にそんな風に言わないよ、ラビ」
「最初に突っかかってきたのはそっちさ」

最初、というのは二人が初めて顔を合わせたときのことだ。
フン、と顔を背けながらラビは持っていた報告書を乱雑にデスクの上に置く。その振動のせいでドサドサドサ…! と積み重なった書類タワーがみるみるうちに床へと落ちていった。
誰も、何も言葉を発しない。しばらくの沈黙の後、なまえが拾い始めた。もちろん上下の向きなんて気にせず、ただ紙を揃えてデスクの上に置くだけ。他の書類なら放っておくところだが、コムイのデスクに置かれていた書類ならば話は別。なぜならばその書類内容はとても大事なものだから。

「はい、コムイさん」
「ありがと〜〜っ! すっごく助かった!」
「いえ、じゃあ私はこれで」

ぼけっと突っ立っているラビの横を通り過ぎ、なまえは室長室から出た。向かうは自室。はやく身体をゆっくり休めたいのだ。
しかし、突然横から伸びてきた腕がなまえの行く手を阻む。

「……何か用」
「あァ? 人殺しが目の前を歩くからイラついてよォ」
「ふぅん…こんなことする暇があるなら、少しでも鍛えたらいいのに」
「っ…ウッセェ! …き、聞いたんだぞ俺ァ、テメェアジア支部で媚売ってたんだってなァ?」
「は……?」

いきなり出てきた“アジア支部”の台詞に、さすがのなまえも無視できなかった。それに気を良くした男は下卑た面を恥ずかしげもなく晒し、なまえを見下ろした。

「アジア支部の支部長に媚びへつらってここに来たんだろ!? テメェなんかの色仕掛けにやられるなんざ、アジア支部の支部長も大したことねェんだな!!」

男は皆に聞こえるように大声で熱弁する。もちろんその場から近い室長室にも丸聞こえだった。
ラビはもちろんコムイも室長室から出て廊下を覗くと、そこには唾を撒き散らしながら悠々と語る男と、その前で顔を俯けながら拳を握り締めるなまえの姿が確認できる。

「なんだ、あいつかよ…」
「……待って、ラビ」
「なんさ?」
「……まずいことになる気がする。はやくあのファインダーを止めないと……」
「まずいこと?」
「なァ、どうだったんだ? えぇ? 教えてみろよ俺に! 本部にも来れない能無し支部長殿の具合はよっぽど良かったのか!?」

ラビがコムイに聞き返し、男がさらなる追い打ちをかける。その瞬間男の身体はものすごい力で壁に打ち付けられ、瞬きしたと同時に首元に双刀がギラリと突きつけられていた。

ひ、ヒィィ!!

男の悲鳴が廊下にグワン、と広がる。周りで見ていた他のファインダーも、ラビも、唾を飲み込むことすら忘れて目の前の光景に釘付けになっていた。
まさかイノセンスを向けるとは、誰も思わなかったからだ。今まで何を言われても颯爽としていたなまえが、本気の殺意で刃を向けているのだから。
ただ、コムイだけはこうなることがわかっていたかのように目に手を当ててため息をついている。

「……“人殺し”だっていうのは、否定しない。現に私は救うことなんてできなかった。そのことについて言い訳するつもりもなければ、あの日のことを詳しく語るつもりもない。
だけどね、アジア支部の…バクのことを持ち出すなら話は別」

ゆっくりと、イノセンスが自分に近づいてくるのが分かる。男は冷や汗を流し、必死に壁に寄って刃から逃れようともがいた。

「私がバクに色仕掛け? 媚びた? いつ、私がそんなことをした。いや、この際私がしたとかいうことについてはどうでもいい。
私が許せないのは、バクのことを『本部にも来れない能無し』って言ったこと」

いつもは、まるで死んだように瞳を暗くさせているのに。今の彼女は強い意志を孕ませて、鋭い眼光で男を睨みつけている。
ラビにはその光景がどうしても信じられず、だが、彼女から伝わってくる怒りになぜか身体が震えた。
そこへ神田がやって来た。彼もこの雰囲気の歪さに気づいたのか、近くにいたコムイとラビの元へやってくる。

