参った、帰りがかなり遅くなってしまった。本丸に帰還した薬研は疲れた体に鞭を打ち、廊下を早足で行く。別段大した敵もいないとやや油断していたのが良くなかった。一瞬死角を付かれ軽傷とは言えど秋田に負傷させてしまったのだ。まだまだ戦慣れをしていないからよろしくね、薬研。そう大将が送り出してくれたのにまったく面目が立たない。大丈夫だと気丈に振る舞う兄弟を手入れ部屋に預け、完治するのを見届けてから部屋へと送っていった。主君が待ってるのにごめんね、薬研兄、だなんて。頼りがない兄貴だなあ、自己嫌悪。目的の部屋の前に辿り着くと、薬研は深呼吸を二回だけしてから障子を開けた。なんでもないように、いつものように装って。ガラリ、誰かが入ってくる気配に上に提出する報告書を作成していたナマエは顔を上げた。待ちわびた少年の姿が目に入る。
「お帰りなさい、薬研」
「なんだ大将、こんな時間まで起きてたのか」
「……うん。待ってた」
いつもなら自分が敷いている布団も既に彼女が準備していたようだった。柔らかく微笑むとナマエは作業を中断し、突っ立ったままの薬研を手招きする。一瞬だけ躊躇った彼であったが主命は絶対と脳髄の裏側で言い訳をするように反復させ、彼女の元へと近づく。ふわり、華奢な腕に引かれ女の匂いに包まれる。同じ石鹸を使っているはずなのに、どうしてこの人はこうもいい香りがするのだろうか。不思議でならない。幼子のように撫でられる髪、気持ちよさに目を細める。兄弟たちの中では兄貴分的存在な自分を、こんな風に甘やかしてくれるのは彼女だけだった。幼く見えても成人しているこの女は中々に侮れない。
「薬研」
「……どうした、大将」
「こっちの台詞なんだけど」
「は?」
体を少し離されてからコツン、今度は額同士をくっつけ合う。琥珀色をした瞳の中に呆けたような間抜け面の自分が写っていて、おかしい。至極真面目にナマエは続けた。どうしたの、薬研。鼓膜を揺らす声はやはり優しい。視線を上方向にずらしながら彼は沈黙を貫いた。どうしたのって、別に。そんな彼に溜息を吐き出してから彼女は続ける。まず第一にいつも「お帰り」といえば「戻ったぜ」と言ってくれるのにそれがなかった。第二に服装が乱れている。戦が終わって手入れにここへと連れてこようとしても、汚れているからと必ず着替えてくる薬研が。そして最後に、表情が沈んでいる。ナマエは指を三つ折りながら息継ぎもせずにそれを言った。膝の上に乗る少年の目が見開かれる。
「はは……大将には敵わんな」
「審神者を舐めちゃいけないなあ、薬研。それに……誰でもない貴方だから、余計に」
「……ナマエ」
ギュッと力強く自分を抱きしめてくる薬研に相当凹んでいるのだろうなあと、ナマエは背中をポンポンと叩く。この男はいつも自分に頑張りすぎだとか意地っ張りだとか言うけれど、自身が一番気を張り詰めているのに気付いているのだろうか。もしかしたら……もしかしたらこうして一番近くに彼を置いていることも負担になっているのかもしれないなあ。だからと言って離すことはできないのだけれど。酷い主君だ、自分は。エゴと愛情と切なさと、様々な感情が混じる身体で薬研を包む。
「兄弟を、秋田を怪我させちまった」
「うん……」
「大将にも頼まれてたのに、何やってるんだかって思ってな。柄にもなく気落ちしちまった」
「薬研、」
「なあ大将。俺はちゃんとやれてるか? あんたの刀として恥ずかしくないか?」
嗚呼、なんて馬鹿な人だろう。そんなの私の方が聞きたいのに。祈ることしか出来ずに本丸で皆が無事に帰ってくるのを待っている、私の方が。ゆらゆら、琥珀が揺れる。
ねえ薬研、一寸置いてからナマエは口を開いた。ここは誰もが傷を負わない優しい世界ではない。一秒先の未来に不測の事態が起きることだってもちろんある。それでも誰一人欠けずに折れずに、戻ってきてくれたではないか。皆を率いる重圧を背負い、貴方は帰ってきてくれたじゃないか。それを誇りに思えど恥ずかしく思う人間がどこに居ていいと言うのか。いい年をした大人が涙声になるなんて恥ずかしい。それでも真っ直ぐとこの大人びた少年に、甘えることが下手な彼に伝えなければならないのだと。強く、思う。そんな主に薬研は大人しく、降ってくる言葉の雨をただただ享受していた。
「薬研、辛かったら話してくれていいし甘えてくれてもいいんだよ。私だっていつも、貴方に助けてもらってる」
「……」
じゃあ、もう少しだけこうしていたい。彼らしかぬ言葉にナマエは驚き、次に笑った。朝日が昇り朝食の匂いが立ち込めてくるころには、きっといつもの世話焼きで頼もしい薬研に戻っているに違いない。この弱く愛らしい姿は、自分だけが知っていればいい。そう思った。