その日珍しく審神者は「おはよう」の挨拶をしてこなかった。いつも通り長羽織を纏い障子を開け出てきた姿に、大倶利伽羅は一度視線を外してから再度ちらりと見やった。口元を覆う白い布は、鳴狐のそれを連想させる。隣に座りながらお節介に朝食のゆで卵の殻を綺麗にむき、自分の皿に入れてくる燭台切が顔をあげて「あれ」と声を上げる。やり取りを黙ったまま聞くところに女は風邪を引いたらしかった。とは言っても症状は透明な鼻水が少し垂れるのと喉の痛みのみであり、平熱だし体を普段のように動かすには問題ない程度だ。それに現在歴史修正主義者との戦いはそう困難を極めてはいないものの、本丸全体で休業を取るまでの余裕は存在しない。とにかく執務は行うが、うつりでもしたら大変だから部屋には近づかないようにとみんなにも伝えてくれ、若干擦れた声で言い残すと彼女は襖の向こうに姿を消した。
「ふうん、珍しいね」
「あいつのことだ、腹でも出して寝ていたんだろう」
「はは、ありえる。さあて」
よっこいしょと口に出しながら立ち上がる彼は、座ったままの大倶利伽羅を見下ろした。今日は僕の部隊が出陣する日だから、あの子をよろしくね。呼び掛けに無言を貫き、白米を頬張る彼に苦笑し燭台切は部屋を立ち去った。何も言わないということは了承してくれたと同じなのだ、倶利伽羅は嫌なことは嫌だときっぱりと断る。
ぽつん、一人置いていかれた青年は大人しく箸を動かす。いつもは審神者がわけのわからないことを話題に勝手にべらべらと喋っているので些か物足りな……静かに感じた。雑音は過ぎれば苛々になるし、無ければ耳が寂しい。人間の身体は随分と勝手にできているものだと感じながらも彼は沢庵を咀嚼した。すこし、しょっぱい。
十分時間をかけ間食してから、大倶利伽羅は食器を流しに置く。本日彼は非番であった。燭台切は日が沈むまで戻ってこないだろうし、やたら絡んでくる鶴丸も遠征を任されここを出ている。暫し一人の時間を満喫していたが言われた「あの子をよろしくね」が胸で魚の小骨のように引っかかっている。気持ちが悪い。少々早い気がしないでもなかったが、青年は審神者の部屋へと足を向けた。
「入るぞ」
一応一声かけてから障子を横滑りさせると、机にかじりつく小さな後ろ姿が視界に入った。背中をしゃんと真っ直ぐにするのも億劫なのか、猫のように丸まっている。書物とくっつくのではないかと思うくらい近かった女の顔が振り返った。約半分が白い布に隠されているために表情から何を考えているのか読み取れない。すくりと立ち上がると彼女は浅黄色の座布団を取り出し自分の座椅子の隣に放った。
「座りなよ。御煎餅もあるよ」
「いや。別に腹は空いてない」
「そっか」
しゃがれた声はそこで途絶えた。黙々と文章を追い筆を動かしを器用に行う様子を眺めながら大倶利伽羅は身体を後ろに倒す。先月変えたばかりの畳は濃い匂いがした。
どれほどの間寝転がって彼女をじっと見つめていただろうか、大きく欠伸をすると体ごとこちらに向けてくる。だるそうな双眸に映る自分もこれまた脱力しきっていた。今敵に攻め込まれでもしたら大変なことになるなと頭の隅で思う。伸びてくる右手が大倶利伽羅の前髪を掬った。存外髪質の良かったそれに審神者はむむっと表情を歪める。
「私よりさらさら……」
「使ってるものは一緒だろう」
「理不尽でごめん、腹立つー」
「まったくだ」
呻く女はほとほと呆れるに無防備であった。なんとなく、本当になんとなく自分よりも細い二の腕を掴み引っ張ってみる。それからさらり自身の唇をマスクに軽く押し付けた。ほのかに伝わる温もり、審神者は瞳孔をかっぴらきながら固まる。何が起きたのか、わからない。とでも言いたげな目顔。凄まじく脈が速いのを確認するとゆっくり彼は距離を取った。
「おい」
「……え?」
「今日はさっさと布団に入って、温かくして寝ろよ」
「あ、うん」
ぽんと頭に大きな掌を乗せられる。けれども十秒もしないうちにそれは離れていき、続いて彼も部屋を出て行った。残された女は溜息を吐き出す。身体が顔が、熱い。四十度くらいありそうだ、あったら困るけれど。いったい何をしに来たんだ、あの人。それに加え何故ほっとするどころか、どこか名残惜しく思っているのか。審神者自身にもよくわからなかった。