「なんだ、これ」
「なまえちゃんが怒っちゃってさ……」
「ハァ?」

コムイがなまえの名前を出した瞬間に嫌な顔をする神田は、コムイの視線の先へと目を向けた。そこにいたのは、静かに怒りを相手にぶつけているなまえ。神田は思わず目を瞠った。自分の知っている彼女は、いつも諦めていて、何をするにも無関心、表情の変化など一切ない、自分とは相容れない人物だった。――そのはずなのに、今のなまえにはその影などどこにもなく、あるのは単純な怒り。それすら神田にはありえない光景だった。

「バクに会ったこともない人間が、アジア支部に行ったこともない人間が、あそこを、バクを貶すな! 
あそこは私の世界で、すべてで、何においても守らなきゃいけないところで、っ、あ、あんたなんかが汚していい場所じゃないの!!」

静かな怒りは、やがて慟哭へと変わる。涙を散らしながら血のような赤い髪を揺らすなまえは、イノセンスを握る手にグッと力を込めた。
このままでは男の首が――。ラビも神田もハッとなって動こうとしたが、そんな二人よりも先にスッと影が動いた。

「なまえちゃん」

静かな呼びかけだった。何度もなんども呼んだ名前を、コムイは一文字一文字を大切に呼ぶ。
呼ばれたなまえはしばらくそのままでいたのだが、やがてイノセンスを消してその場に俯いた。あまりにも小さな背中に、コムイはゆっくりと手を伸ばし、後ろから抱きしめて彼女の目を手で塞ぐ。もう何も見なくていいように、これ以上汚い世界を見せないように。
ファインダーの男は腰を抜かしたまま、情けない声を上げながら去って行く。それがきっかけで他のファインダー達もコソコソと音を立てずに消え、この場にはなまえ、コムイ、ラビ、神田の四人だけ。
はぁ…、と震える吐息を吐き出したなまえは、唇を噛み締める。その行為がどういう意味を持っているか、ずっと側で見てきたコムイには分かってしまった。

「そんなに噛み締めないの。唇怪我しちゃうよ」
「っ……、っ、」
「言わなきゃわからないよ。いくら僕でも、人の気持ちを当てることなんて出来ないんだから」

嘘、本当は言葉にしなくても今のなまえの気持ちはすぐにわかる。だが、もうこの子は限界だった。溜め込んで溜め込んで、もうキャパシティなんてほとんど残ってないだろうに。
わざと嫌われ者になるように口を噤み、無表情を装って。他人のぬくもりを嫌って。本当は泣き虫で、表情豊かで、よく喋る子なのに。
これは、ラビと神田のなまえに対する認識を変えるチャンスでもあった。コムイは内心そう思いつつ、なまえの口が開くのを優しく待った。

「い、言えない……っ!」
「どうして?」
「だって、い、言ったら…ば、バクに、めいわくかけちゃう…っ。そ、そんなのやだぁっ!」

嗚咽交じりに泣くなまえに、ラビと神田は顔を歪めた。それは嫌いな相手だからではない、無表情の中に隠した本音に、心を痛めたからだ。

「ここにバクちゃんはいないから。僕に聞かせてくれる?」

もう一息。コムイはそう確信づいて、優しく、優しく言葉をかけた。ぽろぽろと涙を流すなまえは、躊躇い、やがて恐々と想いを口にした。

「…っ、ば、……バクに、会いたいっ…! 会いたいよぉ、っ、バクに会いたい、会いたい……!」

一度言ってしまえば、もう止めることなんて出来やしない。なまえは今まで溜めていたものを吐き出すかのように『会いたい』と全身で叫ぶ。
それを聞いたコムイは、タイミング良くやって来た男に静かに笑みを浮かべた。

「なまえちゃん、目を開けてみよっか」
「や、いや! バクがいない世界なんて見たくない…!」

未だ自分の目を塞ぐコムイの手を、更に上から押さえつける。まるで子どものように嫌だ嫌だと首を振るなまえに、コムイも男も笑った。
コムイは優しくなまえの手を自分の手から離し、目をふさいでいたそれを取る。慌ててその手を求めるかのように目を開けて振り向いたなまえは、自分の視界に映った人物に思わず固まってしまう。

「な、なんで……」

気まずそうにぽりぽりと頬を掻いた男――バクに、なまえは涙を流しながら目を瞠る。これは現実? それとも夢?

