「幸せなうちに手を離してしまおうか」(薬研)
「ほら、そこ座って足出して」
審神者が指を差す黒いシンプルな椅子に薬研藤四郎は無言のまま座った。先刻の出陣で敵の太刀にやられた足の傷は思ったよりも深いらしい、黒い靴下でもわかる程度に血が染み込んでいる。溜息を一つ吐き出すと彼女は屈んで傷口を見た。完全に貫通しているそこは赤い肉が見えている。あまりの痛々しさに思わず眉間に皺が寄った。
「わ、痛っ……。よく歩いて帰ってこれたね」
「アドレナリン出まくってたからな、今になってズキズキするぜ」
「当たり前だよ、まったく……あんまり心配かけないでよね」
手入れをし始める審神者の顔を薬研は見下げる。懇切丁寧な体温と歪められた表情が酷く不釣合いだった。最初はこんなに大量の血をみたところで意識をフラフラにさせていた女が、と思う。とたん唐突にこの顔を踏んづけてやりたいという欲が芽を出し始めた。瞬間思考する暇もなく自由な片方の足が動いており、ぎゅっと軽く彼女に乗った。垣間見える瞳は驚きからか丸く見開かれてる。
「……やげ、ん?」
保うけたような声は嫌に耳触りがよかった。
「君の二酸化炭素でおやすみ」(薬研)
「うー……薬研」
「ん?どうした大将。……大将?」
正座をしながら洗濯物を畳んでいた薬研に、審神者は雪崩れ込むようにして抱きついた。そのままズルズル体を落としていくと、俗世間で言うところの膝枕、という形を取る。ただ一般と違うところといえば彼の腹の方へ顔を向け埋めている部分だけだろうか。ぎゅっと押し付けられるそれにもしかして泣いているのだろうかと心配するも嗚咽は聞こえて来ない。無理に顔を見る必要も無いなと判断した少年は幼子を扱うように頭をよしよしと撫ぜる。五分はそうしていただろうか、漸く審神者が口を開いた。
「審神者、やめたい」
またか、そう思う。この人はごくごく稀にこうして発作的に自分の人生を憂う。既に深い関係であった二人の間では職に就くまでの一連の流れを聞かされていたし、普段底抜けに明るく到底悩みなど持たないように見える女の内に潜めた葛藤を彼だけは心得ていた。これまで育った時代でないどころか、家族や友人にも会えない。どうにも自分等では足掻いても消せない孤独が、確かにこの小さな体躯の中にあるのだと。驕るでもなく彼女に一滴も余す事なく愛情を注いでいるし、同じように誰とも違う心を預かっている。だけどもどうしようもない感情にぎりと奥歯を噛みしめる他ない。元は無機物で刀剣である自分もそれはまあわかる気持ちであるからこその悔しさだった。全てを満たすことのできない事実が腹立たしかった。
「じゃあ、心中でもするか」
出す答えはいつもこれである。審神者を辞めた彼女はどうにもならない。政府によって運命を決められるくらいなら、一層入水でも飛び降りでも手首を掻っ切るでもいい、共に死ぬ方が幾分かマシっていうものだろう。されど自分は狡い。彼女がいやいやと首を横に振るのを知っているのだから。
「薬研に死んで欲しくない。みんなに消えて欲しくない」
「……そうだな。俺もどっちかっていうと、大将と仲間と一緒にいたいかな」
すまんな、乾いた口の中で謝罪を唱える。自分はきっと、彼女が欲している言葉を知っていた。回される腕がより一層力強くなるのを感じながら、彼は瞼を伏せる。殺してくれと小さく震える声を薬研は今日も聞こえないフリをして踏み潰した。
「灰の水曜日」(鶴丸)
「桜の下には死体が埋まっているらしい」
背中を向けながらザクザク桜の木の根元に己の身長ほどの穴を掘る鶴丸は、小さく呟いた。独り言のようなそれにあえて「うん、聞いたことがある」審神者は答えてやる。本丸内に植えてあるうちで最も若くまだみすぼらしい成りをする、薄桃色の花を咲かせる木は殆ど緑になっていた。四月ももう下旬となれば当たり前のことだろう。少しだけ寂しい気分に陥る。審神者になる前は道すがら横目でちらりと眺める程度だったというのに。関わりを深く持つほど別れが悲しくなるのは人でも物でもさほど変わらないようだった。
今年の花見では岩融と次郎太刀が飲み比べをしたり、酔いの回った一期一振が普段と逆で弟達に世話をされていたりとなかなかに忙しなく楽しかった。自分も普段の任を忘れ、どんちゃん騒ぎまでとはいかぬが、用意された酒とつまみを口にし高揚していたのを覚えている。鶴丸は続ける「何故そう言われるようになったんだろうな」。その問いかけに口元へ手を持って行き少女は考える。
「梶井基次郎の小説の冒頭に、あった気がする。短編で、ズバリ櫻の木の下にはというタイトル」
「ははあ、なるほどなあ。主らしい回答だ」
「鶴丸はなんでだと思う?」
よっこいしょと穴から這い出てきた彼は服についた土を払ってから女のことをじっと見つめた。暫し沈黙に包まれる二人、女の頭にある簪についた鈴が、ちりんと鳴った瞬間鶴丸は破顔一笑する。ぞわりと全身の毛が逆立つくらいに、美しく儚い笑みだった。
「桜の花は埋まっている死体の血を吸い上げて染まるんだ」
とん、浮遊感。叫び声をあげることも叶わず彼女の体は深い深い穴に落ちた。自力で出ることが不可能な高さのそれに冷や汗が落ちる。擦りむいた腕が、痛い。つるまる、か細い声で呼んでみるものの彼は楽しげに笑いながら見下ろしてくるだけだった。誰かを驚かせるために落とし穴を作っているものだとばかり思っていたのに、これは。違う、ちがう。
「来年はこの木も、綺麗な色を出すだろう」
降ってくる土に汚れる着物が、審神者の見た最後の景色だった。