「なんで、バクがここに…!」

つい、と口から出た疑問だが、そんなことはなまえ自身どうでもよかった。夢か現実か、分からないままなまえはバクの胸に飛び込んだ。
ふわりと香るバクの匂いに、なまえの荒れていた心も次第に治まってゆく。

「バク、バクっ……っ!」
「ふ、相変わらず泣き虫だな、なまえ」

優しい手つきで撫でられる頭に、さらに涙が溢れてくる。
ああもう、ほんと、バクのばか。必死に耐えてたのに。バクのいない生活に、日常に。最初の頃は何度も帰りたいと嘆いた。だけど帰れるわけがなかった。だって、私が本部に行くことが決まった日、バクはとても嬉しそうに、まるで自分のことのように笑って「おめでとう」と言ったのだから。
そんな彼に、「行きたくない」だなんて言いたくなかった。

「……僕が、寂しくないと思ったか」
「……え…」
「寂しかったに決まってるだろう!」

とても、バクの口から出たセリフだとは思えなかった。なまえは胸に埋めていた顔を上げてバクの顔を見る。すると、ゆでたてのたこのように彼の顔は真っ赤に染まっていた。

「(…ああ、なーんだ)」

くす、と口元に笑みが浮かぶ。

「(気持ちは、一緒だったんだ)」

なまえはもっと嬉しくなって、抱きつく腕の力を強めた。
ようやく公衆の面前だと気づいたバクは、こちらを見て口をパクパクとさせるラビと神田、そしてニヤニヤするコムイの姿を見つけてジンマシンを発症させたのは言わずともわかる話である。


「だ、だ、誰さあれ!」
「誰って…なまえちゃんじゃないか! バクちゃんに抱きつくなまえちゃんはまるで天使のような可愛さ…! ほら見てあの笑顔! くぅぅっ…バクちゃん羨ましい!」
「……違う人間だろ、あれ」
「神田くんまで何言ってるの。あれが、なまえちゃんのデフォルトだよ。……何をどうしたのか、いきなり無表情チックを極めてたけど、昔からなまえちゃんを知ってる僕からすれば全然だね! 『寂しい』って想いが溢れてた!」

ジンマシンで倒れるバクに慌てて背中を支えるなまえ。そんな光景を目にして、コムイは「でも、」とつぶやいた。

「やっぱり、なまえちゃんに嫌われ者は向いてなかったよ」
「……は?」
「なまえちゃん、わざと嫌われようとしてたんだよ。嫌われて、嫌われて――仲間を作らない。そうして必要以上に大切なものをあえて作らず、ただちっぽけな世界を守り続けてた」
「――こ、こ、コムイさん! バクが!」

半べそをかきながらコムイを呼ぶなまえに、呼ばれた彼は目を細めた。彼女に表情がある。それだけが嬉しかった。

「もー、バクちゃんってば! 早く起きないとなまえちゃん貰っちゃうよ〜」
「そ、それはダメだ! いくらコムイでもやれないぞ!」

ギャーギャーと言い争うバクとコムイをよそに、なまえはラビと神田を見た。泣きはらした目元を赤くしたなまえと交わる瞳。

「…………、」

しかし、なまえは何も言うことなくコムイとバクの間に割って入った。
そこからはさらに言い合いがヒートアップし、収集がつかなくなってしまった。そんな争いを見ながら、ラビがぼそっと口を開く。

「……仲良くなれっかな」
「………知らねーよ」

ただ、二人の声色は、今までのようなトゲトゲしたようなものではなく、穏やかなものだった。
のちになまえ、ラビ、神田は三人で任務に行くほど仲良くなるのだが、それはきっとすぐの未来だろう。